28新世界秩序を生き延びるために

新世界秩序を生き延びるために ●あとがきに代えて

自身への覚書として

「生き延びる」とは金貨や非常食を蓄えたり、AK・47フイフル銃を手に入れたりといったことではない。

それは生理的な意味での死を免れるという意味ではなく、魂の救済の問題である。

新世界秩序(ニュー・ワールド・オーダー)に執着し、落ち込み、耐えられなくなるという性向の問題だ。

状況は厳しい。悪魔的カルト集団は世界の金融経済を独占し、無数の協力者を通してこの世を支配している。

それは文明を破壊し、ジョージ・オーウェル的な警察国家を築こうとしている。

私たちは外界のショーウインドーに顔を押しっけ、毎日何時間も日課のように新たな展開を見守っている。

私たちは「外的なものに動機づけされている」。テレビのスイッチを入れずには、茶の間で過ごすこともできない。

私たちは外界から栄養を摂ろうとするが、私たちが吸収するもののほとんどは有害だ 堕落、腐敗、不誠実、そして悲劇

(マスコミの目的は私たちを堕落させ、人間性を失わせることだ)。

人類はつねに欺瞞によってみずからを正当化しょうとする悪魔的勢力に支配されている。

私たちはこの悪魔に打ち勝つことができない。 しかし、私たちはそれでも自分の生活をコントロールしている。究極のところ、その戦いは人類の魂を懸けた戦いである。

まずは自分の魂を守ることから始めようではないか。

これは魂と外界との間に壁を作り、聖域と世俗との間にバランスを築くことを意味する。

そのためには一定時間、外界(世俗)をシャットアウトし、自分を鼓舞するものに意識を集中させる必要がある。

つまり、テレビやインターネットといったメディア全般のスイッチを切るということだ。

ちょうど食物が肉体の栄養となるように、頭で考えたことや目で見たこと、耳で聞いたことは魂の糧となる。魂は美や品格、調和、真実、そして高潔を得ようと手を伸ばす。

人間にはその内面が反映される。

では、何が私たちの魂を高めてくれるのか。 それはゆとりある散歩や自然とのふれ合い、趣味、スポーツ、あるいは音楽かもしれない。それは家族や友人と過ごす時間かもしれない。それは聖書や宗教書、あるいは瞑想かもしれない。

ヘンリー・ソローはこう言った「自分の好きなことをせよ。自分の骨の味を知り、それを噛みしめ、地面に埋め、掘り出してさらに噛みしめよ」

幸福は心の内にあるという神秘論者の考えに私は同感だ。

それには他の何かを求めるのではなく、自分の魂を自分のものにする必要がある。

外界にばかり目を向けていたら、私たちは自分の欲しいものだけに執着し、みずからの魂を見失ってしまう。これは中毒と不幸を招く原因である。

オカルトエリートは私たちをセックスと金銭 心の極地 で支配する。

恋愛とは男女が結びつき、子供をつくるほどに性的感情が強まる時期だ。だがセックスや恋愛は一生の関心事でもなければ、すべてを解決する万能薬でもないはずである。

同じことが金(おかね)についても言える。株式市場は何千万もの人々を夢中にさせる巨大なカジノだ。

中央銀行カルトは無限の資金を持っている。私たちを高揚させるため(その一方で公民権をめちゃくちやにし、無意味な戦争をする)、株価を高騰させる。

そして今度は私たちから金を巻き上げるため、市場を崩壊させる。彼らに操られてはならない。

悪魔的勢力はずっと以前からここにいた。私たちが彼らの存在に気づいたのは、9・11によってその終盤戦の開始が暗示されたからだ。

彼らはその悪行に私たちを執着させることで、私たちの発展を妨げ、堕落させようとしている。

自分の好きなことに心を調和させ、バランスを取り戻そう。幸福の前線基地を離れてはならない。

みずからの天国をつくろう

外界はしばしば換気をしなければ、息苦しい公衆トイレのように思える。これはプロタゴラスの格言、「人間は万物の尺度なり」が公式の宗教になつているためだ。

近代文化は私たちの堕落した自我を反映したものにほかならず、T・S・エリオットの言う「鏡の荒野」 である。私たちは自分の吐き出した煙を吸い込んでいる。

人間を信仰の対象としたのが「人間主義」であり、人間を神格化したのが「イルミナチイ主義」である。

プラトンは、プロタゴラスの誤りを修正しようとした「人間ではなく、神が万物の尺度である」

だが私たちはプラトンの言葉に耳を傾けなかった。

神は今、人々の生活から締め出されている。「聖なる尺度」がすべてに当てはめられていたのはいつのことだったろう。

人類最高の自我が賞賛される日は来るのだろうか。それは新鮮な空気を吸い込むようなものだろう。

二大精神コントロールシステムからの脱却

これは狂気の世界でいかに精神的に生き延びるかという問題である。

私たちは無力感を抱き、はるか遠くの出来事に変化をもたらすことなどできないと考えがちだ。

しかし実際、私たちは最前線にいる。新世界秩序は私たちの頭と魂を求める。私たちはそれに対し、神にみずからを捧げることによって反撃するのである。

まずは彼らの二大統制システム セックスと金銭 を妨害する必要がある。

私たちは性的衝動を男女一対一の関係に限定することによってそれを管理できる。

そして自分の収入の範囲内で生活し、金は大した関心事ではないと自分を律することによって金の強迫から逃れられる。

ヘンリー・ソローはこうも言った ーー「人間は手を出さずにおけるものが多いほど豊かである」ーー。 真に豊かな人間とは、金のことを考えない人間である。

この尺度によれば、多くの億万長者は貧者である。 実際、人間は金を持てば持つほど、それ以外のことを考えるのが難しくなる。

倒錯者の言いなりになつてはいけない

最後に幸せを感じたのはいつのことだったろう。

たしかに、一部の悪党どもが世界を支配していることは腹立たしい。しかし、人間は万物の尺度ではない。

何が起ころうとも、神が唯二の現実である。人間の向こう側に目を向け、精神的現実 美、高潔、正義、愛 に集中しよう。

私たちは強制収容所が造られる前からそこに身を置いている。

イルミナチイは自由という幻想を打ち砕くようなことはしない。人々を支配するにはこの上ない手段だからだ。

しかし、たとえ彼らにそうされたとしても、私たちは喜びを得ることができなければならない。 神は喜びであり、神は人間よりもずっと偉大なのである。

重要なのは、イルミナチイに操られた連中を無視することだ。

意識するのはいいが、堕落した倒錯者の言いなりになつてはならない。 小人が作った鏡を見つめてはならない。

詩人ヘンリー・モア(1614~1687)の言葉も今日的な意味を持っている。

「物事を知った後の大それた望みが私の中で弱まり、心の純粋さと誠実さ以外の何も求めなくなつたとき、予想していた以上の大きな確信が私の中で絶えず輝いた。

それは私がもっとも知りたいと思っていた物事のときでさえそうだった」

定期的に外界を遮断することで、私たちはまだカを有している唯一の領域を守ることができる。 それによって私たちは社会に健全な貢献をすることができるのだ。

ポール・エルマー・モア(1864~1937)が言ったように、「私を幸せにする一日が私を賢くする」。 さあ、幸福の技を習得しょうではないか。