20平成おとぎ話-河合隼雄

心理学者の河合隼雄さんの本『平成おとぎ話』のなかに教育について 素晴らしく良い文が有りました、 以下転記です。

タイトル 「人ニ教ヘラレタル理屈ハ皆ツケヤキバナリ。」

最近鶴岡市を訪れ、文化に関心の高い鶴岡市長さんの計らいで、史跡の庄内藩校『致道館』を見学する事が出来た。

市長さんの自慢にされるだけあって、実に立派なものだが、ここにはその時に特に印象に残った事について述べる。

『致道館』では庄内藩の子弟が学問をするのだが、その趣意書(被仰出書)を見ると、

人間には『天性、得手不得手』がある。

そして「天性の大なるものは大成して、小なるものは小成」するので、個々の天性を見抜いて指導する事が大切だと書いてある。

これを見て、「アレッ」と思ったのは、今、日本の教育界で大切な課題となっている「個性の尊重」ということが浮かんだからである。

その時にいただいた、社団法人庄内文化財保存会『史跡庄内藩校 致道館』を帰宅後に読むと、次のようなことがわかった。

入学するものは士分以上の子弟だが、それ以下のものでも能力ある物は特に入学させる

入学後は成績次第で年齢に関係なく進級させる(此れは飛び級ではないか!)

それに次な様なこともある。

入学したての少年たちへの指導者に対する注意として、

「学校の儀は、少年輩の遊ぶ所」だから、「何事も寛大に取り扱い」、子供たちが退屈しない様に「面白く存じ業を教え遊ばせる」ように努力すべきである

というのである。

此れは個性を伸ばそうとする初等教育の方法としては最高のことではないだろうか。

上級者はどうなるのだろう

最上級生は「舎生」と呼ばれて、今日の大学院に相当するだろう。

この様な生徒(とは言っても立派な成人である)は、

一人一室を与えられて、「完全な自発学習である。全ての雑用から離れ各室において修学に専念」し、質問があるときのみ指導者に教えを乞うシステムであった

面白いのは、宿泊希望者は「勝手次第」と云うところ。 強制的でないのが良い。

学風は荻生徂徠の教えに従っているのだが、その教えに従って、指導者はあくまでも学生の自発性を尊び、自説を押し付けることのないように注意をした

教えるにしても「人ニ教ヘラレタル理屈ハ皆ツケヤキバナリ」と心得て、教え過ぎにならぬようにしなくてはならない

「彼ヨリ求ムル心ナキニ、此方ヨリ説カントスルハ説クニアラズ売ルナリ。 売ラントスル念アリテハ、皆己ガ為ヲ思フニテ彼ヲ益スルコトニハナラヌコトナリ」。

こんなものを読むと、日本の教授は自説を「売ラントスル念」が強過ぎないか、反省すべきであると思う。

とにかく『致道館』の教育方針は、現代の大学院においても理想的と云っていいだろう。

第十五期の中央教育審議会(私もその委員の一人)では、「トビ級」の可能性が論じられたが、おそらく国民全体の同意が得られないだろうということで見送りになった。

欧米ではトビ級等は普通に行われているのは周知のことである。

欧米の個人主義の考え方からすると、個人に能力の差があるのが当然のことで、個人の能力に応じた指導をするのが良いと考える。

日本人は、その点、「平等感」が非常に強い。 個人の能力差を認めるのに強い抵抗感を抱く。

中教審が今度、17歳でも大学入学の可能性を開く答申をしたが__こんなことは欧米では当然至極のこと__此れに対する反発も強い。

ところで、ここに紹介した『致道館』の教育方針はどうだろう。 トビ級等平気で認めているのだ。 日本人は明治以前は、個性教育をしていたのだろうか

ここで考えなくてはならぬことは、

「致道館」で言われる「天性」と、欧米人のいう「個性」は同じものか、

かって、これほど能力差を肯定していた日本人が、何故、絶対平等主義になったのか

の二点である。

これは時間をかけてじっくり考えるべき問題である。

以上 転記終了。