第9章 ロスアラモス研究所

プルトニウムはもう信じられないというに等しいほど異常な物質である。

ある条件下では、ガラスと同程度に固くて脆い。だが他の条件下では、プラスチックや鉛のように軟らかい。空気中で加熱すると燃えたりすぐ粉々に砕けるし、室温下ではゆっくり分解する。

室温から融点の間の温度で5回以上の相変化を起こす。不思議なことにそのうちの2相では、加熱するにつれて収縮する。また、酸化状態も4種類以上が存在する。

これらの性質は、すべての元素のなかで全く特異的である。最後に、プルトニウムは悪魔ほどに有毒で、しかも少量でもそうである。

グレン・シーボーグ(注1)

故ウイリアム・“ウイリー’’・ツアハリアセン(彼は1979年に亡くなりました)に数回会った結果、彼はバイキングの船長はかくもあろうかと想像するような人物でした。

彼は茫洋とした顔つきをしていましたが、荒れた海を渡って船を無事に操って帰港させ、しかもそれを夕食に間に合わせて当然のような顔をするに違いないという雰囲気がありました。

事実、彼はノルウェー船の船長の息子として、1906年にノルウェーのランゲスンドで生まれました。彼は若いとき、家の近くのランゲスンド・フィヨルドの島々の探検をしました。

ツアハリアセンが最初に結晶化した希土類鉱物に魅了されたのはこの島々においてでしたが、この鉱物はその周辺にたくさんあったのです。

大学に入って偉大な結晶化学者ビクトル・ゴールドシュミットのもとで勉強を始めたのは、まだ十歳代のときでした。

ゴールドシュミットは1888年にスイスで生まれましたが、13才のときにオスロヘ移住しなければなりませんでした。彼の父がオスロ大学の化学科教授に就任したのです。

ウイリーは、ゴールドシュミットがそこの結晶を誰にも手を触れさせないように500ドルで買った小島へ小舟を漕いで連れて行くのが日課になっていました。

ゴールドシュミットとツアハリアセンはこれらの結晶を集めに行ったのです。

ゴールドシュミットは結晶構造の研究にⅩ線回折という方法を用いた先覚者の1人でした。Ⅹ線は波長が非常に短い(約10 ̄8センチメートル[訳注:1億分の1センチメートル])電磁波です。

すべての波と同様に、2つのⅩ線も干渉して場合によっては強めあい、また他の場合には弱めあいます。

フォン・ラウエは原子の格子から散乱されたⅩ線の干渉図を描く分野のパイオニアで、その研究によって1914年のノーベル賞を受賞しました。

干渉の結果Ⅹ線の強さが最大になったり最小になったりする模様を解析することによって、原子の格子の性質を知ることができるのです。

格子と同様に、結晶も原子の周期的な構造をしていますが、その基本構造を「単位セル」と呼びます。このセルが結晶中では何度も繰り返して現れるのです。

経験を積んだ人なら、散乱されたⅩ線の回折模様を調べることで結晶の構造、たとえば単位セルの大きさなどについて多くのことを知ることができます。

セルと言った場合、単位セルが立方体のような形をしていることを示しています。

あとで、プルトニウムの単位セルがどのようなものか示しますが、それはツアハリアセンが発見した結晶模様の1つでした。

ッァハリアセンが大学で過ごした5年間に、彼はそのようなⅩ線の干渉模様を数限りなく読む研蹟を積みました。

彼は22才で博士号を取得しましたが、それはその時点までのノルウェーで一番若い取得者でした。2年後にシカゴ大学からの招稗を受けて職につき、その後の44年間を過ごすことになります。

ノルウェー出発の前に彼は結婚し、1931年に息子のフレデリックが生まれています。

私がフレデノック・ツアハリアセンに初めて会ったのは1950年末で、そのとき彼はMIT[訳注=マサチューセッツ工科大学]で博士研究員、私はハーバード大学で博士研究員をしているときでした。

われわれ2人は、重水素の光解離の理論という同じ問題に取り組んでいたのでした。

その後、彼はカリフォルニア工科大学教授に就任して去って行きました[訳注:MIT、ハーバードとも東海岸のボストン郊外にあり、西海岸のロサンゼルス郊外にあるがカリフオルニア工科大学とは遠く離

れている]が、夏ごとにはコロラド大学のアスペン物理学センターで会っていました。

私が彼の父に会ったのは、彼が息子に会いにアスペンを訪ねてきた折でした。

何回か会ううちに、彼が物理学者で、その専門分野はわからないものの、シカゴ大学教授で学科長であることから、著名な学者であろうとは想像していました。

その学科には、フェルミのような人物がいたところです。しかし、私は彼に研究内容について聞いたことはありませんでした。

本書のための調査を行ってみて初めて、私たちが持っているプルトニウムの構造に関する知識がもともとは彼によるものだということがわかったのです。

ところで残念なことに、彼の息子で私の同僚のフレデノックは1999年に心臓発作で亡くなってしまいました。

前章で述べましたように、

シカゴ大学冶金学研究所のシーボーグとそのグループは、1942年以来プルトニウムをそれが生じたウランおよび核分裂生成物さらには他の不純物から分離する方法について研究していました。

これも述べましたが、燐酸ビスマスがプルトニウムと結晶を造り、それが硝酸中で沈殿することを見出しました。しかし、どうしてそうなるか誰にもわかりませんでした○

そこで、燐酸ビスマスの構造についてもっと研究しないといけないということになり、ツアハリアセンにその計画に参加することが求められ、彼は1943年に加わりました。

そのころ、ロスアラモス研究所が活動を始めたところでした。

この研究所とシカゴ大学で研究を分担しようということになり、ツアハリアセンは新たな研究もすることになりました。(注2)

そのようにして冶金学研究所がやることになったこと、すなわちツアハリアセンの仕事の1つは、非常な困難の結果造ったマイクログラム程度の金属プルトニウムの密度を調べることでした。

この密度を知ることは非常に重要でしたが、それは臨界質量が物質の密度に大きく依存するからです。

たとえば、密度をρとし臨界質量をMcの球とすれば、Mcは密度の2乗に比例して小さくなります。すなわちMc~1/ρ2ですから、物質を変えるか圧縮することによって密度を2倍にすれば、

臨界質量は1/4でよいことになります。(注3)

問題は、測るべき物質がまだ手許にないことでした。

プルトニウム製造用の原子炉が稼動を始める前は、サイクロトロンで造られるプルトニウムがすべてでした。

1943年秋にプルトニウム密度測定をすることが決まったときに、ロスアラモス研究所には500マイクログラムのプルトニウムがありました。

冶金学研究所がそれを貸してもらうよう申込みますと、オッペンハイマー所長は冶金学研究所長のジェームス・フランクにあなたのところには4倍の2ミリグラムもあるのだからそれを使えば良いと、

言下に断りました。冶金学研究所でそれを使うことになるのはツアハリアセンでした。長年にわたる経験から、彼は「粉末Ⅹ線回折」と呼ばれる手法に習熟していました。

その名前からわかりますように、これは結晶を砕いて粉末状にした試料からの回折模様を調べる方法です。そのような粉末中では、結晶の単位セルはお互いに勝手な方向を向いています。

この無秩序な配置により、それからの回折模様は秩序ある結晶からのそれとは異なって同心円状の模様になります。

ツアハリアセンのような専門家はそのような模様から情報を引き出すことができるのです。実際に、結晶学者はこの方法を使って結晶構造の同定を行います。

彼は100ミリグラムの粉末状金属プルトニウムを使うことが認められ、その密度を決める仕事にかかりました。そのやりかたの基本は、単位セルの寸法を決め、それからその体積を決めるものです。

寸法は回折模様に反映されるのです。ここで、これらの単位セルが常に組み上がって結晶を形造っているとの仮定がなされます。

セル中の原子は大部分がプルトニウムですが、その質量と不純物量もわかっています。従って、1立方センチメートル当たりの金属プルトニウムの質量、すなわち金属密度が求まります。

1回目に得られた値は1立方センチメートル当り13グラムでしたが、水のそれ1グラム、または鉛の11.3グラムと比較して、プルトニウムは非常に密だということがわかります。

しかし、ツアハリアセンが測定を繰り返してみますと、15グラムと15.5グラムの値が得られました。ツアハリアセンはこのような間違いをするような人ではありませんでした。

何か他の要素が関与しているに違いありませんでした。

シカゴのグループが恐れたのは、以前にシーボーグが言っていたように、プルトニウムが不純物を含んでいて爆弾にはできないのではないかということでした。

そのことを理解するためには、爆弾に関する物理学について説明する必要があります。(注4)

大規模に核分裂爆弾を造るには、未臨界量のウラン235やプルトニウム239の集まりから始め、超臨界状態に非常に急激に持ち込んで爆発的な連鎖反応をさせるのです。

そのポイントは、どうやってこれを起こさせるかです。

広島に投下されたリトルボーイと呼ばれたウラン235について説明します。

ここで述べることは、あとでやや詳しく述べる1945年7月16日にニューメキシコ州アラモゴルドでテストされ、その後長崎に投下されたプルトニウム原爆とも共通点があります。

リトルボーイは「鉄砲方式」(図8)として知られる爆弾でした。

組み立て以前の状態では、2個の未臨界部分からなっており、それぞれの部分は80%という大部分がウラン235であって、残りはウラン238でした。爆弾の一方は飛翔体で、他方は標的になっています。

飛翔体は円筒状リングを組み上げて幅約10センチメートル、長さ16センチメートルにしたもので、こちらが全体の質量の40%を占めていました。

残りの質量からなる標的は中空円筒で、長さも直径も約16センチメートルでした。飛翔体は標的に合うように設計されていました。

リトルボーイでは、飛翔体は高射砲の銃身に挿入されており、発火装置によって銃身中を標的に向かって飛ばされました。

これはこの方式で爆発させられた唯一の兵器です。(注5)これは広島上空で投下される以前には、一度もテストされることはありませんでした。

図8 サーバーが入門講義書で用いた鉄砲方式の組立て図。オッペンハイマーの

同僚ロバートサーバーによって1943年にロスアラモスで行われた一連の講義で

使われました。その講義は「サーバー入門講義」として知られることになります。

(credit:Used by permission of William and Zachariah Serber.)

これをここで説明したのは、重要な一般的原理が含まれているからです。第一の問題は、何が連鎖反応を引き起こしたか?ということです。

単に臨界質量に達しただけでは不十分で、中性子源という着火装置が必要です。ロスアラモスチームは、多くの実験後にポロニウム210とべりリウムを用いる設計に至りました。

ポロニウムはアルファ粒子発生器で、それは飛翔体が標的を衝撃するまでべりリウムから遮蔽されています。

その衝撃の瞬間に、ポロニウムからのアルファ粒子がべりリウムに入射されて中性子を発生するのです。着火装置を作動させる前には、中性子はあまり発生させないことが基本的です。

これがそれほど基本的なことかを以下に述べます。

核爆発にとって2つの領域、すなわち臨界と超臨界があることが重要です。この2つは次のように特徴づけられます。1回の核分裂に際して、ある数の中性子が発生します。

これを平均すると、ウラン235について2.52個、プルトニウム239について2.95個です。しかし、この中性子すべてが次段階の核分裂に使えるわけではありません。

たとえば、あるものはウラン235原子核に捕獲されて核分裂を起さないものもありますし、核物質表面から逃げてしまうものもあります。

従って、1回の核分裂で発生した中性子からこれら効果による損失を引けば、実際に積分裂につながる有効な中性子数が得られます。この数は、通常κで表されます。

もしκが1に等しければ、その系は「臨界」状態であると言います。この状態では、連鎖の次の段階に至る中性子が1個は常にあることになります。

原子炉は丘を1に近い状態で維持されるように設計されます。

他方κが1より大きければ、系は「超臨界」状態にあると言います。爆弾はκが約2になるように設計されます。これについて、先ずそのような領域はどのようにすれば実現できるかを説明します。

プルトニウムでもウランの場合でも、以前に述べたように未臨界の質量にしておきます。

プルトニウム爆弾についてはのちにもっと詳しく説明しますが、基本概念は高い爆発性を持つ爆薬で未臨界のプルトニウム球を圧縮することです。

爆発圧縮によって球の体積は減りますが、プルトニウムの全質量は変わりません。従って、密度は上昇します。

これは核分裂の平均自由行程を小さくしますので、中性子は圧縮以前より多くの積分裂を起し、また核分裂する前に核物質の表面から逃げる中性子数が少なくなります。

換言すれば、臨界質量が小さくなるということです。実際の質量は同じですから、このように高い密度にすることによって超臨界状態が実現されるのです。

鉄砲方式の爆弾では、飛翔体が標的を衝撃したとき同様な圧縮効果が生じて同じような結果になります。

それではこのような方法でκが約2の状態が生じたとして、その結果はどうなるでしょうか?

第1に考えたいことは、上記の状況下でたとえばウラン235の1キログラムを核分裂させるのに何世代の連鎖反応が起こるかということです。

ここで「世代」というのは、κ=2とした場合に、最初の核分裂が2個の有効な中性子を生じさせ、それぞれがウラン原子核を分裂させますので次の世代では4個が生ずる、という意味です。

n世代後には2のn乗個の原子核が分裂されたことになります。

ウラン金属の密度は1立方センチメートル当り19グラムですので、1キログラム中には2.58×1024個の原子核があります。

そこで、1キログラムのウランすべてを核分裂させるのに必要な世代数nを得るには、式2の2のn乗=2.58×1024を解けば良いことになります。

この両辺の対数を取ってからnについて解けば、n=81が得られます。従って、κ=2の場合に1キログラム全体を積分裂させるには、81世代かかることになります。

それが起る時間はどれだけになるでしょうか? ウランの核分裂で生じた中性子の速さは1秒間に1.4×10の9乗センチメートルです。

しかし、核分裂の平均自由行程は約13センチメートルですから、1世代間にかかる時間は13/1.4×109秒となって、それは約10 ̄8秒になります。

原爆製造分野では、この10 ̄8秒という時間に「1シェーク(shake)」という単位をつけています。

従って、1キログラムのウランをすべて積分裂させるには81シェークかかることになりますが、これは1マイクロ秒より短い時間です。

この時間スケールが重要です。

臨界状態から超臨界状態に至るのにも、時間がかかります。リトルボーイでは、臨界状態は飛翔体と標的が25センチメートル離れた位置で達します。

超臨界状態までにかかる時間の大要を知るために、飛翔体が10センチメートル移動するのに必要な時間を求めてみましょう。

リトルボーイの飛翔体の速さは、1秒間に約3×104センチメートルでした。従って、飛翔体が10センチメートル移動するのに必要な時間は1ミリ秒の1/3です。

この時間は、超臨界状態になったあとで1キログラムのウランをすべて核分裂させるのに必要な時間1マイクロ秒程度より長いことがポイントです。

この時間中には、ウランまたはプルトニウム中には中性子が余り入射されないということが重要です。もし入射されるとすれば、超臨界状態が実現する前に前駆爆発が起ることになったでしょう。

そうなると、爆弾設計者が「フイズル(fizzle)」と呼ぶ失敗に至るのです。これは非常に厄介な爆発ですが、広島を灰燵に帰させたものはこれではありません。

そのような中性子はどこから発生する可能性があるでしょうか?

リトルボーイでは、ウラン同位元素の純度、すなわちウラン235の残りのウラン238とウラン234に対する割合を十分に大きく(80%)して、これらウラン235以外の同位元素から生ずる中性子が

原爆の有効性を拐なうほどに生じないようにしたことでした。広島はそのための証拠になったのです。

シーボーグが心配したのは、プルトニウム爆弾を同じように造った場合にどうなるかということでした。私には、彼がどのようにして原爆設計法の情報を得たのかわかりません。

この時期はロスアラモス研究所が創設される以前のことです。しかし、オッペンハイマーはすでに核爆弾設計の理論的研究をリードしており、シーボーグは彼と極めて密接な接触を保っていました。

いずれにしても、シーボーグはプルトニウムをウラン238から製造するその方法自体によって不純物も造られることを理解していました。

すでに見てきましたように、プルトニウムはウラン238の原子核が中性子を捕獲することに始まる2段階で造られます。しかし、同時にある程度のウランの核分裂も生じます。

これによって積分裂生成物も造られますが、また原子炉燃料に含まれるホウ素のような元素も不純物として存在します。

プルトニウムはアルファ粒子を放出して崩壊します。これらのアルファ粒子がホウ素のような元素と衝突しますと、中性子が発生します。

シーボーグが考えていた問題は、そのような不純物がそれから発生する中性子によって「フイズル」を起こさないためにはどこまで許容されるか、ということでした。

彼の計算によれば、不純物は一千債分の1以下などという純度が必要なことがわかりました。グローブス将軍にも、またオッペンハイマー所長にもそのように伝えられました。

イギリスもそのことの意味を理解しており、もっと悪いことにその計算によれば純度はもう1桁上げないといけないことを示していました。

そのような高純度はどのようにして達せられるかについての検討が続き、非常な困難ののちに結論に達しました。

結論が出る前に、原子炉で造られたプルトニウムサンプルがロスアラモス研究所に届き始めました。

あとですぐ説明しますように、これらサンプルが新しい問題を生じさせ、それによってプルトニウム原爆は鉄砲方式を採用する可能性を全く除外させたのでした。

結果的には、不純物の問題は関係ないことがわかります。

他方、ツアハリアセンはプルトニウムの構造とその化合物の研究を始めましたが、そのテーマは大戦中を通じて、また戦後も継続することになりました。

1946年に書かれた報告書に、彼は次のように述べています。「プルトニウムプロジェクト内で過去3年間にわたって、プルトニウム、ネプツニウム、ウラン、トリウム、および希土類元素の

140種類の異なる化合物について、部分的にまたは完全な結晶構造決定を行った。私の共同研究者ローズ・ムーニー博士はさらに20種類の化合物の同様な決定を行った」。

ほとんどすべてのプルトニウム化合物はⅩ線回折法を用いて調べられ、ツアハリアセンが行ったこれら元素の酸化物に関する3年間の研究結果は2005年になっても

それまでのすべての成果の半分以上を占めていました。

彼はのちに次のように述べています。

「元旦にもまたすべての休日にも、地獄に堕ちたように働き続けた。その研究を終わらせるために、何時間も何時間も遅くまで働き続けた。すばらしい時だった…」。(注7)

ツアハリアセンの初期の発見の1つに、プルトニウムに「同素体」があるということでした。同素体とは同じ元素の異なる結晶構造を指します。

その標準的な例は炭素です。その固体は製造方法によって、たとえばグラフアイトになったりダイアモンドになったりします。

同素体は、「相」と呼ばれるもの、たとえばある元素が液体相かまたは固体相にあるかというのとは異なっています。それでも、異なる同素体を表現するのに「相」がしばしば用いられます。

私も時に応じてそれを使うでしょうが、それは他に適当な言葉がないからです。

ツアハリアセンが見出した最初の2つのプルトニウム同素体は、ギリシャ文字αと∂で分類されました。

結晶学者たちは同素体を高温にして行くにつれて現れる安定な相をギリシャ文字を使って区別するのです。図11(後で出る)には、これら同素体とそれが安定な温度領域を示しています。

プルトニウムにとっては、同素体転換を起させるには大きな刺激は必要でありませんから、安定性というのは相対的な意味しかありません。

ツアハリアセンが最初2つの同素体を発見したときには、まだ残り4つもあることは知りませんでした。それらを全部表せば、α、β、γ、∂、∂’、εです。

ここではαと∂について考え、他についてはあとで考慮しましょう。

強調したい第1点は、同素体は単一原子から現れる性質ではないということです。プルトニウム原子はそれだけのことで、もしその1個について知ったのなら、それ以上のものはありません。

同素体が現れるのは、それらの原子から組み立てられた結晶構造の性質としてであるということです。ある温度領域で安定であるとか不安定であるとかいうのは、これら構造の性質を反映しているのです。

先ず、α同素体を考えましょう。これは122℃まで安定です。従って、それは室温で安定です。

ツアハリアセンはⅩ繰回折法を用いてその単位セルの構造を調べました。ところで、結晶は極めて複雑でそれぞれの個性を持っています。

たとえば、雪片もいくつかの単位セルの組み合わせによってできているのです。雪片は6方晶系となり、それは図9aのような形で表されます。

α同素体は「単斜晶系」、すなわち単位セルのすべての軸はお互いに垂直ではなくて、またその長さも同じであるとは限らないものであることがわかりました。

図9aはαプルトニウムの16個の原子からできた単位セルを示しています。見ただけでどうも複雑です。さらに対称性に欠けていますので、塑性や柔軟性がありません。

従って、もしαプルトニウムを曲げようとすれば、チョークのように壊れてしまうでしょう。それは金属と言うより鉱物に近い挙動を示します。

他方、∂相は全く違った性質を示します。それは3170Cから4530Cまでの間で安定で、その単位セルは対称性の良いもので、結晶学的には「面心立方晶系」と呼ばれます(図9b参照)。

角に8個、それぞれの面の中心に6個、合せて4個[訳注:角の8個は隣接する8個のセルに属しているので8/8=1、面の6個は隣り合う2面に属しているので6/2=3となり、合計4個/セル]

の原子からなっています。

このセルを面に沿って動かしても、その構造が変わらないことがわかります。

実際、∂プルトニウムは通常の金属と同じような金属で、爆弾を造るのに理想的なものですが、低温ではすぐにα相に変質して工学的に扱い難くなります。

密度も興味深いものです。25℃でのα相は1立方センチメートル当り19.86グラムで非常に高密度ですが、322℃での∂相では1立方センチメートル当り15.92グラムです。

ツアハリアセンが最初測定したときに得た密度に関する不思議な結果は、異なる相にあるものの混合物であったことによるものでした。

明らかに、金属プルトニウムを使って爆弾を造ろうとすれば、冶金学的に非常に大きな問題を克服していかなければなりません。しかし、もっと大きな難しさがありました。

図9a αプルトニウムの16個の原子からな 図9b ∂プルトニウムの4個の原子からなる単位セル。

デュボン社がプルトニウム製造用原子炉を建造する契約を結んでいました。

シーボーグが不純物の問題を指摘しますと、同社にはそれを進めるのに躊躇するところがありました。しかし、グローブス将軍が何かやろうと決心すると、その前を遮るなどということは不可能でした。

このようにして、1943年2月から試行プロジェクトが、テネシー州クリントンで開始されましたが、ここはのちにオークリッジ国立研究所になるところです。

ここでは、冶金学研究所で開発されたフツ化ビスマス分離法を用いることが計画されました。

オークリッジ原子炉は11月に臨界に達し、1944年4月までにはグラム単位のプルトニウムをロスアラモス研究所に向けて出荷し始めました。しかし、大問題が起こっていたことが明らかになりました。

問題点を理解するために、もう一度原子炉中でプルトニウムをどのようにして造るかを振り返ってみましょう。

ここで用いられる燃料は天然ウラン、すなわち99%以上がウラン238で残りは主として核分裂性のウラン235です。

核分裂反応を促進するために、分裂で発生した中性子は減速材で減速されます。ここでは、フェルミが彼の炉で用いたのと同じく高度に純化したグラファイトが用いられました。

しかし、ある程度の中性子はウラン238によって吸収されてネプツニウム239を造り、それはベータ崩壊してプルトニウム239になります。

プルトニウムをウランから分離する前に運転する原子炉の時間が長いほど、プルトニウムが多量に造られますので、かなり大量のプルトニウムを発生させるには炉を長時間にわたって運転しなければ

なりません。

しかしながら、プルトニウムが原子炉中に留まっている間には次の中性子を吸収してプルトニウム240になるものがあります。

しかしこのプルトニウムの同位元素は自動的に核分裂して高速中性子を発生させます。そこで問題は、爆発してしまわないためにはどれだけの量のプルトニウム240が許容できるかということでした。

プルトニウム240が生成されるということは、サイクロトロンを用いたプルトニウム製造過程からわかっていました。

しかし、そこで用いた物質量が少なすぎて、この同位元素がどの程度発生するのかに関する測定結果があいまいでした。

しかし今やグラム単位のものがあるのですから、セグレは手許にあったプルトニウム240の自発的核分裂の割合を測定するよう指示されました。

春の終わりには、セグレはそのサンプルの自発的核分裂の割合はサイクロトロン製造のプルトニウムから得られていた値より少なくとも5倍は大きいとの報告をしました。

このようにして、7月4日までには鉄砲方式がプルトニウムには使えないことが明らかになりました。

飛翔体の移動が遅すぎて、材料が超臨界に達する前に中性子が連鎖反応をスタートさせてしまうのです。

ウラン238にも自発的積分裂の問題がありましたが、リトルボーイの場合のように材料の90%程度がウラン235である場合は、後者の自発的核分裂の割合がプルトニウム240に対する値の1,200分の1と

小さいのです。これがウラン爆弾で鉄砲方式がうまく行く理由です。

プルトニウム239をプルトニウム240から分離できるような現実的な方法はありませんでした。

この場合、質量単位で1しか違いませんが、ウラン235とウラン238では3だけ違い、この差は同位元素分離の難しさでは大きな違いになります。

もし原爆計画に従事していた人々がドイツと切羽詰った競争をしていると思い込ませられていなくて、グローブス将軍が執着心のない人でしたら、この計画はこの時点で停止させられていただろうと思います。

実際に、オッペンハイマーはこの結果に失望してロスアラモス研究所長を辞任することを考えたほどでした。そうはしませんでしたが、研究所は冶金学と原爆組み立て法という2つの問題に直面していました。

先ず冶金学から始めて、シリル・スタンレー・スミスの説明から入りましょう。

スミスは1903年にイギリス・バーミンガムで生まれました。彼は冶金学士号をバーミンガム大学から1924年に、また理学博士号をMITから1926年に授与されました。

1年後にはコネチカット州のノーガタックバレーにあったアメリカ真銀社(AmericanBrassCompany)で勤務し始めました。

第二次世界大戦前はずっとそこで働きましたが、戦争が始まると首都ワシントンにあった戦時冶金委員会で勤務することになりました。

1943年2月にニューヨークで行われたアメリカ資源・冶金・石油技術者学会に出席していた彼は、化学者ジョセフ・ケネディからの接触を受けました。

ケネディはプルトニウム発見の際のシーボーグの共同研究者の1人で、ロスアラモス研究所に化学部門ができるとその長として就任していたのでした。

ケネディがどうしてスミスに接触することになったのかはわかりませんが、スミスはそれまでにかなりの論文を発表しており、また特許もいくつか持っていました。

また、スミスが機密関与許可を得ていなかったのに、どうしてケネディがスミスにロスアラモス研究所で行われる予定の研究について言えたのかもわかりません。

ともかく、スミスがロスアラモス研究所に行くのは、あとで「いやな仕事」(注8)と思い出しているワシントンでのデスクワークから脱出する良い方法だと思う程度には十分のことが話されたのでした。

スミスがケネディと接触してからほどなくして、オッペンハイマーはワシントンの公園のベンチでスミスを採用すべく話していました。

オッペンハイマーはこの種の話術に長けていました。1943年3月までに、スミスはロスアラモス研究所に着任した科学者の第1陣の1人になっていました。

彼は冶金学グループの責任者になりましたが、まだそこでの仕事がどの程度の重要性を持つものかについてわかっていませんでした。

彼の最初の仕事は、これまで戦時研究に携わってこなかった冶金学者を見つけることでした。

これは容易なことではありませんでしたが、戦争が終わった1945年までには、彼の部署には115人が勤務していることになりました。

人を集めることの難しさの1つは、スミスも他の誰もが、当初はその部門で何をやることになるのか見当もつかないことにありました。

ロスアラモス研究所冶金学グループは、原子炉からグラム単位のサンプルが到着するまではプルトニウムについての研究はしないことになりました。

そこで、そこの職員はいろいろな奇妙なこと、たとえばウランの水素との化合物の性質を調べるようなことをやっていました。

最も奇妙なものは、620ポンド[訳注:280キログラム]の金を2個の球状に鋳込むようにとの要請を受けて行われた仕事でした。

スミスは、あとでその1個がドアの押さえに使われているのを見つけたのでした!

1944年3月になってプルトニウムが1個が半グラムのユニットでロスアラモス研究所に届き始めますと、それを使用できる金属にする仕事が本格的に始まりました。

先ず、その化学的な性質はウランに似ているとの予想で進められましたが、それはその頃までにはウランを金属にする方法がわかっていたからでした。

先ず4フツ化ウラン(UF4)から始めて、それをカルシウム(Ca)の存在下で加熱すると、カルシウムはウランよりフツ素に引きつけられやすいので、反応UF4+2Ca-U+2CaF2が起こって金属ウラン

と2フツ化カルシウムを生じます。

この反応では、カルシウムは還元剤として働いているのです。この種の反応を用いて、ツアハリアセンはマイクログラム程度の金属プルトニウムを造っていたのです。

それはシカゴ大学冶金学研究所で2人の若い化学者テッド・マゲル(下の写真)とニツク・グラスによって行われていました。

1943年末には、マゲルとグラスはフツ化ウランから1グラムの純粋金属ウランを造っていました。

オッペンハイマーは1944年初めに冶金学研究所にマゲルとグラスをロスアラモス研究所へ譲るように申込みました。

その結果、2人はスミスのグループに冶金学研究所で使っていた装置を持ってやってきましたが、その中には遠心分離機も含まれていました。

彼らはウラン還元反応を遠心分離機の中で行い、その後に金属を遠心作用を用いて分離していたのでした。2人はプルトニウムについても同じことをやろうとしていました。

あとになって、「定常ボンベ」と呼ばれた、特別の内張りをしてプルトニウム化合物を容れておけるようにした坩堝を用いるほうが良いことがわかりました。

しかし、マゲルは遠心方式の震えを好みました。スミスはこの方式を「興奮する、エネルギッシュな、しかしやや向う見ずな」(注9)ものだと言っています。

マゲルとグラスが来る前に、ロスアラモスの研究者たちはウランでの経験から、3フツ化プルトニウムをカルシウムを用いて還元しようとしていました。

得られたものは、「プルトニウムの集積などない灰色っぼいコークス状のもの」(注10)と言われたものでした。そこヘマゲルとグラスがやって来たのです。

1955年にマゲルによって書かれた、そこで起こったことの記述は「もし事実ではないにしても、仲々良くできた物語」[訳注:イタリア語の諺]の範疇に属するでしょうが、読んで面白いものです。(注11)

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1グラム程度のプルトニウムを還元することは非常に大事なことだと思われていたが、それはそれほどの金属があれば多くの大事な性質について測定が格段に進むからであった。

還元反応は1944年3月24日に行われることになり、グロープス将軍を初めとする数人のトップがわれわれの作業を視察するように特別に招待された。

さて、もしすべてが失敗したら-そんなに観察者がいる前でだよね?そこで、23日にニツク(グラス)に「彼らがここに来る前の今夜に実験室に上がって行って、還元をやってみよう」と言った。

ニツクも同意して、われわれ2人は例の遠心ボンベ法を用いて還元反応を行った。それが終ってボンベを開けてボタン状の小さな金属プルトニウムをガラスアンプルに入れて、次のようなメモをつけて

シリル・スミスの机の上に置いた。

ここにプルトニウムの塊を置いておきます。われわれはこれからサンタフェに出かけます。

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皆はわれわれに大立腹し、われわれがボンベを開けてプルトニウム塊を回収したときに糎櫨やうしろの作業場を汚染したと非難した。

汚染したなどとは思わなかったが、彼らの気拝もわかった。とにかくその塊が手に入ると、彼らは即座に密度やそのほかの測定に取り掛かった。

マゲルとグラスは蹄微鏡を使わなくて見える金属プルトニウムの初めてのサンプル(下図)を造りました。それによって、プルトニウムの同素体の測定ができるようになりました。

最初のグラム単位の金属プルトニウム

下図はプルトニウムに関する最近のどの解説にでも載っている変態図です。 以前に述べました温度の関数として表した場合に安定という相が、この場合には6相あることがわかります。

11プルトニウム同素体について、原子体積(Å3)と温度との関係。各相はギリシャ文字で表してある。原爆で重要になるのはα相と∂相

温度は「絶対温度」がケルビン(K)で表示なので、摂氏では273.15を引けば良く。縦軸には原子体積が取ってあります。次章でプルトニウムの科学について説明する時に原子体積の説明をしますが、

それほど簡単な概念ではありません。ここで注意しておくことは、温度を上げていくにつれて体積が減少する∂と∂’という2つの相が存在するということです。

これは全く直感に反することで、プルトニウムがいかに奇妙な元素であるかについての他の1例なのです。

大戦中にもこのような図はあったのですがもっとざっとしたもので、詳細の大部分は戦後になって埋められたものです。

その様子の一端を示すために、1958年にロシアの化学者イウゲニー・マカロフが著してその後にウラン、トリウム、プルトニウム、ネプツニウムの結晶化学に関する標準テキストになったものについて述べましょう。 その翻訳本がその次年にアメリカでも出版されました。(注12)

このテキストからわかることですが、この1958年になってもβ相の存在は知られていなかったのです。その次年になって、ツアハリアセンがその相はα相と似た構造をしていることを示しました。

このように、大戦中には物事の好奇心からの追求は爆弾を造るのに直接の関係がなければ、置いておかれたのでした。

これらグラム単位の金属プルトニウムサンプルを用いてロスアラモス研究所の研究者たちができるようになった最も大事なことの1つは、プルトニウムの融点、すなわちその金属が融ける温度を測定することでした。

以前にシカゴ大学冶金学研究所で得られていた値は、他の金属で得られた値と矛盾しないものでした。

いくつかの例を挙げますと、鉄1510℃、スチール1370℃、銅1083℃などですが、プルトニウムの融点もこの程度と思われていました。

ところが、金属プルトニウムは640℃という途方もない低温で融けることがわかったのです。これは、もし金属プルトニウムを何かに使おうとするときには知っておかなければならない値です。

マゲルとグラスは、最初のグラム単位のプルトニウムを造ったのち、鉄砲方式爆弾に必要と思われたさらに8個のグラム単位の高純度プルトニウムを造りました。

しかしその方式ではプルトニウム原爆が造れないことがわかりますと、高純度プルトニウムは必要でなくなり、2人はロスアラモス研究所では用がなくなりました。

2人はそこをやめて、MITにあったマンハッタン計画の小さなグループに加わることにしました。

1995年に行われたインタビューで、マゲルはロスアラモス研究所をやめた理由の1つには健康上のこともあったかと聞かれました。

マゲルはUPPU(You Pee Plutonium)クラブの最初からのメンバーの1人でした。このメンバーは尿に出てくるほどプルトニウムに曝されていたのでした。

マゲルは次のように回想しています。

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最初の1グラムを造ってから数週間中に、ドライボックス(部分的に閉じた箱で、それに手を挿入して作業することによってその中にあるプルトニウムが大気と触れる機会を小さくするためのもの)

で次のグラム単位のプルトニウムから残屑を取り除く作業していて、使っていた針が落ちてゴム手袋を破り指に刺さってしまったことがあった。指に黒いものが見えた。

あ、これはプルトニウムだ、と思った。すぐに病院へ行き、そこですべてが取り除かれたと思ったが、そうではなかった。私の指には今でもプルトニウムが少しは残っている。

1945年になって尿のサンプルを採り始めたが、それが排泄したプルトニウムの検査が行われ始めた最初だった。

マゲルはさらに続けました。

1944年の3月から7月の間に、我々が呼吸からどれだけのプルトニウムを吸い込んだかをモニターする方法が開発された。そのための主な方法は鼻での計量だった。

担当の女性がまわってきて、われわれの鼻孔を消毒綿で拭き取った。 あるとき、私は還元作業をやろうとしていて、小さな柑堀にすべての材料を入れたことを確認するために最後のチェックに

覗いてみることにした。体を曲げて柑堀を覗き込んだが、そのときには防毒マスクをつけることなど考えなかった。どうも、そのことによって高い鼻カウントになったらしい。

しかし、大きな被曝は針が刺さったことから生じた。ヴオルツ先生が最近、私はUPPUクラブの26人のメンバーの中で5番目に高い被曝を受けていると言った。

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ジョージ・ヴオルツはのちにロスアラモス研究所保険部長になりましたが、カレン・シルクウッド事件で果たした役割によって有名、いや悪名高くなりました。

シルクウッドは、オクラホマ州クレッセントにあったカー・マッギー社プルトニウム燃料製造プラントの化学技師でした。

彼女の仕事の1つは、原子炉燃料棒に用いられるプルトニウムベレットを研磨して磨くことでした。

1974年11月5日の夕刻に、彼女の胸当てズボンの右袖と肩部分でモニター装置がアルファ粒子の存在を指示しましたが、それはプルトニウムがあることを示しています。

彼女はプラントの保健室に行ったところ、鼻からの試験体採取をされました。それは中程度の放射性を示していました。彼女が使っていた手袋は交換され、その古い手袋が分析されました。

彼女の場合に現れ続けたいくつかの異常の第1は、その手袋には漏れは発見されず、彼女が働いていた部屋の空気モニターも放射性を示していないことでした。

従って、プルトニウムがどこから漏れたのか結局わかりませんでした。尿と排泄物を5日間採集する検査を受けることになりました。

彼女にはプルトニウムとの接触がない仕事が割当てられ、保健室に行ったあとでプラントを出て自分の体をモニターしてみても放射性を示しませんでした。

しかし次の臼に彼女が出勤すると、またアルファ粒子の活性がもどっていました。

彼女が11月7日にまた保健室に報告して検査を受けますと、11月5日以降はプルトニウムとの接触がない仕事しかしていなかったのに、非常に高い放射性を示しました。

彼女のロッカーも車も放射性を示しませんでしたが、もう1人のカー・マッギー社プルトニウム燃料製造プラント作業員と一緒に住んでいたアパートは放射性を示しました。

以上のことから、カー・マッギー社、シルクウッド本人、その同僚、および彼女のアパートで一緒に住んでいたボーイフレンドをロスアラモス研究所に送るのに十分と判断されましたが、そこに

ヴオルツ博士がいたのです。

ヴオルツ博士はシルクウッドがガンマ線、すなわちⅩ線より短い波長の電磁波を出していることを見出しました。それについての説明は次の通りです。

原子炉で造られたプルトニウムには、見てきましたように、副生成物としてプルトニウム240が含まれます。しかし、プルトニウム240は中性子をもう1個吸収してプルトニウム241になる可能性もあります。

この同位元素はベータ崩壊して、同位元素の次の元素であるアメリシウムになります。

この過程は、1944年にシカゴ大学冶金学研究所においてシーボーグと共同研究者によって、発生するガンマ線を観測することによって見出されていました。

アメリシウムから発生するガンマ線の強度から、ヴオルツ博士は彼女の体にどれほどのプルトニウムがあるかを推定しました。

彼は彼女に、自分の経験(多分マゲルの場合を含んでいたと思われますが)からすれば、その放射能量は癌を発症したり正常な子供を生めなくする恐れなどない程度であると保証しました。

彼が正しかったかどうかは、わかりません。とにかく、11月13日の組合会合から帰る途中で、シルクウッドは自動車事故で死亡したのです。彼女は28才でした。

検死が行われ、その結果はヴオルツ博士が評価したプルトニウム量が正しかったことを確認しました。

しかし、かなり多量のメタクアローネ(クアルーデ)が彼女の血液と胃から見出されました。

彼女は、通常は鎮静剤として処方されるこの薬をどうして服用していたのかを私は知りませんが、彼女は眠くなるほどの多量を飲んでいたのです。このことと、そのほかの彼女の死に関する奇妙な事柄、

およびプルトニウム作業者の安全を守るために取られていたカー・マッギー社の重大な欠陥と彼女が思っていた内容を暴露していた活動も加わって、今でも支持者がいる謀略説が浮上しました。

彼女の死後、カー・マッギー社に対して民事訴訟が起こされました。何度もやり直し裁判ののち、1986年に130万ドルの賠償金支払いで決着しました。

また、カー・マッギー社はシルクウッドが働いていたプラントを1975年に閉鎖しました。

予想されますように、マゲルはこのような事柄にやや無頓着でした。1995年のインタビューでプルトニウムに曝されていたことで心配しているかどうかを開かれて、「それで興奮も心配もしていない。

私は超愛国者などというものではないが、戦時中のことで、そのときにはしないといけないことがあったのだ」と答えています。

それに加えて、次のように述べています。

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そのころまでに、専門家には動物実験から、プルトニウムは(吸入されたり、摂取されたり、ほかの方法で体内に取り込まれると)骨に蓄積されることがわかっていた。

彼らは、カルシウム摂取を増やせばプルトニウムが骨に蓄積される度合が減ると言っていた。

それ以前にはプルトニウムなどなかったし、それを扱った経験などないのだから、彼らは保健上の取扱い基準をゼロから作らないといけなかった。

ニツク(グラス)と私がそこに行ったのだから、われわれは新しい保健基準を作るためのモルモットだったのだ。われわれはまたUPPUクラブの当初からのメンバーだった。

われわれは、プルトニウムが起こす可能性がある危険性についてずっと検査されてきた。

毎年、私は24時間中の尿1ガロン[訳注:約3.8リットル]を送って、その中でのプルトニウム含有量を調べてもらっている。

彼は続けて次のように言っています。

私はUPPUクラブのメンバー全員についての代弁をしているのではないが、1971年にわれわれ26人全員をロスアラモス研究所に集めてすべての身体検査、および体全体と尿の放射能カウント、

血液検査をすることになった。専門家は、尿からのデータを使って、プルトニウムの体内保持量に対する長時間の排泄割合を求めていた。

また、一旦体内に取り込まれたプルトニウムが除去される割合についての化学的および医学的な基礎データを集めている。

彼らはまた、われわれの肺に取り込まれた量を測定し、肺の機能をモニターするのに懸命になっている。

彼らは、プルトニウムの一かけらが地球の人口全部を殺すほどだとのメディア報道を確認するか反駁するような何らかの効果を探してもいる。

メディアにはこの話が繰り返し繰り返し載るので、全く頭にきている。私もジョージ・ヴオルツにならって論文を書いて、このナンセンスを終わりにさせようと思っている。

確かにそれは危険な物質ではあるが、しかし数十年にわたってその操作に携わってきた少なくともわれわれ26人がいて、50年後の現在でも健康でただ年老いているだけだというのは確かである。

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セオドア・“テッド’・マゲルは2008年1月に89才で死去しました。

そのときヴオルツ自身も2回のインタビューを受けました。(注13)このどちらのインタビューでも、彼はマゲルまたはシルクウッドの名前は出していません。

彼は問題を正しく把握しようと努めていたようです。彼の発言を引用しましょう。それが説得力があるかどうかについては、確かに議論の余地があるでしょう。

最後の章ではほかの見解のいくつかを述べますが、ここでは先ずヴオルツが言うところを聞きましょう。

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先ず、非常に単純ないくつかの事実から始めよう。この部屋にいるわれわれそれぞれは、職業上の被曝の効果を考えなければ、生涯で癌になる確率が3分の1ある。

また、われわれは癌で死ぬ確率が5分の1ある。このことは、この部屋にいる21名のうち、7名が痛にかかり、4名が癌で死ぬことを意味する。

さて職業上の被曝がエネルギー省によって決められた限界内であれば、またはそれよりずっと大きくても、癌にかかる割合は上記の基本確率より非常に大きくなるものではない。

問題は、癌にかかると「これは放射線被曝のせいだろうか?」と思い始めることにある。そして、被曝が原因かどうかを確かめる方法はないのだから、この質問に答える方法はない。

放射線作業従事者の健康に責任がある医者として、これは私を悩ませている問題である。

ヴオルツはさらに続けて次のように言っています。

他の懸念事項は、過去にコミュニケーションをうまくやってこなかったことである

-医学界の人間は見えないところで心配したり、研究したり、また考えたりしていたが、われわれは被曝する作業者と考えを十分同じにしていなかったのだろう。

われわれは吸入被曝をモニターするのに特に配慮してきたが、それは一度肺に取り込まれるとほかへ移動するのに6ケ月から1年かかって、その後に尿に出てくるからである。

ある検死の結果では、30年から40年後にも、吸入されたプルトニウムの75%はまだ肺に残っていた。

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コミュニケーションについては、ヴオルツは次のように付け加えています、「われわれはUPPUクラブのメンバーとはずっと良くやってきた。その人々は古いD棟で異常に高い被曝を受けた」。

この建物はプルトニウム作業が行われた当初のビルでした。それには、最先端の換気装置がつけられていました。件の26名は1948年からモニターされてきました。

ヴオルツはさらに次のように記しています。

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最初の公式検査は、1992年ごろそれぞれが住んでいる近くの医者によってなされた。それは彼らの大部分が1945年に大きな被曝を受けて約50年後のことであるから、彼らにとっていわば金婚記念

とも言えるものだった一彼らはグループ全体としてはかなり良くやってきた。

当初の26人のうち7人が亡くなり、そのうちの最後の死亡は1990年だった。1人は肺癌で、2人は他の原因だったが死亡時には肺癌にもかかっていた。

3人ともヘビースモーカーだった。実際、26人のうち17人はD棟での勤務中に喫煙者であった。喫煙は第二次世界大戦中は極めて当たり前の社会的習慣であった。

軍隊は煙草を無料で配っていたし、もし誰かが煙草を断ると、差し出した人はほとんど軽蔑を受けたと思ったであろう。

オッペンハイマーはチェーンスモーカーでしたが、最後は喉頭癌で亡くなりました。

ヴオルツは次のように続けています。

いずれにせよ、3人が癌関連で死亡しているが、これはこの程度の人数でこの年齢層についての国民の病死亡率とほぼ同じである。それから、心疾患による死亡が3人、自動車事故死が1人であった。

国民の死亡率からすれば、このグループのこの時点での死亡者は16人になるので、このグループの実際の死亡率は国平均より50%低いことになる。

それは何より彼らの良いライフスタイルによるものである。

行動が良くて、予測できる責任のある生活を送る人は平均値より長く生きるのであるが、それはプルトニウム作業者として選ばれたときの選抜基準であった。

私にはマゲルとグラスがこのプロファイルに当てはまるかどうかわかりません。

26人のUPPUクラブメンバーの死亡率を、同時期のロスアラモス研究所の被曝を受けなかった作業者のそれと比較してみた。

この比較においては、雇用されている人々は一般国民全体より不具や病気の割合が小さいという、いわゆる「勤務者健康効果」を取り除いた。

すべての原因による死亡割合は0.60であり、癌による死亡割合は0.82であった。

死亡割合が1以下ということは、被曝グループは被曝していないグループより死亡のリスクが小さいことを示している。

被曝グループの人数が少ないので、上記のように小さいことが統計的に意味がないかも知れないが、小さいということ自体によって安心するところはある。

われわれは、1943年から1977年にかけてロスアラモス研究所で雇用された男性についての調査結果を公表した。

放射性の観点から重要な発見は、放射能被曝が増えるにつれて増える傾向にある白血病やその他の血液癌の増加がなかったことである。

3つの癌(食道、脳、ホッジキン病)についての傾向を調べたところ、統計的には外部放射線への被曝が増えるにつれて増加する相関関係が得られた。

しかし、他の研究によればこれらの癌は放射線への低濃度被曝によっては起こされないことも知られている。

このような相反する結果から、以上のような観測事実の重要性はまだ未確定であると結論した。

また、プルトニウムに被曝した作業者と被曝しなかったものとの癌屏息率も比較してみた。その結果、プルトニウム被曝の作業者に統計的に有意な癌雁恩率増加は見られなかった。

そして、ヴオルツは次のように結論しています。

今までのところ、プルトニウムに関連して有意な健康問題は生じていないが、それはプルトニウムが有毒でないことは意味しない。確かに有毒である。

しかし、われわれは最初からプルトニウム作業者の許容身体負荷の限界を安全側に取るように最大の注意を払ってきたが、その許容限界はプルトニウムだけに特別なことではなくて、

すべての種類の放射線被曝への職業上の限界と同等なものである。(注14)

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この点については、最後の章で再度述べます。

大戦中に使われたプルトニウムのすべては、ワシントン州ハンフォードのコロンビア川沿いに建設されたハンフォード工業施設の原子炉で造られました。

下図はハンフォードでの年ごとのプルトニウム生産量を示しています。原子炉級と爆弾級の区別は、同位元素、特にプルトニウム240の含有量によっています。爆弾級は7%以上は含まれていません。

戦時中のプルトニウムはすべて爆弾級であることは、その生産の緊急性を反映しています。

図12 ハンフォードでのプルトニウム生産量(原子炉級と爆弾級の総量)(credit:Redrawn by Will Mason,JHP.)

プルトニウムは原子炉からなるべく早く、約100日の照射後には取り出されました。第11章で述べますように、「原子炉級」と「爆弾級」という名称は語弊があります。

それは原子炉級のプルトニウムからも爆弾を製造することができるからですが、このことは核拡散問題を考える時には注意すべきことです。1945年から1947年までの生産総量は500キログラム、

すなわち半トン程度であることがわかります。この量とツアハリアセンが取り扱ったマイクログラムを比較しますと、ハンフォードの原子炉での生産量の違いがわかります。

ハンフォードに建設された最初の生産炉は、写真12に示すB原子炉と呼ばれるものでした。

背後にコロンビア川が見えます。川に近く設置するのは、大部分の概念設計を行ったプリンストン大学の物理学者エージン・ウイグナーによって決められたものです。

写真12 ワシントン州ハンフォード実験場とコロンビア川(credit:US.Department of Energy.)

ウイグナーは1963年のノーベル物理学賞を受賞していますが、20世紀で最も数学に優れた物理学者でした。しかし彼は工学の学位を得ており、教科書に載っている原子炉理論の多くは彼が発展させたものです。原子炉中には3個の基本的な要素があります。すなわち、燃料、減速材、および冷却材です。B原子炉では、燃料にはカナダで製造された天然ウランが用いられました。

減速材には高純度グラファイトが用いられましたが、これはフェルミの原子炉で使われたものと同じでした。冷却材の役割は、燃料が過熱して溶けるのを防止するものです。

ずっと小さなクリントン原子炉では、冷却材に空気が用いられました。しかしウイグナーが大規模生産炉ではこの方式ではうまく行かないと思って、水冷方式を採用しました。

その水がコロンビア川から取り入れられて、使用後はそこに戻されたのでした。

B原子炉は1944年9月27日午前12時01分に初臨界に達しました。この時刻を私が知っているのは、そのときそこにいたジョン・ホイーラーから直接開いたからです。

彼はまた、フェルミを含む著名士がそこに出席していたことも話しました。ホイーラーがそこにいたのは、マンハッタン計画の理論物理分野の顧問の立場にいたからでした。

彼によれば、彼が初めてその地に行ったときには、荒野の西部の雰囲気があったそうです。しかし臨界時には約5万人の作業者がいて、その人たちによる騒々しい振舞いが支配していました。

原子炉が臨界に達した時には、ホイーラーは中央実験所にいて、種々の計算をしていました。間もなくすると、彼は非常に困惑する報告を受け始めました。

制御棒を引き抜くと、中性子増加率が上がって反応率も当然そうなるはずのように上昇しました。しかしそれから、原因もなく反応率が降下し始めました。

制御棒をすべて引き抜いても、ホイーラーの言葉では「原子炉が死んで行った」のです。「皆が走り回っていた」とホイーラーは何が起こったのかを思い出すように言いました。

「起こり得るすべての悪いことの可能性を考えるのが私の責任だった。それで、核分裂生成物の発生が遅れると、中性子を吸収する次の生成物の遅れに繋がることを十分認識していた。

数時間後に反応率が上がり始めると、この予想通りだったことを確信した。第2の原子核生成遅れが中性子を吸収しない第3の遅れにつながった」。

ホイーラーは第1の核分裂生成物はヨウ素135であると結論しましたが、それは分裂生成物のうちの6%が生ずるものです。それは半減期6.6時間でキセノン135にベータ崩壊します。

この同位元素は、ウラン235よりも中性子吸収が大きいのです。従ってそれが存在する限り連鎖反応のサイクルを遮断します。

しかしそれは半減期9時間でベータ崩壊してセシウム135になりますが、この同位元素は中性子を吸収しません。

この有害さへの対策は中性子生成量を増やして核分裂中性子がその効果を上回るようにすることです。ホイーラーはそこで起こったことを次のように述べています。

「この点での功労者はデュボン社のジョージ・グレープスと言う名の技術者だった。

彼は、『一体、核分裂生成物というのは何だ?』というような質問をし続けた。彼が物事を理解すると、当初われわれが予定していた燃料棒の数1500本ではなくて、あと500本の余裕を持つことを主張して、

結局2004本を準備した。 この決定は大きな出費になったので、よほどの積極性がなければ言えなかった。

しかしその先見性の結果、余分の燃料棒を再装荷して原子炉に反応性を追加して核分裂生成物の毒を乗り越えることができたのだ。」

ホイーラーはまた私にほかのことも話しましたが、それはそれ以前には聞いたことがないものでした。

日本は焼夷弾を乗せた風船を太平洋を越えて送り出しました。その風船の何個かは北西部太平洋岸に火事を起こしましたが、1個はハンフォード原子炉の給水ポンプを動かしていた電力線に垂れ下がって

その作動を遮断しました。このことは大戦中は極秘にされました。

いずれにしても、それによってプルトニウム生産に影響が出て長崎を破壊することになる爆弾を製造するのに影響するほど長期に原子炉を止めることにはなりませんでした。

ハンフォードで製造したプルトニウムの第1陣は、1945年2月にロスアラモス研究所に到着しました。その後、ハンフォードは戦時中の唯一のプルトニウム供給源となりました。

今や冶金学の問題が最重要になりました。すなわち、複雑な同素体の相を克服して金属プルトニウムをどう使うかということです。

スミスはそれまでの業務の大部分を真鈴についての研究に費やしてきましたが、これは鋼とスズを使用目的に合わせて種々の混合割合で混ぜた合金です。

スミスがプルトニウムについてもその合金を用いることを考えたのは当然でした。彼は大量のプルトニウムが研究所に到着する以前からそのことを考えていました。

そして、事態は緊急になったのです。試みられた事柄については、理論などほとんどないも同然でした。私が知る限りでは、今日になっても皆が同意するような理論などないのです。

たとえば、プルトニウムと合金にして∂相が室温で安定になる元素とか、もし安定であってもそれがどれほどの時間続くかということについての理論はありません。

適切な元素を見つけるのは試行錯誤的に進められました。最初うまく行きそうな元素はアルミでした。アルミ数%を含むプルトニウムの合金の∂相は室温で安定でした。

問題は、アルミがプルトニウム崩壊で生ずるアルファ粒子に照射されると中性子を発生するので、爆弾設計を複雑にすることでした。

その後、ガリウムもプルトニウムとの合金にした∂相が安定化されることが発見されました。アルミは原子番号が13ですが、がノウムは31です。

そのことによって、がノウム原子核中にある余分の正電荷がアルファ粒子の持つ正電荷を反発して、中性子生成を抑えるのです。このようにして、ガリウムが理想的な元素のように思われました。

難しいことは研究所が時間的に非常に大きな圧力下にあったことで、その時は1945年春でしたが、その初夏には爆弾の実験が予定され、その合金の∂相がどのくらいにわたって安定性を維持するかを研究する

ような時間がありませんでした。

最も望ましくなかったのは、爆発前にα相になってしまって、それに伴うあらゆる複雑さに遭遇してしまうことでした。

冶金学者で合金の研究をしていたユリック・ジェッテは安定性試験なしにその合金を使うことに強硬に反対したけれどもそれは時間的に許されなかった、とスミスは回想しています。

スミスは直感的にうまく行くと思っていましたが、それを用いることは自分だけで下せる決断ではありませんでした。彼はオッペンハイマーに相談しようと思いました。

2人はエデイス・ワーナーがやっていた「オトウイ踏切の家」において夕食を一緒にとりました。エデイス・ワーナーはペンシルペニア州生れの女性で、健康上の理由でニューメキシコ州にやって来た

ときは30才半ばでした。彼女はオトウイの鉄道踏切にあった家にサン・イルデフォンソ・プエブロ知事でアティラーノ・“ティラノ’’・モントーヤという名のアメリカインデイアンと一緒に住んでいました。

その家はもともと郵便局とオトウイ鉄道駅の補給貯蔵所でした。

オッペンハイマーも健康上の理由でニューメキシコ州に来たことがあったのですが、戦前に彼女と知り合っていたのです。

彼女は自分の家で喫茶店を開き、そこでロスアラモス牧場学校の生徒などにチョコレートケーキを出していました。研究所がここに開設されることになると、その学校の場所が選ばれました。

大戦中には、オッペンハイマーの支持を得たのは間違いないことですが、彼女は研究所の少人数の選ばれた顧客に夕食も出すようにしました。

オッペンハイマーがスミスの心配事の話を聞いたのはそのような夕食の席上でしたが、スミスが正しいと思う決断をするように告げました。

彼はガリウムを選び、アラモゴルドで試験され、のちに長崎に投下された爆弾は重量にして0.8%、分子量にして3%のガリウムを含んでいました。

この合金の1つの大きな利点は、比較的低圧でα相に戻ることでした。これは以前述べましたようにかなり高い密度を持ち、従って臨界質量がその分だけ小さいことでした。

次に述べる内爆がこの相変化を生ずるのに必要な圧力を生じさせ、爆弾の効率を高めたのでした。

内爆を用いて臨界または超臨界質量を得ることについての最初の提案は、少なくともアメリカにあっては1942年夏になされました。

そのときに行われたパークレーでの秘密会合で、オッペンハイマーやサーバーなどが原爆に関する物理学の現状について討論しました。

カリフォルニア工科大学の物理学者リチヤード・トルマンが内爆の使用を提案し、このアイデアはサーバーの入門講義書で図13のように載せられました。

図13 サーバーの入門講義書にある「内爆」の説明(credit:Used by permission of William and Zachariah Serber.)

この図はやや印象派の絵のようですが、基本的なアイデアは、爆薬をたとえばウラン235でできた円環上に分布させるものです。爆薬がウランの部分を内側に向けて吹き寄せて球状にして、臨界ま

たは超臨界にするものです。これは実際の爆弾が設計されていた方式ではありませんが、サーバーはオッペンハイマーが当時自分の責任ある立場から質問を適当にさばいたと思ったのでした。

オッペンハイマーは出席者にサーバーがそれについて研究していると述べましたが、サーバーはそんなことなど一切やっていませんでした。他方、サーバーが1943年春に講義した時には、セス・ネッ

ダーメヤーが興味を示し、内爆のいくつかの面について研究する小さなグループの長になりましたが、それは実際にそれが必要になる前のことでした。

1944年夏になると研究所の研究はほとんど内爆にのみ向けられましたが、ネッダーメヤーはその大きな波に溺れてしまうと思ったに違いありません。

この研究に関与していなかった2人に、サーバーとエドワード・テラーがいました。

オッペンハイマーはサーバーに当時まだ活発な研究が続けられていたウラン爆弾の責任者になるように伝えていましたし、テラーは水素爆弾の研究のみに集中したがっていました。

実は、内爆は本当はプルトニウムから始まった物語ではありませんでした。

前に述べましたように、その研究をすることになったのは、原子炉から得られるプルトニウム240の発見からでした。必要なことは、高性能爆弾を用いてプルトニウムを急速に球状に圧縮することでした。

アラモゴルドでの原爆実験以前には、実際の球状のプルトニウムが実験に用いられたことはありませんでした。そこでは、アルミと天然ウランが用いられました。

最初は、大略中空球を内爆することが試みられましたが、結果には問題がありました。1944年末には、研究所では「クリステイーの妙案」という呼び名で知られることになる方式の研究に切り替えました。

ロバート・クリステイーはオッペンハイマーの学生の1人でした。彼は内爆についての理論的研究を進めていて、内が詰まったまたはほぼ詰まった球のほうがより一様に内爆すると信じるに至ったのでした。

この方式を研究することが決まりました。球は2個の半球から造られることになりましたが、その表面にはニッケルメッキを施してプルトニウムが酸化しないようにされました。

ロスアラモス研究所の科学者たちがこれをアラモゴルドのトリニティ原爆実験で試みたときに起こったことを、スミスは次のように述べています。

トリニティ原爆実験用の2つの半球は電気メッキされたが、その1個の小孔に残った水溶電解液が反応して小さな気泡が形成された。

これは半球の接合面を引き剥がして内爆の際に気流が噴出し、未熟な早期爆発につながるかもしれなかった。

実験の延期が懸念されたが、私は気流の噴出を抑えるために、しわをつけた金箔の輪を何個か挿入することを提案した。

ある夜遅く、誰かが私の指示で作業するのを観察するのではなくて、私自身の手で作業するというそれまでには稀な経験をすることになった。

この小さな気泡のおかげで、最後の瞬間になって最初の原子爆弾の最終組み立ての責任チームのメンバーの1人になることになった。

1945年7月15日ほぼ正午ごろ、ニューメキシコ州アラモゴルドに近いマクドナルド牧場において、私はプルトニウムの2個の半球の間に適当な量の金箔を挿入した。

この暖かい不吉な金属部分に触れたのは、私の指が最後だった。その感触は今日まで、36年後の今まで残っている。

大戦後に、スミスはノーガタックバレーのアメリカ真鎗社に戻る気になれなくて、先ずシカゴ大学へ行き、その後MITで研究生活を終えました。

そのMITにいる間に、彼は装飾芸術と冶金学の進展との関連に関する本や論文を著しました。彼は1992年8月25日に88才で、マサチューセッツ州ケンブリッジにて亡くなりました。

次の比較的短く、しかし最も難しい章において、プルトニウムが実際に奇妙な元素であることを述べましょう。

〈原 注〉

1.『プルトニウムの最初の計量』、Atomic Energy Commission of Technical Information,OakRidge,Tenn.,1967.

2.2つの研究所間の関係と原爆製造経緯について良く書かれているものとして、『困難な組み立て(Critical Assembly[訳注:criticalという言葉の「困難」と「臨界」という意味とをかけている])』

(リリアン・ホッドソン(Lillian Hoddeson)編)、Cambridge University Press,NewYork,1993があります。

3.この関係を導くのは難しくありません。以前に、臨界球の半径は、たとえばウランの核分裂の平均自由行程と同じオーダーでなければならないと書きました。

この平均自由行程というのは、連鎖反応で発生した中性子が次のウランと衝突して核分裂を起こさせるまでに移動する距離を表します。

核物質が圧縮されていない通常の状態では、平均自由行程はプルトニウムについては11センチメートル、ウラン235については16.5センチメートルです。

もし横物質を圧縮すれば、1立方センチメートル当たりにより多くの原子核がありますので、平均自由行程は短くなります。

実際、その値は密度に反比例します。 すなわち、γav~1/(密度)の関係があります[訳注:γavは平均自由行程]。密度を2倍にすれば、平均自由行程は半分になります。

ところが、臨界質量の体積は半径の3乗で変ります。

今問題にしている場合について言えば、半径は平均自由行程に比例します。 すなわち、㌔rit~γa,3乗~/(密度)3乗です。

ここで求めたいのは、臨界質量の核物質が占める体積、すなわちどれだけの核物質が必要かということです。この質量は臨界質量の核物質が占める体積に密度を掛けたものです。

すなわちMcrit~Vcrit×(密度)です。これら関係をすべて考慮しますと、臨界質量Mcritは密度の2乗で減少することがわかります。

密度を2倍にすれば、臨界質量は4分の1になります。従って、核爆発を起こさせるのに必要な質量を知るのには、密度を知ることが基本的に重要であることがわかります。

4.これら事項について私が知る限りで最も明晰な説明をしているのは、カレー・サブレット(Carey Sublette)氏のウェブサイトですが、同氏はコンピュータ科学者にして核爆弾について詳細な研究を

してきました。本文の以下に述べていることは、次の2つのサイトから得ました。

WWW.nuClearweaponsarchive.org/Nwfaq2-1.html

WWW.nuClearweaponsarchive.org/Nwfaq4-1.html

この後者はより技術的なものです。このシリーズの他のサイトも、本間題に本格的に取り組もうとする者には不可欠なものです。

5.もっと詳細については、カレー・サブレット(Carey Sublette)氏の次のサイト参照。

WWW.nuClearweaponsarchive.org/Nwfaq8.htm1

6.www.arq.1anl.gov/source/orgs/nmt/nmtdo/AQarchive/04summer/zachariasen.html参照。

7.Los Alamos Science,Vol.151,Summer 1980.

8.この引用部分は、C.H.スミス(C.H.Smith)著『1943-45年の間のロスアラモス研究所における冶金学研究の回想(Some Recollections of Metallurgy at LosAlamos,1943-45)』、

Journal of Nuclear Materials,Vol.100,P.3,1981にあります。

スミスは自伝的回想を一度も著しませんでした。ロスアラモス研究所の歴史において、本章の原注2.を例外として、冶金学研究が非常に重要な役割を果したのに、ほとんど述べられたものがありません。

その意味で、エドワード・ハメル(Edward Hammel)著『‘48’を手なずける(The Taming of ‘48’)』、Los Alamos Science,Vol.26,P.1,2000ももう一つの例外です。

9.上記8.のスミスの論文p.4.スミスの説明で不思議な点があります。あるところでは、彼は水素が高エネルギー中性子の「良い減速材」であると述べています。

これは水素が最も軽い元素なので衝突時には運動量の多くを受取るという意味では正しいことです。問題は、陽子が中性子を捕獲してそれを一連の連鎖反応から取り去ってしまうことです。

このことが、燃料が天然ウランである場合の原子炉での減速材として、通常の水(軽水)ではなくてグラファイトが用いられる理由です。濃縮ウランを用いた原子炉では、軽水減速のものもあります。

ロスアラモス研究所で、原爆に水素化ウランを用いるアイデアが研究されたことがありますが、私が知る限りではそれが実現されたことはありませんでした。

またスミスのエッセイでの他の奇妙な点は、プルトニウムを合金として安定化するのにγ相だと述べていることです。これは∂相のことでしょう。

10.Los Alamos Science,Vol.23,P.164,1995.

11.同上p.130.

12.E.S.マカロフ(e.S.Makarov)著『ウラン、トリウム、ネプツニウムの単純な化合物の結晶化学(Crystal Chemistry of Simple Compounds of Uranium,Thorium, Neptunium)』、

Consultant Bureau Inc.,New York,1959.

13.本章の原注10.p.152、および『人への放射線影響研究:当初の時代を思い出して(Human Radiation Studies : Remembering the Early Years )』、DOE/EH-0454.

14.同上p.153.