トレドはスペインの中央部、首都マドリードの南約70㎞に位置する文化遺産であり、16世紀半ばまでカスティーリャ王国の首都として繁栄した古都である。1560年まで西ゴート人・イスラム教徒・キリスト教徒勢力の支配を経て、各時代の文化やモニュメントが多く残され、その由来に示される通りの異民族混交の街として発展した。その背景には、イスラム時代であってもキリスト教徒やユダヤ教徒に対して寛容な政策がとられたこと、その後11世紀末以降のキリスト教徒支配においても被征服民となったイスラム教徒への迫害がおおむねなかったこと、などの歴史がある。また、12世紀にアンダルスからは多くのユダヤ教徒とモサラベ(イスラム侵入後もイスラムに改宗せず、キリスト教徒であり続けた、アラブ的なキリスト教徒)がトレドに移住し、13世紀後半には多くのムデハル(キリスト教徒の土地に留まったイスラム教徒)も移住した。商人の出入りも日常的であったため、トレドには三教徒が住み、イギリス・フランス・イタリアなどからも外国人が来訪し、あらゆる人種・宗教・文化が共存することになった。このような理由からトレドは三教共存の地として栄え、コスモポリタンな特徴をもつ都市の景観が現在まで残っている。
◆要塞都市トレドの景観とビサグラ門
トレドは、北側に城塞、南側をタホ河によって取り囲まれ、四基の城門、いくつかの大きな塔、アルカンタラ橋とサン・マルティン橋の武装橋をもつ、カスティーリャ型の要塞都市である。中世以来の都市防衛の諸施設が完全に残されており、狭い路地は8世紀以来約370年間続いたイスラム支配の名残である。
また、かつての町の入り口「ビサグラの旧門」も馬の蹄の形をしたイスラム様式の遺構として現存している。ビサグラという名称は、アラビア語のバーブ(門、城門)とサクラ(荒地)の合成語で、バーブ・サクラがビサグラになったとされる。イスラム時代におけるトレドの、陸路から入城するときの正門であった。
◆トレド大聖堂とエル・グレコ
スペインの純ゴシック様式大聖堂のひとつで、スペイン・カトリックの大本山。フェルナンド3世の命により1226年に着工し1493年に完成、 4つの側廊と22の礼拝堂からなり、スペインで一番の規模を誇っている。 ヨーロッパ全体が宗教改革で揺れていた時期、富と権力を誇っていたこの聖堂が人々の信仰を集めるために優れた宗教画を依頼したのが、画家エル・グレコであった。
スペイン語でギリシャ人を表すエル・グレコ(1541-1614)は1576年、当時35歳でトレドに移り住む。教会の求めに応じて描いた「聖衣剥奪」は大聖堂の祭壇画で、1579年に完成した。血と炎を象徴する赤い衣はキリストの受難のシンボルであり、住民からは絶賛されたが、十字架にかけられようとするキリストよりも高い位置に民衆が描かれていた点で、教会には非難されたという。グレコはその他にも、街の伝説にもとづいて描いた「オルガス伯の埋葬」において、自身を支持してくれた町の人々と自分自身を背後に描きこむなど、トレドの住民との関わりを感じさせる作品を残しており、トレドには異邦人であるグレコを受け入れる多様な文化的土壌があったことをうかがい知ることができる。
・小学館(2010)『小学館DVDマガジンNHK世界遺産100』No.27「文豪と芸術家ゆかりの地」小学館
・芝修身(2016)『古都トレド 異教徒・異民族共存の街』昭和堂
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