ノヴゴロドの文化財とその周辺地区

ノヴゴロドは古くからバルト海とヴィザンティン帝国を結ぶ交易路として発展し、中世の年代記には、スカンジナヴィア半島からやってきたリューリクによって862年にノヴゴロド公国が建国されたと記される。以来、ノヴゴロドにはロシア正教会の教会や修道院が林立し、ノヴゴロド特有の建築様式が確立され、ロシア初の国立美術学校が設立するなど、ロシアの宗教、文化、精神性の核となった。

また、ノヴゴロド公国は、1136年に世界に先駆けて、府主教と貴族と市民代表から成る民会(ベーチェ)が統治者を選出する「貴族共和制」が成立したことでも知られる。近隣諸国のクレムリン(城塞)には公が居住していたが、ノヴゴロドのクレムリンには府主教の住居があった。

武勇に優れたノヴゴロド公アレクサンドルは、1240年にネヴァ川の戦いでスウェーデン軍に勝利し、1242年と1260年にはドイツ騎士団との戦いに勝利した。これらの戦いが、カトリック勢力の侵略からロシア正教会を守った行為と解釈され、アレクサンドルは「アレクサンドル・ネフスキー(ネヴァ川のアレクサンドル)」としてロシア正教会の聖人に列せられた。

14世紀後半以降、モスクワ大公国の勢力拡大に伴い、ノヴゴロド公国の国力は徐々に衰退する。1478年、イヴァン大帝によりモスクワ大公国に併合され、1570年には、ノヴゴロド共和国のポーランドとの協力をロシア国家への反逆と見なしたイヴァン雷帝に攻め込まれ、多くの教会や修道院が破壊された。

【主要な宗教施設】

ノヴゴロド・クレムリン聖ソフィア聖堂は1045~50年に建立されたもので、ロシア人にとっては聖地である。外観は、キエフの聖ソフィア聖堂や、コンスタンティノープルのアヤ・ソフィア大聖堂を模したものと考えられている。第二次世界大戦中に天井が破壊され、天井ドームに描かれた全能者キリストのフレスコ画も破損したが、建設当時の壁画の一部(南回廊の柱にあるコンスタンティヌス大帝と母后聖ヘレナの像、天井ドーム下部にある預言者像、キリストが生神女マリア(西方教会でいう聖母マリア)と洗礼者ヨハネを従えた図像)、12世紀に製作されたイコン「オラントの聖母」、1380年のクリコヴォの戦いの勝利を記念して造られた十字架などが残されている。聖堂の西正面には、12世紀にドイツのマクデブルクで製作された、聖書の48の場面を描いた青銅の扉が設置されている。ノヴゴロド最古のイコンとされる聖ペテロと聖パウロの像などは、併設される歴史博物館に移管されている。その他、城壁内には、府主教の邸宅跡、ポクロフ教会、アンドレイ・ストラチラート教会(17世紀)、フホドエルサレムスキー聖堂などが立ち並ぶ。

スパソ=プレオブラジェーニェ聖堂は1374年にイリイン通りの住民によって建てられた。外壁に浮き彫りのように描かれているさまざまな模様は14世紀ノヴゴロドの典型的な建築様式である。壁や天井には、フェオファン・グレク(アンドレイ・ルブリョフの師匠)によって同時期に制作されたフレスコ画が残されている。伝承によれば、1169年、侵攻してきたスズダリ軍との決戦前夜、大主教ヨアンがイコン「救世主」の前で祈りを捧げていたところ、「イリイン通りのイコン『生神女の印』を街の城壁に掲げよ」という神の声を聞いた。その言葉通りイコンを掲げて戦いが始まり、スズダリ軍から放たれた矢がイコンのマリアの目に刺さったことから、生神女マリアの力でスズダリ軍は視力を奪われ、ノヴゴロド軍が勝利したと言い伝えられている。

ズナメンスキー聖堂は、1688年に、ピョートル大帝の支援により、スパース=プレオブラジェーニェ聖堂の向かいに建てられた。1702年に製作されたフレスコ画は保存状態が良い。

キエフ大公ヤロスラフ賢公が建てた交易所や豪華な屋敷があったヤロスラフ邸跡には、現在、12~17世紀に建てられた7つの教会が残っている。中でも、聖ニコライ聖堂は同地域で最も古い建造物で、奇蹟者ニコライのイコンによって大病を治癒されたムスチスラフ大公が感謝の意を表して1136年に建立したと言われている。フレスコ画「最後の審判」は、ロシアで最も古い「最後の審判」図と考えられている。預言者ヨアン教会は、ノヴゴロドで最も有力な商人集団であった蝋商人組合の寄進によって建てられた。教会に入るためには10kgの銀を支払わなければならず、教会内では組合内の商取引や裁判も行われた。

ユーリエフ修道院は、1030年にキエフ大公のヤロスラフ賢公によって建設された男子修道院。修道院内にあるゲオルギエフスキー聖堂は、年代記によれば、ピョートルという名のロシア初の職人によって、1119年に建てられたとのこと。内部のフレスコ画も見事に復元されている。

参考文献