23イルミナティ傀儡としてのチャーチル

イルミナティ傀儡としてのチャーチル

1940年9月7日、ナチスによる初のロンドン空爆によって三〇六人の民間人の命が奪われた後、ウインストン・チャーチルはこう言った

「彼ら〔ロンドン市民〕は私を励ましてくれた。彼らの家を〔故意に〕爆撃して粉々にさせる代わりに、勝利を与えてくれと」

チャーチルは真実を語っている。彼はロンドン市民の知らないところで、民間人を空爆目標から外すというヒトラーの申し出を断った。それどころか、彼はベルリンなどの民間地域を先制攻撃することによって、ヒトラーをロンドン爆撃に駆り立てた。

チャーチルは空軍中将に「敵を徹底的に痛めつけろ」と命じ、内閣には「軍事目的をさらに拡大解釈して爆撃することが、我々の目下の最善策だ」と指示した。

彼は赤十字による民間人死傷者の視察も阻んだ。

1940年9月未には、700人の子供を含む7000人のロンドン市民の死体がさらされた。終戦までに、6万人以上の英国市民と65万人以上のドイツ市民が「戦略」爆撃によって命を奪われた。

1940年、チャーチルは英国空軍の基地から攻撃をそらさなければならない一方で、虐殺も始める必要があった。ほとんど戦闘のないまま開戦一年が過ぎており、それは「いんちき戦争」と呼ばれていた。

ヒトラーは大半の英国人が受け入れを望むような寛大な和平案を提示していた。 もし英国が和平に応じていたら、ユダヤ人ホロコーストはなかっただろう。

チャーチルは第二次世界大戦を「歴史上もっとも無用な戦争」と表現した。

しかし、彼は自分の株の損失を補填し、愛するチャートウエルの屋敷を差し押さえから救ったシティーの銀行家たちに報いた。

躁鬱病患者だった彼は戦争を生きがいとし、一般市民を少しもかえりみなかった。

チャーチルが「Ⅴ」サインをして見せたとき、人々はそれを勝利への意欲だと思った。しかし、それは彼の真の忠誠を示していた。「Ⅴ」サインは逆さの十字架、つまり「壊れた」十字架を意味するオカルトのサインなのである。

これは私たちが教わる甘ったるい歴史とは違う。私たちが「歴史」と呼ぶものは、ほとんどが宣伝、つまり、隠蔽工作にすぎない。

こうした事実は、第二次世界大戦を率直に描写したデーヴイツド・アーヴイングの『チャーチルの戦争(Churchill's War)』(1987年)に基づいている。

それは最近のロンドンでの爆破事件にどのような光明を投じるだろうか。 第二世界大戦は人類をイルミナティ(ロンドンを拠点とする独占資本)による世界独裁に隷属させるための

長期計画の大きな一歩だった。

チャーチルが激怒したドイツ独自の経済システム構築

ゥィンストン・チャーチルについての重要な事実として、彼の母方の祖父レナード・ジエローム(旧姓ジエーコブソン、二八二八~一入九一)は、ロスチャイルド家の米国の主要な代理人オーガスト・ベルモント(旧姓ショーンベルク、1813~1891)の投資家であり、ビジネス・パートナーだった。

ジエニー・ジエロームとマールバラ公爵の次男ランドルフ・チャーチルとの結婚は、政略結婚の一つだったようで、それはユダヤ人投資家の娘と金遣いの荒い英国貴族との結びつきに典型的なものだった。

マールバラの反対は、今日の約500万ドルに相当する5万ポンドの持参金によって克服されたようだ。

にもかかわらず、彼らは1874年4月の結婚式に出席せず、公爵夫人はその七カ月後に生まれた幼いウインストンを「成り上がり者」と呼んだ。

伝記作家たちはチャーチルをあまり「英国人」らしく描写せず、ユダヤ人のイメージを用いる傾向がある。

チャーチルが「早産」だつたことで、ウイリアム・マンチェスターは「彼は自分の順番を待つことができなかった」と言っている(『最後の獅子(The Last Lion)』)。

ベアトリス・ウエッグは晩餐会で彼の隣に座ったときのことをこう記しているー「第一印象として、落ち着きがなく、ほとんど耐え難いほどに自分勝手で、傲慢で、浅はかで、反動的で、それでもどこか人を惹きつける魅力があった。 (中略)英国貴族というよりも米国の投機家という感じで、自分と自分の選挙運動のことばかり話した」(ジョン・ピアソン『ウインストン・チャーチルの私生活(The Private Lives of Winston Churchill)』)

チャーチルの「追いつめられたような」性格は、両親が彼に無関心で、成功することによって愛情を勝ち取るように教えたという事実に起因している。

彼は二四歳で著述家として成功し、三三歳で閣僚となった。 彼の出世は、母親が有力銀行家のアーネスト・カッセルなど、ロスチャイルド家とのコネを持っていたことに助けられた

(若きチャーチルは、その政治生命を梅毒によって打ち切られた父親に復讐もしたかった)。

1930年代、チャーチルの銀行家の友人たちは彼を、英国シェルの会長でシオニストのロバート・ウエーリー・コーエンの率いる圧力団体「フォーカス・グループ」の指導者にした。チャーチルは「宥和政策」の主要な反対者となり、結果としてヒトラーとの和平の障壁となった。

1936年、首相のスタンリー・ボールドウィンはチャーチル率いる代表団に対して、「もしヨーロッパでなすべき戦いがあるとすれば、私はそれをボルシエヴイキとナチスにやってもらい

たい」と言った。 しかし、この政策はイルミナチィの考えと合致しなかった。

「赤い交響曲」文書によれば、イルミナティはスターリンを操り、戦争を始めるためにヒトラーを生み出した。しかし、ヒトラーは独自の紙幣を発行することによって銀行家たちを遠ざけたようだ。 これは「革命」(つまり、イルミナティの世界支配)にとって重大な脅威だった。

「第二次世界大戦前にドイツが犯した許しがたい罪は、世界の取引システムから自国の経済を解放し、世界の金融にその利益を得る機会を与えないような独自の為替メカニズムをつくり出そうとしたことだ」とチャーチルは言った(ロバート・ブースビーに対するチャーチルの言葉)。

戦争にも歴史にも、偶然などありえない

ヒトラーは英国との戦争を望まなかった。英国を民族的同胞と考え、本格的な戦争になることを恐れた彼は、何度も和平を提案し、ヨーロッパを自由にする代わりに英帝国を支持し、相当な国家的自治権を認める(たとえば、ヴイシー政府)と約束した。

1941年5月、ヒトラーは講和を求めて代理のルドルフ・ヘスを英国へ送ったが、チャーチルはヘスを監禁させた。

1941年6月のロシア侵攻後、ヒトラーのユダヤ人政策は排斥から撲滅へと転じた。彼はロシア共産主義をユダヤ現象の一つと見なし、ドイツは大量殺戟の死闘へとのめり込んでいった。

もし英国が和平に応じるか、条件付き降伏を考慮していれば、そんなことにはならなかっただろう。 しかし、英国がロシアを見捨てることはあり得なかった。

フランクリン・D・ルーズヴエルトの有名な言葉にあるように、政治の世界では偶然の事件など一つもない。 すべては計画されたものなのだ。

イルミナテイの第二次世界大戦における目的は、経済、政治、オカルトのすべてに及んでいた

ヨーロッパの国民国家(英国も含めて)を破壊し、何百万人もの命を彼らの神である悪魔に.捧げる一方で、私腹を肥やす。

ユダヤ人ホロコーストもその計画の一部で、フリーメイソンの「ユダヤ」国家建設を正当化するためのものだった。

バーナード・ワッサースタインはこう書いている

「戦争の最初の二年間、ドイツ当局がナチス・ドイツやナチス占領地からユダヤ人を大量脱出させようと尽力していたとき、ユダヤ人難民に対してヨーロッパからの逃げ道を遮ろうと主導したのは英国政府だった」(『英国とヨーロッパのユダヤ人、1939年~1945年(Britain and the Jews of Europe,1939-1945)』)

歴史で重要なのは、何ごとも見かけとは異なるということを忘れないことだ。

すべては何世紀にも及ぶ計画に従って組織されている。キリスト教文明の薄明が消えうせる一方で、暗黒と不安の時代がこの世に忍び寄っている。