11 人間の魂はどこに行きつくか

ユミットの手紙には『数学者ミンコクスキーが考えた、いわゆる時空がわれわれには存在しているが、それは10次元のメッシュの中にあるのだ』とある。

もう少し先には、

『地球人は空間を仝方位的な連続体として思い描いている。ユークリッド※1が導入したこの空間イメージから出発して、あなたがたは点、直線、面といった抽象観念にもとづく

幾何学の体系をつくりあげ、知性による抽象に頼ったとはいえ、それらが宇宙の真の構成要素※2であると素朴に信じこんでしまった』とある。

ユミットによれば、10次元で記述されるすべての宇宙は「量子」であり、その次元自体が「量子化」されて、離散的数値しか取りえないものなのだ。

連続性などということは幻想にすぎず、われわれの科学体系の基本公理であるいわゆる時空連続体も、空想の産物でしかない。

知覚し測定しうる宇宙は、もっと巨大な現実の、単なる部分的要素である。

われわれの知る宇宙は、じつは観察者が創り出したものなのだと言う。未だ新しさを失っていない相対性の観念が、ここでは宇宙規模に拡大されているのが分かる。

このような記述は、今のところわれわれの測定手段では捉えられないものすべてが、限りなく重要であることを示唆するものだ。

形而上学という言葉(物理学の後や彼方にあるもの)はこのとき最大限の重要性を帯びてくる。

宇宙をどれほど単純化して説明しようとしても、本質的な問題、つまり意識の問題が残されている。

科学者は生命の起源に関与したある種のメカニズムについて、それなりの見解を抱き、自己形成的なある種の原初的行動についても、生化学の用語で説明している。

つまりネオダーウィニズム※3が背景となり、独断的な根拠となって、人間を頂点とした種の進化論が登場してきたのである。

しかしその段階では意識は何の役に立つのであろうか? 現代科学にとってそんなものは、余計な代物ではないのだろうか?

ユミットの手紙には、この本質町な問題に対する解答が見いだされる。人間の頭脳には、魂ともいうべき実体との絆の役目をになう組織があるというのだ。

この魂というコンセプトは新しいものではないが、驚くべきことに、この身体と精神の世界の結びつきを解明するような実験が報告されているのである。

この実験は、現地点でわれわれの知り得るような手段で行われたものではない。

「ウンモの生化学」はとりわけ重力波(現在のわれわれには測定することも、ましてや発生させることもできない)探知器を頻繁に活用するものである。

ちなみにこの重力波は生物の基本的メカニズム、ことに細胞と細胞との、もしくは細胞質と細胞核との関連においてかなり重要なものなのだが、もちろんわれわれには検証不可能な

説である。

ユミットの文章は、自分たちの星で行われた決定的実験について報告しているのであり、

この実験を通じてまず第一に人間の頭脳には稀少ガスの原子※4があって、これが正確には視床下部のところできわめて重要な役割をしていることが発見された。

さらにこの原子に結合した一連の電子が、量子力学の法則に反し、かの有名な不確定性原理を無視したじつに奇妙な運動をしていることが判明したのである。

と同時に惑星ウンモの人類においては、この原子にかかわるいくつかの現象が完全にシンクロナイズされていることも発見された。

体系的に実施された調査研究の結果、この原子群によって人間の頭脳が形而上学〔メタフィジック〕の世界、つまり語源的に言えば物理学〔フィジック〕を超えた超物理的〔メタ〕

世界と、つまりわれわれの狭苦しい四次元の牢獄を超えた世界と接触していることが解明されたのである。

人間はある惑星の地表で進化するロボットにたとえられるだろう。

このロボットの「ソフト」を精緻に分析した結果、それが完全に自立した刺激=反応の単純なシステムとして機能するのではなくて、ほんとうは軌道ステーションから、

つまりわれわれが「現実」と呼ぶもののイメージを構成する二次元的進化の領域の外側からの無線によって、部分的にはコントロールされていることが発見されたのである。

ひとつひとつの軌道ステーションが、言わばそのロボットの「魂」なのである。

しかも軌道ステーション同士は、これまた部分的にではあるがやはり無線のようなもので連絡を取り合っており、事実上ひとまとまりのものとなっている。

ユミットの図式からすると、魂とは生きた人間の体を操縦するシステムであり、個々の魂は、彼らが集合的魂と名づける巨大な集団のひとつの構成要素であって、

個々の魂はこの言わば惑星頭脳の、一個のニューロンとして機能することになる。

死が意味するのは、肉体とこの個人的な魂との絆の唐突な切断である。

死は稀少ガス原子のネットワークが機能を停止したとき、「送受信装置」が壊れ、絆が断たれたときにやって来る。

そこから人間の生命の第二段階が始まり、人は自分の個性を保ちながら集合的魂と、われわれの空間と時間の平凡な四次元世界の外側にある構造と一体化するプロセスを辿りはじめる。

生物学のイメージをもう一度援用してみよう。そして頭脳のニューロンがとても長い神経細胞の突起によって、「外部の現実」と接触する感覚細胞に結ばれているところを想像してみよう。

この連係が維持されているかぎり、ニューロンは外部からの情報処理に忙しく、隣接したニューロンとの関連は極めて希薄で、おざなりなものになるだろう。そのうち突如

として神経突起が断ち切れ、感覚細胞は死んでしまうのだ。すると「物理的現実」との接触を完全に断たれたlニーロンは、樹状突起を広げて隣接したニューロンとの対話を取り戻し、

脳の巨大な組織の一部となり、まだ結合している他のニューロンを介して情報を受け取り続けるしかない。

ユミットの手紙に戻れば、このような一体化の作業は、生前に人間の共同体における調和ある生活の原理をどの程度守ったか、もしくは無視したかで、人によって辛いか楽かも

ちがってくる。

「天国」という観念は「もっと大量で常に増大する情報へのアクセス」と言い換えるべきであろう。

人間の一生はグローバルな惑星人間が少しずつ自己形成するプロセスの、ほんの一瞬にすぎないのである。

このような枠組みの中では、善と悪というマニ教的二元論の独断的性格は多少やわらぎ、やや汎神論的でエコロジー的な色合いを帯びた世界観に溶けこんでしまうはずである。

倫理にしても人類とともに進化発展するものなのだ。

ユミットの手紙に従えば、いろいろな惑星の集合的魂が互いに交信することはない。

したがって宇宙、大文字の宇宙は、生成途上のおびただしい数の惑星の頭脳によって構成されていることになる。

またこれらの「惑星の集合的魂」は、ゆくゆくは唯一の総体に溶けこんでしまうわけである。 これはティヤール・ド・シヤルダン師※5の描くヴィジョンにきわめて近い。

宇宙全体は生成を続ける一種の生き物なのだ。

このような見方からすれば、惑星とそこに暮らす人々は、尊敬すべき一個のまとまった存在として尊重されるべきだと考えられる。

他の人間=惑星システムをかき乱すようなことをしてはならないという倫理もそこから生じてくる。

これらのシステムは形而上学的次元を有し、人類学者の単なる職業的関心を超えた、「研究の対象」に対する単なる敬意を超えた原理に従っているのである。

手紙は再び肉体と魂の絆というテーマを取り上げ、

この現象は人間が「物理法則に従いながらも」自由意思を保持できるように、まさにこの不確定性を活用しているのだとしているが、これは興味ある考え方だ。

宇宙全体はこの不確定性にさらされ、イスラム教の考えとは逆に「何も書かれていない」ことになろう。

個々の存在は種々の本能や条件づけの大海を泳ぎまわりながらも、将来に何らかの働きかけを行いつつ、その責任をとるという真の可能性を保持することになる。

宇宙自体は自らの未来を知らず、タコが数多くの針を駆使して時間の中に広がって行く巨大なセーターを編むように行動する。

しかもこのタコは自由自在に編み目を変えたり、ゴム編みにしたり、ねじり編みにしたり、目を飛ばしたりするのである。

この形而上学的モデルは輪廻転生のテーマに想を得たというよりも、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教の死後の生や″天国″の観念に近いものだ。

ユミットに言わせると、そもそもこの転生テーマ自体が生きている人間と、死者に相当する集合的魂の諸要素との接触を、誤って解釈したことにより生まれたものであり、

そのために前世という誤った印象が生じてしまったのである。

まったく誰の言葉を信じたものやら……これはある意味ではチャンネルの誤りだ。 このようなモデル、は自らの宗教を捨て、説教もないのだから、だがその結果は深刻である。

このような正確な情報に魅きつけられたスペインの接触者のうちにこの新しい信仰に帰依した人もいる。だがこの世界観には聖職者も、これを宗教だと言うわけにはいくまい。

この現象はまったく個人的なものであり、そこから指導者をいただく宗派のようなものは生まれなかった。加入儀式も瞑想もない。

これはただ単に一人ひとりがもっと人類全体との連帯感を持ったうえで、自らのモラルや行動の原則を選択することができるような世界観なのだ。

わたし個人としてはとりたてて東洋思想に心魅かれているわけでもないし、ニューエイジのようなアメリカ西海岸の宗教団体に首をつっこんだようなこともない。

制度となった宗教の、いかにもこれ見よがしのやり方は好きになれないのだ。

ここで興味深いことをひとつ。

それは形而上学に触れるメッセージが、今回初めて物理学との関連の可能性に触れ、もしかすると決定的なものになるかもしれない実験を行っていることだ。

もうオカルト的秘教や暗喩や寓話の時代は終わったのだ。

とどのつまりこの手紙が述べているのは、物理学者よ、あなたがたの装備に万全を期して、脳の奥底まで探求しなさい、そうすれば見つかるでしょう、ということなのだ。

ユミットのどの手紙を見ても、言語は科学に似ている。と言うよりも、わたしは言語というふるいを通してこれらの手紙の内実に触れることができたのだ。

おかげでわたしは自分の研究をふまえつつ、能力の範囲内で、その間に生じてきたこと(とりわけMHD)に関して、斬新な知識の構造的要素を識別しえたと思う。

だがこのユミットのメッセージの新たな局面は、何か別な種類のもののように思える。おそらくは新しい「科学主義的」秘教なのであろう。

それともボルヘス※‘6が示唆しているように、科学とは幻想文学の最も進化した形態なのであろうか。

この章は、おそらくオカルト主義者や超常現象の信奉者や神学者たちの興味を呼び覚ますだろう。

だが彼らがユミットの膨大な手紙の山を自分で読み解くなら、その中では自分たちがいかにもひどい扱いを受けていることに気づくはずだ。

なにしろ超常現象は単なるおもちゃとしか評価されておらず、本当だとしてもさして重要なことではないし、地球人が主張する事実のほとんどはトリックもしくは集団的ヒステリー

によるものだとされているのである。

制度化された宗教はどれもこれも一緒くたにされて、単なる宗派の違いとしか認識されていない。

ユミットによればどの宗教にも一面の真理はあるのだが、信じがたいほど多種多様な神話にも埋もれており、その最たるものはヒンズー教である。

どうやらローマ・カトリック教は、かなり徹底した歴史研究の対象となったらしい。

金属プレートに文字を刻んで、それを巻物※7にした当時の資料が発見され、それが地球人によってその後大幅に脚色された物語のオリジナルだということが明らかになった。

人類愛というキリストのメッセージは共感をもって迎えられたらしいのだが、手紙の著者は人間みな兄弟という本来の内容を、時とともに自分たちに都合の良いように利用し、

残酷なやり方も辞さないできた連中には、決して寛容ではない。

※1 B.C.三〇〇年頃活躍したギリシャの数学者。彼の書いた教科書「原論」は一九世紀まで、多少の修正はあったが幾何学の基準となっていた。

※2 ちなみに次元という言葉は混乱のもとであると、彼らは言っているが、全くその通りである。日常的な言葉をそのまま借用しているものだから、どうしてもなにか、時間や空間

のように計測可能なもののようなイメージを与えてしまう。

超ひも理論の主導者たちにしても、宇宙にさらなる次元を付け加えることにやぶさかではないのだが、結局それは原理的に相入れないものになってしまうのだ。

理論構築を始めると、とたんに特徴的次元が、補足されたどの次元にも結び付いている10^-33センチに等しいブランク長が現われるのだ。

そうなると研究者は頭を掻き掻き、「こういう条件では分析の対象とナイフの刃の厚みが同じになるんだから、金輪際実験なんてできやしないじゃないか!」と怒鳴りちらすしか

なくなってしまう。

※3 ダーウィンの進化論では進化の要因を一つに限定しなかったのに対し、進化はもっぱら自然選択によるものだとする説。

※4 特定の原子に照準を合わせるなんて、SFめいた話だが、1976年にはオングロストローム単位の直径、っまり原子と同じ直径を持つ、極端に「同一波長の」シンクロトロン

放射光線束を作り出すのに成功しているのだ。

※5 フランス人のカトリック司祭(1881〜1955)聖職のかたわら古生物学研究に打ちこむ。第一次大戦での従軍で死を目のあたりにし、思索を深め、

人間の進化を宇宙論的規模の世界観と結びつけようとした。学術調査団の一員として中国に行き、北京原人の発見にも貫献した。

※6 アルゼンチン生まれの詩人・小説家。現代ラテンアメリカ文学を代表する一人。その幻想的で斬新な作風は、フランスのみならず広くヨーロッパで高い評価を受けている。

※7 第三部15 イエス・キリストに関する調査を参照のこと。