13 人類創造と意識の実

ショウジョウバエに対して人工的に誘発した突然変異には目を見張るものがある(羽根の延長、体色の変化)が、おそらくこれは原因と結果を取り違えさせる類のものであろう。

これで突然変異の実態が明らかになったと思いこむのはまだ早い。

ほんとうは人間の力をもってしては、真に知的で包括的な、深い突然変異を生じさせ、異なる機能を具体化させることは不可能なのだ。

ピアノの鍵盤を叩いて音を出せるからといって、音楽を創造できるということにはならないのである。

動物界における突然変異は、たったひとつの遺伝子の変異のみですむような、生易しいものではない。

変異はいっせいに滝のように生じるのである。わたしの友人ルイ・ダヴィッドは、これを「プレゼントの箱」と名づけている。

それではヒト化の現象はどう説明されるのか? 聖書にあるように人は神によって土の塵からつくられたのではないとしたら、やはり先行人類の集団から発生したはずなのだ。

人間以前の種は、人間ではないのである。

先行人類からヒト上科※1への、さらには意識を持った人間への移行もやはり、大量の遺伝子の同時的変異によって実現されたものと推測される。

人間はダーウィンの信じていたように猿が先祖なのではなく、猿も人間も共通の、正体不明の先祖を持っていたのだと考える専門家がいる。

アクストラロビテクスが人間の遠い祖先だという見解の人もいる。

このアクストラロビテクスは身長1m20cmほどの小さな動物で、木に住まないと考えられているので、これを猿だと言い切ることはできない。

かといって関節や骨盤や腰の位置、それに脊髄と頭部のつながり具合からして、この小動物が歩いたり、ましてや走ったりできるとも考えられないのである。

猿といえども距離が短ければ直立したり、歩いたりすることはできる。

しかしいざ他の生物に襲われると、すぐさま四つ足になって木の上や野原を逃げていくのである。アクストラロビテクスにしてもそれは同じことで、走って逃げることはできない。

なぜなのか?

膝関節が左右に五〇度ほど曲がってしまうからである。これは猿の特質であり、直立歩行を困難にするものだ。

人間の脛骨の、膝関節の透き間の角度はプラスマイナス五度くらいで、それよりはずっと少ないのである。

となると直立二本足で逃げるのか、それとも四っ足で逃げるのか、二つに一つを選ばねばならない。人間の姿形をした動物が、四つ足でありながら二本足で立つわけがないのだし、

もし仮にそうだとすると四つ足でも二本足でも出来の悪い動物だということになる。これは自然選択にとっては不利な条件である。

四っ足の、もしくは四肢の動物が、いったいどのようにして段階的に二本足の状態に移行できたのであろうか。

四肢の動物が少しずつ立ちあがるところは、なかなか想像し難い。直立の姿勢を維持するためには、多数の関節が同時に変化しなければならない。

ということはつまりおびただしい数の遺伝子が変化する必要があるのである。有名な連鎖の欠落した部分などというものは、おそらくは存在しないのだ。

先行人類から直立人間への移行は、大量の突然変異が同時に起こり、上肢と下肢のすべての関節と、脊髄と頭部の接合部が一挙に更新されることによって実現されたものと推測される。頭蓋骨から脊髄へ抜ける穴の位置が移動することによって、後頭部の飛躍的な成長が可能になったのだ。この動物の頭蓋骨は一挙に大きく成長し、突如として彼らは立ちぁがったのだ。

赤ん妨の頭蓋骨がまだ骨組織として固まっていないのも、この事実と関連している可能性がある。生誕後に脳の容積が増大しやすい仕組みになっているのかもしれない。

発声能力もやはりこの瞬間に生じた可能性がある。頭が垂直に起きあがり、喉の形が変われば、声を出すのも容易になる。

そのおかげで個人間のコミュニケーションが充実したものと考えられる。

このような一連の突然変異が何によって連結されているのかは、未だに解明されていない。

すでに述べたように、ユミットはこの突然変異は「あの世」の指令によって遂行されるのだとしている。

遺伝子の変化がそのまま突然変異だというわけではない。遺伝子は上からの、「あの世」からの、超物理的構造からの指令を伝達しているにすぎないのである。

それにしても人間は一団をなして突如出現したのだろうか? 最初はヒト上科が一人だけ現れて、自分が周囲の動物たちとは違うことにふと気がついた、と考えるほうが妥当であろう。彼は周囲の同類たちとは遺伝的※2にも適合性がなかったものと想像される。

交尾しても何も生まれないか、頭部の構造の決定的な相違のために、生存不能の怪物が生まれるかのどちらかなのだ。

ユミットの手紙には、人類の出現は最初のうちこそ散発的で重要なものではなかったが、ある時期に突如として加速度的に増大の一途を辿ったのだとある。

「あの世」が時機を見計らって、ちょうどひとつの種を新たに誕生させるときのように、人間を創造することにしたのであろう。

先駆的な存在が出現しては消えていった時代を経た後は、この現象が一気に加速したことが分かる。

孤立した個体が、先駆者として自然の懐から生み出され、おびただしい数の試作がくり返された後、それらが子孫なしに滅びてしまった確率はきわめて高い。

だが、やがて最初の人類の祖先が現れて子供をつくり、新しい種を構成する端緒をつかむこととなる。

そのような状況が成立するまでは、動物の集団の中をさまよう孤立した男たちや女たちは、いったいどんな運命を辿ったのだろうか。

インドの狼男の話や、もっと一般的には迷子の子供が動物たちの中で暮らした経験を手がかりにすれば、それも少しは想像がつく。

人間の子供は発声能力などの自己の潜在能力を、すべて発揮することはできなかった。

よく知られているように、狼に育てられた子供は種族の構成員の行動を真似て、膝と肘をついて動き回っていたのである。

先行人類の間に二本足で立つことのできる人間が出現した場合、彼は一人だけ奇妙な生活を強いられることになったはずである。

周囲との適応の仕方いかんによっては彼の存在は黙認されたかもしれないが、逆に追放されたり殺されたりした可能性も否定できない。

いずれにしても孤立した最初の人間たちの命運は、長きにわたって悲惨なものだったのではあるまいか。

そのうえ意識の獲得には、深刻な行動の変更が伴う。意識を持って生まれた人間は、かなり早い時期に出身種族から孤立してしまったはずだ。

それが動物の世界のエデンの園※3を追放されるアダムとイブの神話であり、二人が食べた「智恵の実」は、じつは「意識の実」だったのではなかろうか。

動物とはまったく別種の能力を付与された人間という種が、地球という惑星に向けて放たれたのだ。

そして人間にあっては生得のものよりも、生後学習したことのほうが発達を遂げた。言語活動は爆発的に進展し、それに伴って記憶力も大幅な向上を見た。さらにテクノロジーの発達4により口頭での、後には文字によるコミュニケーションが可能となったのである。

では知性や意識はどうなのか。

まず知性と意識は分けて考える必要がある。人間はコンピューターを発明して以来、知性の活動に結びついた多くの行動を再現しょうと試みてきた。

今や学習機能や自己修正能力を有するプログラムさえある。

人間が自分で走るよりも自動車のほうがずっと速いのと同じ意味で、こと計算や記憶に関しては、コンピューターのほうが人間よりもはるかに優秀である。

現代のロボットは迷宮に入れられても、周囲の地勢をある程度探索してその全体もしくは一部を再構成できるようになれば、きわめて迅速に形態を識別し、道順を記憶してすばやく

そこから脱出してしまう。

哺乳類の知性が発達するのは、その種にとっては望ましいことだ。惑星ウンモには地球の猿よりもずっと高度な知性を持つ類人猿がいる、と手紙には書かれている。

知性によって能力も向上する。類人猿が意識を持たぬままに単なる自然選択によって、大幅な知的能力を獲得したことは大いに考えられる。

話し、書き、テクノロジーを発達させるのに、意識を持たないで何の不都合があろうか。

それならば意識は何のためにあるのか? わたしは自然が偶然に事を為すとは考えていない。機能性や生存競争の点からすれば、意識は役に立つというよりは障害となるはずだ。

いつかは機械に生命を吹きこみ、意識すら持たせることもできると考えている情報工学の関係者もいる。

だがそこには乗り越え難い質的飛躍があり、超越的な性格を帯びた断絶がありはしないだろうか?

意識によって善悪の観念が生じ、良心のとがめや後悔の感情が生まれる。したがって意識には形而上学的としか言いようのない別の機能があるはずなのだ。

人間には存在するという意識があり、自らの存在の全容がどのようなものかという疑問が、そこから直ちに芽生えてくる。

動物は死の何たるかを意識しているのだろうか? いずれ自分も死ぬのだということを知っているのだろうか?

肉体の死の後に何が起こるのか、と自問したりするものなのだろうか? われわれは否、と答えたい誘惑に駆られてしまう。

ところがこれこそが意識ある存在にはたちどころに浮かんでくる疑問なのだ。この間いこそが、おそらく意識の主たる機能なのだ。

ネアンデルタール人には儀式があり、死者への酷慮の跡が窺える。

早くも根本的な形而上学的疑念に基づいたこのような活動は、ヒト化の段階を経たとたんに、原始的な形で開始されたものではなかろうか。

死者への配慮はやがて、たとえばキリストの生涯に見られるような形而上学的絞首台を生み出し、神話の構築や無償の宗教活動を促すこととなる。

死とは何かというこの形而上学的疑問は、複雑な楯姻儀礼とは性格を異にするものである。

婚姻は自然淘汰と身元確認の営為であるが、この疑問のほうは進化の面ではまったく無目的で余計なものなのだ。死者の世話をしたところで何の役にも立たない。

そんなことをする動物はいないのだ。

人間の意識の機能は形而上学を構築することであり、科学技術にまつわる思考は、それに付随したマイナーな活動だということなのではないのだろうか?

科学者は純粋に技術的な問題に自己の精神的エネルギーのすべてを傾注することで、むしろ誤った道に踏みこんでしまっているのではないだろうか?

※1 動物学では人間のことをヒトと言い、ヒト上科はアウストラロビテクスなどヒト科の動物よりも猿に近い科として分類される。

※2 遺伝的適合性は、形態の類似とは必ずしも一致しない。人と猿は似ている。しかし両者には遺伝的適合性はない。

ロバと馬をかけ合わせてラバをつくるようなわけにはいかないのである。この遺伝的不適合性には様々のレベルがある。

精子は自分がそれと認知しないかぎり、卵子に侵入するようなことは絶対にない。これは紛れもない事実である。奇形発生によって不適合性が明らかになる場合もある。

たとえばユミットと人間の間に適合性はない。

混血の子供をつくろうとしても、脳の形成がうまくいかないから、とても生きていけるような子供にはなるまい、とユミットは言っている。

※3エデンの園には樹が一本ではなく、天使ケルビー二によってしっかりと護られた善悪の意識の樹と「生命の樹」の二本があったのだ。

これは遺伝学の世界のイメージなのだろうか、それとも「あの世」のイメージなのだろうか?