秦の始皇陵
B.C.221年に中国に初めて中央集権国家を作り上げ、「始皇帝」となった嬴政は、B.C.247年に13歳で秦王になると、卜占により自らの陵墓の場所を驪山の山麓に定め、整備に着手した。その後、周辺諸国(韓、趙、魏、楚、燕、斉など)に勝利を収めるたび、陵の造営は熱を帯び、皇帝の座に就いて以降、その規模はさらに拡大した。とはいえ、中国の陵墓は、日本の古墳などとは異なり、墓室が地中深くに造られるため、生前に墳丘を築くわけにはいかない。始皇帝が築いたのは、現在は巨大な墳丘の地中に埋もれている地下世界であったと考えられる。古代中国には、人間は天と地(=父と母)からそれぞれ魂と魄を授かって生を受け、死を迎えると魂魄は再び天と地に帰っていくという思想があり、高い墳丘と深い地下世界はそれぞれ天と地を現したものと考えられる。
『史記』には、のべ70万人の労働者が帝国各地から集められ、労役に従事したと記される。地下深くに実物大の宮廷が建造され、天井には空が描かれ、水銀を流して川や海を表現したとの記述もある。2002年以降、陵を発掘することなく、リモートセンシングなどの技術で内部の状況を探る調査が進められ、地下30mの地点に大きな空間があることや土に大量の水銀が含まれていることなどが判明している。墳丘の傍からは、行政官を等身大で表現した像(文官俑)、力士や俳優とみられる百戯俑、青銅製の水鳥やその飼育係の俑が出土し、『史記』の記述を部分的に裏付けるものとも考えられている。
その他、墳墓の西側の斜面から、等身大の半分程度の大きさの銅製の馬車が発見されている。その他の俑とは異なり等身大ではない理由として、始皇帝の魂を運ぶために造られた可能性が示唆されている。
始皇帝の死後1~2年かけて、第二代皇帝により墳丘やそれを囲む壁などが築かれ、始皇帝陵はほぼ完成したとみられる。現在の墳丘の高さは76m、東西345m、南北350mであるが、完成当時はさらに規模が大きく、皇帝を祀る祭殿などもあった。
兵馬俑坑
1974年、始皇帝陵から1.5km東の村で、3人の農夫が井戸を掘っていたところ、陶器の等身大の兵士の像が地中に埋もれているのを発見した。すぐに大規模な発掘調査が開始され、1号坑からは1,087体の兵士(戦闘の陣形に配置された歩兵と騎兵の立像、それを側面から防衛する射手の像)が発掘された。およそ6千の兵・馬の像(兵馬俑)が地中に埋もれている可能性が示唆される。像は皇帝の兵馬の数を正確に表現したものと推察され、1体ずつ表情やポーズ、服装などが異なっている。軍は東向きに配置されており、秦が戦った6か国に対峙しているものと考えられる。1号坑は1979年以降、全体をドームで覆い、博物館として公開されている。
1号坑の北側で発見された2号坑からも1,500体の兵士と馬車、馬の俑が発見され、3号坑からは68体の将軍や高官、4頭立ての馬車などが発見された。発掘作業は今も進められている。