18 ユミットの心理を探る

地球に手紙が寄せられはじめてから、かなりの月日が経った。そろそろユミットの手紙の形式や著者の戦術を分析すれば、彼らの心理構造もモデル化できる時機である。

すでに述べたように、これらの手紙には高度の知性と途方もない無邪気さが奇妙な具合に混在しており、人間心理のある面については深い洞察力を示しているかと思うと、

まったく理解できていない面もある。地球人とユミットの心理構造の大きな相違を手がかりとして、思いきっていくつかの仮説を立ててみることにしよう。

すでに述べたようにわれわれの惑星地球では原初の大陸が細分化して、それが移動しているのだが、ユミットの手紙によると、彼らの惑星ウンモではそのような現象は生じてい

ないそうである。

そうすると彼らが当然ながら指摘しているように、二つの惑星の社会には大きな構造的相異が生じてくるはずだ。

われらが地球はおびただしい数の民族に分かれ、まったく違う言語や文化が無秩序に同居している。

一方、惑星ウンモのほうは地形がほぼ平面に近く、地理的にも民族的にも言語的にもきわめて均質であるという。

手紙に書かれてあるように、この星の住人たちは、姿形も知性も精神的な面でも、人による違いはずっと目立たぬものなのだ。

ここで 「個人」という言葉を使うのを意図的に避けるのは、こと「ユミット」に関してはそのような言い方が適切ではないと判断しているからである。

われわれ地球人にとって、正常な個人とはどんな人のことを言うのであろうか? それは同類に対して個性化の、差異化のプロセスを完成させた人である。

自己の身体像を明確に把握し、心理的にも独立心を獲得した人である。

母親との「へその緒を断ち切り」、父親の庇護からも、西洋人が 「エディプス・コンプレックス」 に関連させているプロセスを経て、解放された人である。

精神的に言えば 「彼は父親を殺した」 ことになる。彼は社会的存在としての制約は受け容れながらも、自分の自我についての確固たる観念を持っている。

周囲の人間は生物学的には自分と同じ存在だが、要するに他人なのだ。

このような差異化は、人工的な種の形成にまで行き着く。

自分とは違う、競合する種に攻撃を仕掛けるダーウィンの自然選択を地で行く恰好で、このような人間は、自分と同じ種の存在を破壊し、大量虐殺をくり返す可能性もあるのだ。

だが大量虐殺は動物のナワ張り争いやメスの征服とは何の関係もない。動物たちの行動はコード化されており、相手を肉体的に排除する意図はまったく含まれていないのである。

フランスには、人間は人間にとって狼である、という諺がある。

これが真実だとしても、さほど深刻な話ではない。狼たちは仲間同士で闘うにしても、負けたからといって相手に殺されるようなことは絶対にないのだ。

せいぜいナワ張りとか、支配者としての地位とか、生殖能力とかを失うくらいですむ。

人間は自分の同類を殺すことも辞さない、唯一の哺乳類なのだ。

心理学専門のパストールの考察するところでは、地球人のように遺伝的適合性のある同じ種に属する同類が、自分は他の違う種から生まれたのだと錯覚する適応プロセスには、

無意識が積極的に関与しているはずだという。

このような差異化の、このようなニセの種形成の人工的適応メカニズムは、自然地理学的な環境が原因で別々の言語や風習をたまたま獲得するに至ったことによって、

さらに加速されることになる。

人間は自己の差異を自覚した、と言う代わりに、人間は同類であることの自覚を失ったと言って然るべきであろう。

無意識の分野での精神活動を大幅に縮小させ、意識的なものに方向転換することが、人類が正常な存在としての地位を得るためには必要である。※1

同じ人間でも生後一八カ月までの幼児の場合は、心理学者が 「鏡像段階」と呼んでいるレベルを越えておらず、ユミットの心理との類似性が残されている。

幼児は自己の全身像についての一貫したイメージを持ち合わせていない。鏡を覗きこんでも、そこに映っているのが自分だとは認識できないのである。

自分の手足を見ても、それが自分のものだとは識別できない場合すらある。あらゆる面で自他の区別がつくようになるのは、この 「鏡像段階」を越えてからのことなのである。

それでは動物はどうだろうか? 動物もやはり種としての心的現象を生きているという意味では、ユミットと共通点がある。

犬に初めて鏡を与えると、まるで仲間に出会ったときのように尻尾を振るものだ。

映っているのが自分の姿だとは認識していないし、現実にも自分の体についてはかなり漠然としたイメージしか持っていないものと思われる。

犬は人格を持っていない。自然の状態では大の行動はすべて種の利益に沿った指令によるものなのだ。

自然界にあっては、たとえば身元の確認は嗅覚による。同じ種、同じ族の、同じ家系の個体は、匂いによって互いに識別されるのである。

人間はそうした動物の性質を変え、たとえば自分の名前が呼ばれたらそれに応えるように、別の行動を覚え込ませただけである。

正常な個人は自分の正体についての確たる感覚があり、鏡に映っているのは自分であることを認識している。

それに対してユミットは個人という観念が非常に曖昧なものにとどまっているという意味では幼児や犬と同じなのだ。

しかし、それでも彼らのようにきわめて高度な知性を持つことは可能なのである。

それが事実であれば、無意識の領域がほんの少ししかないことも領けるし、芸術的感性や想像力が驚くほど欠如しているという状況にも符合する。

彼らが研ぎ澄まされた嗅覚を維持していることも、このような仮説と矛盾するどころか、逆に裏付けとなるものだ。

ユミットの手紙には、惑星ワンモで最大の刑罰の一つには、罪人を素裸にして透明の檻に入れ、さらしものにすることだとある。それこそ仮借ない責苦なのだと。

これが厳しい処罰だとは、思わず苦笑いしてしまうような話ではないか。だがユミットには着る物でオシヤレするという感覚はもちろんない。

洋服の色や書きこまれた文字などは、彼らの職業や社会的地位の印となっているのだそうだ。

この話を突きつめて考えてみれば、服の色や模様が彼らの個性を規定してい.るということになる。

ユミットの服を剥ぎ取るということは、とりもなおさず本人のアイデンティテイを奪うことになるわけだから、およそ考えうる限り最も残酷な精神的責苦であることにも納得がいく。

地球の軍人にとって最も重い罰は、階級の剥奪であり、制服を着るに値しない人物だという評価を下すことである。処罰された軍人は、もはや一介の市民にすぎない。

この男が職務にすべてを捧げていたのだとしたら、彼はもはや何者でもなくなってしまう。同様にして公務員を免職したり、市民から公民権を剥奪することもできる。

部族的な構造においては、追放は正真正銘の社会的死なのである。

ナチスの強制収容所では、囚人の肌に登録ナンバーが刺青された。

数字が彼らの正体となったのである。名字を剥ぎ取り、登録ナンバーで呼ぶことによって、彼らの個人性を否定し、精神的なダメージを大きくしたわけである。

惑星ワンモでは男や女の個人性を剥奪するには、彼らを裸にすれば足りるものと推定される。

ユミットたちは暗闇の中でしかセックスできないとも報告されているのだ。 それを笑う前に、もう少し考えてみよう。

彼らの洋服には、もしかしたら男女の性別のマークもついているのではないだろうか (地球でも一般に青は男の服の色だし、赤は女の服の色だという区別があるくらいだ)?

いったん服を脱いでしまうと、男も女も見た目には区別がつかなくなる。

だからとにかく早く灯りを消して、おそらくは嗅覚によって掻き立てられる原始的本能に身を任せようとするのであろう。

このような社会では、男女のカップルにはどんな意味があるのかという疑問も湧いてくる。

ユミットの手紙によれば、生涯の伴侶となるべき未来のカップルは、きわめて厳格な検査を受け、二人の結びつきが種全体の利益にかなうものかどうかを判定してもらう。

そして許可が下りて初めて、一緒になることができるのだそうだ。われわれにはとても我慢できないような制約である。

だが当人たちにしてみれば、個人対個人の二人の「感情」なぞ、初めから持ち合わせていないのだから、これで不自然なことは少しもないのである。

セックス自体は二つの個性の出会いというよりも、むしろ全体の調和への参入となる。それは二人だけの、というよりは社会的な意味のある行為なのだ。

惑星ウンモの人々のセックスには、タブーとされる危険のあるような要素は存在しない。彼らには無意識がごく僅かしかないのだから、幻想も湧かないのであろう。

灯りを消す必要があるからといって、それがいわゆる恥しさのせいだと考えるのは間違つている。理由は前述のように、まったく別なところにあるのだ。

ユミットの家族の核となるカップルは、われわれとは極端に違っており、地球人には理解し難いような動機で行動する。

逆に言えばユミットにとってもやはり地球人の行動は理解し難いものに映るだろう。

オルダス・ハックスレーの『すばらしい新世界』には、われわれの社会とは基盤も構造も異なる世界が描かれている。

だがこの小説の面白いのは、通常の意味での個性や男女関係がまったく否定されている点だ。

ハックスレーの小説では、生殖は蟻塚の女王アリのような、巨大な子宮の内部で行われる。

じつは社会の成員は皆独身者なのである。しかも彼らには名字というものがないので、自分で好き勝手な名前を発明して付けている。

ユミットの世界は、もちろんハックスレーの世界とは違う。だがわれわれの世界とはかけ離れた人間関係の世界であることだけは間違いない。

着る物の色や柄、そして登録ナンバーでしか自分と他人を識別できないような人間は、地球では異常と見なされるだろう。

だが自我を禁止するという規則があり、逆にそれを持っこと自体が異常で「反社会的で」病的だとされる社会を構築することも決して不可能ではないのだ。

このような社会では種の利益が何よりも優先され、知的活動もすべてそのために行われる。

知性に対し、自分本位の目的を最優先させているわれわれには、なかなか理解しがたいことではある。

人間は自己中心的でいるのが自然な様態であるとすれば、ユミットは他者中心的だと言うことができる。彼らの興味は自己にではなく、ユミットの言う「重心」に集中している。

その意味では心理的には全体主義の傾向を帯びているのである。

惑星ワンモの歴史において、一風変わった、自己中心的な人物が出現したことがあるそうだ。

彼は「われこそは人類の頭脳である」と公言し、「皆の者は世界の中心であるわれに関心を集中し、われの命令に従え」という意味のことを言い放って、易々とユミット全体を支配下に治めたと言う。

このエピソードはユミットの全体主義傾向のひとつの具体例として考えられよう。このようなメカニズムは、地球でもナチズムやスターリニズムとして、すでにお馴染みのものである。

惑星ウンモの歴史に話を戻そう。

自我が弱々しく、個性がほとんどなきに等しいような人々には、自我防衛のメカニズムが備わっていないために、このような支配戦術にはいとも易々と引っかかってしまう。

ユミットの男や女には、生涯消えぬ登録ナンバーが家畜のように刻印されており、唯一の支配者たる者は、種全体に対してその所有権と生殺与奪の権利を有するのだと、

手紙にも報告されている。

手紙はさらに、悪事を働いた者に対する処罰は、最悪の場合どうなるのかという点にも言及している。

最大の罪は個人に対するものではなく、種全体に対してダメージを与えることなのだ。

そんなとき所轄の役人たちは罪人の肉体の、象徴的な意味での所有者となり彼らを生物学を含めた様々な実験の材料として活用することもある。

もちろん肉体的には損傷を与えぬように細心の注意は払われると、ユミットたちも断ってはいる。 だが心理的には、彼らは存在することをやめてしまうわけなのだ。

或星ワンモの歴史には、われわれの歴史と同じように暴力的で残酷なエピソードが数々秘められている。

それらの事件は現実のものであり、どれもみな全体主義的な色彩を帯びている。それは諸民族の係争ではなく、惑星全体に及ぶ混乱なのだ。

ユミットから送られてきた手紙はどれも著名人りである。この種の署名には特別な意味があるのだろうか?

手紙の末に記されている文字は姓名なのか、それとも身分証明コードなのか?

これには例外なく番号が打ってある。どう考えてもユミットの心理は、集団的性格が濃厚で、個人的な部分がほとんどないという印象を受ける。

彼らが二人で話しているところを想像してみよう。

「手紙にはやっぱりサインがいるかな。地球人はこの辺にするんだよ」「でもサインって言っても、ぼくらには名前がないじゃないか」「じゃ君の登録番号でも書いておけば?」

「この世」でこのような精神構造をしているのだとしたら、「あの世」の集合的魂にも、その対応物が存在するはずだ。

彼らがこの触知可能な世界で、すでにひとつの集団的存在として、行動しているのなら、論理的には「あの世」でも同じことが起こっているはずなのだ。

ユミットたちは、「あの世」の集合的魂を経由して互いに交信するのだが、この種の能力はテレパシーと呼ばれているものに近い。

彼らは「仮りの死」とも言うべきトランス状態にわが身を置くことにより、この交信手段を自由に活用するのだという。

そして被らがどこにいようとついてまわる「あの世」の彼らの集合的魂を経由して、きわめて遠距離にある惑星ワンモと交信することもできるのだそうだ。

ユミットの脳の特殊な構造も、集合的魂と情報交換をするためのものなのである。

ここでユミットの心理の特徴をよく示すエピソードを紹介しておこう。

手紙によればある時期に惑星ウンモの住人たちの間に、テレパシー交信器官を侵す病気が発生した。

この病気に感染した者がいるおかげで通信は大混乱に陥り、惑星の機能は深刻なダメージを受けた。これは種に対する犯罪である。

感染者たちの居場所はついに探しだされ、彼らはマイクロ波ビームで射殺されてしまった。このような事件が手紙にはじつに淡々と、何の感興も伴わずに語られている。

まるで魂のない肉体から悪性の腫瘍でも切除するように、人の命は抹殺されてしまうのである。こういった話にも、個人よりも種の利益が最優先される傾向が窺える。

もしかするとテレパシーがユミットの標準コミュニケーション方式として定着したために、音声はもはや進化にとって重要性を失い、二義的な属性にすぎなくなって退化してしまったのかもしれないとも考えられる。

音声言語は、ひとつの集団的存在として行動するようになった種にとっては不適当な、時代遅れなものとなったのかもしれない。

惑星ウンモの人間関係を示す図式は、われわれの場合とは、知性には共通点がありうるにせよ (でなければコミュニケーション自体が成り立たない)、相当かけ離れたものだ。

家族の絆という観念ひとつ取ってもまるで違っており、親は子供が一三歳になったら親もとを離れることに同意する。

子供が家を去っても、個人よりも種全体に対して愛情を抱いているのだからという単純な考え方のせいで、別離によって気持が引き裂かれるというようなこともないのだそうだ。

かつてフランスの軍人がこう言ったことがある。「人一人が死ぬというなら心が動かされるが、死者百万となると、これはもう数字の問題だ」

ユミットならこう言うところであろう。「人が百万人死ぬというのなら心が動かされる。一人くらいは、取るに足りぬことだ」

地球人の場合は愛情は個人に、身近な環境に、つまりは家族に集中する。

ユミットの場合はこれが種に集中するのであり、彼らは「超感覚的」とも言うべき感性のおかげでそれが自然に行えるのである。

生物学的には、音声によって近距離で交信するしかない地球人には、このように全体を直接指向するようなコミュニケーションの可能性はない。

だが現代ではテクノロジーによってそれが少しずつ実現されようとしている (パストールは、それは進化の補償メカニズムではないかと言っている)。

人間は、文字から始まって、遠距離に音声を送るようになり、次いで映像と音声を送信するようになったわけである。

今日では人工衛星の媒介によって、通信の世界化が着々と進んでいる。

このような現象にはきわめて重要な意味があると思われる。おそらく種を真の社会的変化に向けて準備するのは、文化の面でも深刻な改変を伴うものなのであろう。

このような進化は、テクノロジーと同じことで、それ自体としては善いも悪いもない。単なる自然の、不可避的な現象なのだ。

だがある惑星が、自分で自分を「世界化」するようなことはありえない。

そのためには、他の惑星と生物学的、文化的、心的な情報交換という、次のステップに向けて準備することから始めなければならない。

とはいえ、ユミットの手紙には、それが必ずしもうまくいくとは限らず、なかには方向転換するのにものの見事に、そして決定的に失敗し破滅してしまった惑星系もある、

と書かれてある。

人間には自由選択の幅が広く与えられている。ある意味では自然は自らの想像力をしだいに掻き立てており、そのために進化の能力が増大しているのだ。

自然は常に経済性の原則に従い、可能なかぎりバイパスを見つけ出そうとする。

だがそのおかげで進化の時間的ズレによる緊張が生じると、あるいはもっと単純にあまりに性急な成長による事故が、つまり核戦争や公害や生物学上の事故が生じてくるのである。

今度はこのような考察を踏まえたうえで、一九五〇年に初めて地球に降りたった探検隊が採用したと思われる戦術を想像してみることにしよう。

まず彼らの集合的魂とのテレパシー交信を司る脳の器官と同型のものが脳にある地球人を探しだせ、との指令が下っていたと想像される。

スペインの接触者たちは、彼らが選ばれたのは脳にこの器官が発見されたからだということを、一九八八年にユミットから教えられているのだ。それなら疑問も氷解する。

これほど精密な科学情報が、なぜそれを理解するほどの能力のない人たちにもたらされたのか、という疑問が。

ユミットにとって、理解されるかどうかは問題ではなかったのだ。

手紙の受取主には、自分たちのと同じような送受信器官がある、と少なくとも彼らはそう考えていたし、それだけで十分だったのだ。

たとえば数学者がある講演をラジオで流してほしいと思い、放送局に録音ずみのカセットを持っていくとしよう。

カセットをデッキにかける局の技術者が中味を理解しているかどうか、いったい誰がそんなことを気にするだろうか。

くり返し言うが、これらの手紙は、誰もが読めて然るべきものである。

受取人となった接触者たちは、仲間うちだけで手紙のことを話し合うのが常だったが、ユミットとしては地球人の集合的魂に向けて情報を送りたい希望であるこどを、

一九八八年には明言しているのである。

問題は彼らがどうしても地球人の集合的魂にはアクセスできない、と告白している点だ。 地球人とテレパシー交信する試みは、すべからく失敗に終わった。

彼らには地球人の集合的魂が解読できなかったのだ。それは地球人専用なのだ。

したがってユミットには自分たちのメッセージが通じたのかどうか、直接確認する手だてはまったくないわけである。

送信が功を奏したかどうか調査するには、地球人の、ことに科学者たちの行動の変化を追跡しなければならない。

ところがこの三〇年というもの、ユミットがこの点では大成功を収めたとは、とても言い難いのである。

おそらくわれわれ地球人の心的現象は、平均的にはユミットの心的現象よりも性能が悪いのであろう。

地球人が 「発信」すると、「あの世」 の集合的魂の内部では電話が鳴るのだが、誰も出はしない。出たとしても次のような決まりきった応答しか返ってはこないのだ。

------回線が混み合っておりますので (もしくは通信システムが一致しないので)、後ほどおかけ直し下さい。

ユミットは社会的にも心理的にも、われわれとは違うふうに機能している。ユミットはまず何よりも種としての存在であり、彼らにとって個人であることは副次的なことにすぎない。

地球人はまず何よりも個人であり、種としての自覚たるやじつに漠然としたものである。

個人一人ひとりが規則を踏まえたうえで、自分だけはその例外なのだと考える段階にあるとも言える。

したがってそれぞれの集合的魂におけるユミットの社会と地球の社会のイメージは、非常に異なるものだと想像することができる。

ユミット一人ひとりに対応する「あの世」の心的現象の拠点は、相互連絡がきわめて緊密であるために、彼らは強力なテレパシーの能力に恵まれているものと推定される。

地球人の場合には拠点同士のこの種の相互連絡が、まだ萌芽状態の域を出ていないのであろう。

そのかわりこれらの心的現象の拠点は、人間の想像力や芸術性と見合うほど、きわめて多様で豊かな構造をしているものと考えられる。

地球人はユミットよりはるかに独立心を有しているが、社会性は格段に弱いのである。

すでに述べたように、ユミットたちは地球の集合的魂にアクセスできていないから、自分たちの情報戦略がはたして功を奏しているのか確認のしようもない。

おかげで、彼らは「ウンモ中心主義」による誤りを犯すことになるのだ。

頭の固い役人のように頑固に、「良好な発信」のできる可能性がある選ばれた人の脳の構造に固執し、本人の実際の知的心理的能力を度外視してしまうのだ。

ごく最近、八〇年代の終わりに、心理的には明らかに適正を欠いているマドリッドのドミングスという名の技師をつかまえて実験しょうとしたのも、この頑固さのせいである。

テレパシーによるメッセージがほんとうに発信され、テレパシーを司る脳の部位が機能する場合でも、集合的魂が極端に細分化され、質も均質でない場合には、やはりうまくいかないものだ。

「この世」の回路を使うこと、つまり情報を理解してそれを地球人に分かるように翻訳し、書物のようなもっと普通のチャンネルを通じて広めることができる人物に接触したほうが、

よほど効率がいいだろう。 本を読む人間の中には、すぐれた発信者が見つかるかもしれない。

そしてうまくいけば彼らが地球の集合的魂の目覚めを促し、望ましい全体化を生じさせつつ、情報を発信してくれるかもしれないのである。

だが個人一人ひとりに向けて働きかけることは、個人的存在がないに等しいユミットにとっては、きわめて革命的なやり方だ。

わたしには実用に堪えるほど発達した発信器官は備わっていないが(断っておくがわたしは全然テレパシーを使えないのだ)、

それでも本を書き、彼らの反応を挑発することで、地球人の心的現象の実態にそぐわない彼らの戦略を、少しは変えるように仕向けることができたのではないかと自負している。

ユミットとのコミュニケーションの方式としては、・どういうものがありうるのだろうか?

われわれの心理は極端に違っているのだから、唯一共通なものがあるとすれば、それは知性と論理のチャンネルであろう。

われわれの心的現象は同じではないし、心理的にも違っている。だが少なくとも部分的にはわれわれの知性という共通点によって交流が可能なのだ。

とはいえ、言語の違いも相当なものだ、と手紙の著者は言う。ユミットの言語は二重言語なのである。※2

ユミットの頭脳の中で、無意識の欠如によって空いた場所は、一種の二重意識によって占められている可能性がある。パストールはこの第二の意識は、種に関連する意識的知性に相当するのではないかと考えている。そしてこの二重の言語はじつは、個人と集団という二重思考と表裏の関係にあるのではないか、というのである。

われわれは膨大な量の手紙の内容を分析していくうちに、著者たちの心理モデルの構築を試みる必要に駆られた。

その過程で彼らとの間には深刻なコミュニケーションの問題があるらしいことが判明したし、それまではよく分からなかった箇所も、次第に明瞭となってきた。

そして価値判断は極力控えつつ、集団化を指向する種と個別化を指向する種といぅ、心理的適応プロセスが根本的に異なる二つの種についての考察を進めてきた。

この場合、ユミットは集団的心理で、地球人は個人的心理で機能しているのだから、二つの惑星の住人の一方の側から見れば、他方は異常だということになろう。

もし仮に、個人的心理で機能しているわれわれの社会が、なにか劇的な、自らのシステムを変革せざるをえない状況になった時、ユミットのような所有の感覚のない社会を

つくつていくということはありえるのだろうか。

たとえば、地球の島を一つ想像してみよう。 長いこと他の世界との交流が途絶えているうちに、この島の住人たちがなんらかの原因で心理的には前述の「鏡像段階」を抜けでない

まま、知性だけがどんどん発達したものと想像するのだ。

自己の全体像を把握するに至らない彼らは、自他の区別が曖昧なまま自分たちの心的現象をつなぎ合わせて一個の集合的存在として機能していく方向にむかい、

それなりに生活に必要なものを管理していくことが考えられないだろうか。

このような心理構造の人間たちが「正常な」われわれに再び出会った時、どれほどコミュニケーションが困難であるか、それは想像に難くない。

今は亡きわが友人エメ・ミッシェルは、UFO研究家として世界的に有名な人物だが、彼は正常な人間とは「自分とは違う人間を幽閉することに成功した人」のことだと言っていた。

ユミットが地球人と接触する際に慎重に予防線を張りめぐらせた背景には、根本的に異なる心理構造に由来する、コミュニケーションの困難性が横たわっていたのである。

※1 フランスの精神分析学者、ジャック・ラカンが提唱した概念で、幼児が鏡に映る自分の姿を見て、身体的統一性の自覚を得ることにより、想像上の自我像を獲得する段階を言う。

※2 われわれにしても実質的には意識的構造のメッセージと、無意識のメッセージという二つのメッセージを組み合わせて発信している。

その意味では、やはり二重言語を持っているのだ。