14 「この世」と「あの世」
この世にしばし別れを告げて、ユミットたちの言う「あの世」を覗いて見ることにしよう。
「あの世」では人間の心的現象は、ばらばらにされ、序列がつけられて、ひとつの集合的魂の内に包括されてしまうのだ。
まず人類全体に共通の核があり、それから多くの魂が寄せ集まって、一種の民族の心的現象※1を構成している。
「個人の魂」はこれらの心的現象の内部に安住の地を見いだすことになるのだそうだ。
したがってこれは物理的かつ超物理的モデルの一種である。
「この世」にはおびただしい数の細胞があって、化学、触覚、視覚、電磁波(光は特殊な電磁波にすぎない)による情報伝達手段を備えている。
一方、「あの世」にはひとつの集合的魂があって、特殊で外面には現れない、この世とは異なる情報伝達手段を備えているのである。
彼らによると、先行人類が人間に移行した際には、遺伝子が根本的に変化したばかりではなく、DNA連鎖に補足的な「アンテナ」構造が付与されたのである。
人間という二本足の動物が「あの世」と織り成す関係と、もともとの先行人類がこの同じ「あの世」と結んでいる関係も、もちろん質的に異なった、共通点のないものとなる。
人間の場合は、一人ひとりが「あの世」の「集合的魂」の中に独立したポジションを与えられる。
これがその人の魂であって、単なる種としての条件づけとは別の、独立した決定権が備わっているのだ。動物の場合には、先に述べたように集合的な種としての心的現象しかない。
そして「この世」と「あの世」との連絡システムは、動物の場合は純粋な本能によって、人間の場合は本能と意識の協同作用によって保証されているのである。
もちろん人間にも遺伝的条件づけは残されているのだが、現代の人間の意思決定には、自由選択による自主的な行動の部分と、条件づけの、種に特有のプログラム化された行動
(動物のように)が混ざり合っている。
ユミットは、われわれの行動の80パーセントは条件づけによるものであり、責任ある意思決定による部分は20パーセントだと評価している。
だがどこまでが純粋な遺伝で、どこまでが教育や文化によるもので、どこまでがユングの集合的無意識※2にも一脈通じるところのある「あの世」の集合的魂からの指令なのか
は明確にしていない。
人間とは生きている限り「あの世」に絶えることなく情報を送り続けている、「あの世」の感覚細胞なのだとまで、ユミットは言い切っている。
「あの世」からは種々の情報が、一種の指令が送り返されてくるわけだが、人間は基本的にはこれに従って生きていることになる。
ユミットによると、パニック状態や狂信的感情や抑えのきかなくなった暴力などの、時として人間を襲う集団的感情は、「あの世」の下部構造が善くも悪くも
(ちなみにユミットの形而上学においては善悪の観念は何の意味も持たない)完全に人間を支配することによって生じるものである。
学習には反復がつきものである。最も原始的な動物の場合には、物事の原因と結果との関連は、同じ経験を何度もくり返すことによって初めて自覚されることになる。
そうしなければ、動物は状況に応じて絶えず行動パターンを修正しなければならなくなるであろう。
人間の場合も同じである。しかも人間の集合的魂にとってもやはり事情は変わらず、集合的魂は様々な人の個人的な体験を逐一吸収同化しながら進化していくのだが、
大勢の個人が同時に 「考えた」情報しか記憶しないのである。
人間という種の存在理由は、本質的現象、つまり「あの世」 の進化に貢献するところにある、と言っても過言ではない。
この世の記憶装置は文化と呼ばれる。多くの個人が同じことを経験して初めて、集団行動の、文化的モデルの進化が促されるのである。
経験され、記憶されたデータは、口頭もしくは文書によって伝承される。人間の行動も言語も、この文化の表現なのだ。
われわれの地球には、それなりに独立し、それなりに結合した生きた細胞の大群がある。
集落があり、集合的存在があり、共存関係があり、種族があって、それらすべてがいわゆる生物の生活圏を構成しつつ共に進化しているのである。
その地球に対応する「あの世」も、やはり生命の構造に見合った形態をしている。
ユミットはどの惑星も固有の集合的魂を「あの世」に持っており、全体的心的現象の中でそれぞれが島のように点々と浮かびつつ、民族集団を形成していると言う。
同じような細胞構造がきわめて錯綜したネットワークを構築し、情報の伝達が行われているのである。
この「惑星の脳」の中に、特権的な「精神ニューロン」の束、つまり人間の魂※3が存在しているのである。
われわれは「この世」における個人的魂と、「あの世」 における集合的魂の二重構造を生きているのだ。
ユミットによれば、どの惑星にも固有の「あの世」があるのだが、たとえば惑星ワンモの集合的魂と地球の集合的魂が直接交流するようなことは、彼らの知る限りはないそうである。
この事実は異なる惑星とはあまり情報交換するべきではないとする、ユミットの非接触の原則を理解する手がかりともなろう。
このような慎重さは、単に異質な発想やテクノロジーの導入による混乱を未然に防ぐという意味であるばかりでなく、ひとつの思想であり、倫理の問題である。
現にあるがままの人間は、地球外知的生命と直接コミュニケーションを行い、共同で進化※4するようにはできていない。
それは後ほど取り上げる、人間とは別の種に振り当てられている役割なのだ。
蟻塚では子供をつくるのは女王アリのみである。女王アリは婚姻飛行によってたった一度受精しただけで、一生不自由しないほどの量のスペルマを体内に蓄えてしまう。
そして自分とは性質も機能も異なる、働きアリと兵隊アリをつくるのだ。彼らには生殖能力はない。
女王アリは種の伝播のためには、それとは別に羽根のついた雄アリと雌アリを産み落とし、つがいとし、適当な時期がくれば婚姻飛行によって番になるようにしている。
受精した雌アリは、また別な蟻塚をつくることになる。
その意味では女王アリは蟻塚の「集合的魂」のようなもの、というか少なくとも「集合的魂」の具体的な表現なのだ。その伝でいくと人間は、働きアリか兵隊アリに喩えられる。
それでは生物が死んだらどうなるのか? これもやはりユミットの語るところだが、肉体の外皮が消滅しても、生物の心的現象はやはり存続するということだ。
動物は鉛の兵隊に喩えることができる。「鋳型」による再生が可能なのだ。
動物は一定期間、地上に生存して、自分の「鋳型」、つまり種の集合的魂に情報を伝えた後は、個体性を完全に消失してしまう。
これは鉛の兵隊が溶けて、ただの鉛になってしまうのと同じことである。
それに対して人間一人一人の心的現象、つまり魂は死後も存続する。死の瞬間には、心的現象の観点からすれば、魂と肉体を結ぶ例の「アンテナ」が破壊されるのである。
だが人間の魂は死後もなお、巨大な集合的魂の内部においてそれなりの独自性を維持しながら進化を続けていく。
肉体に生命がある限り、感覚細胞は膨大な量の情報をキャッチし続けるから、いわゆるテレパシーに近い心的「横断コミュニケーション」は、ほぼ全面的に隠蔽されている。
瞑想※5にふける人や、霊媒を呼んだりする人は、自己の感覚から発信される大量の情報を、訓練によって一時的に抑制し、この感覚を超えた「横断コミュニケーション」に
注意を集中しているものと推測される。
肉体が死んだ人間には、もはやこの方式のコミュニケーションしか許されないので、死者はそれを最大限に活用しょうとするのである。
ユミットは言う。生前に 「宇宙の法則」、とりわけ人類という種の法則にのっとった生活を送った人ほど、「あの世」の集合的魂に難なく迎え入れられるのだと。
そしてキリスト教で言う「煉獄」※6は、これに近いものをイメージしているのだと。ユミットの説くところは、死後の世界に関しては、きわめてキリスト教的なものである。
だが一般的に宗教の呈示する解答は、一方的な教えの形式をとっている。ユミットの手紙はその点、科学的解釈に近い。
手紙にはこのような考えの根拠として魂と肉体の結びつきを解明する実験が紹介されている。
それによると、DNA連鎖に組み入れられたアンテナとなっているクリプトン原子中に、電子遷移※7が生じる場合は、ハイゼンベルクの不確定原理が破られていると言うのである。
いつの日か、われわれにもそれを確認できる日が来るのであろうか?
※1 生命は進化の過程で生じ、生物圏が構築される。同様に精神圏も段階的に、生物圏と同じように構築されるのだ。
※2 ユング (1875~1961)スイスの心理学者。フロイトの観念を拡大発展させ、心的エネルギーの表現として文化全般の解釈を試みた。
あらゆる象徴的表現には集合的な無意識の力が働いていると主張した。
※3 人が生きている問は、それなりに精神的自立を維持している。
意識のレベルでは誰もが「自己の孤独」を感じているが、無意識のレベルでは、「あの世」の巨大な集合的魂の内部で、様々な情報が魂から魂へと行き交っているのである。
※4 生命発生と同じように「精神発生」も進化の一部をなしている。生命発生の潜在的可能性があるとすれば、超越的性格を帯びた精神発生の可能性もあるのではないだろうか。
※5 もしくは超常的能力を備えている人は、X線を浴びたショウジョウバ工と同じ意味で、一種の突然変異体なのだとも考えられる。
※6 死者が天国の幸いを受ける前に、浄化と罪の備いを果たす場所。
※7 希ガス元素のクリプトンは、原子核の周りを三六個の電子が衛星のように回っている。
これは、太陽系のようなイメージだが、ミクロの世界は量子力学が支配しており、電子の軌道が突然「飛ぶ」ことがある。これを電子遷移と呼んでいる。