厳島神社は広島県西部、瀬戸内海に浮かぶ宮島に建てられた神社である。古くから宮島は神の島として信仰されており、神を「いきまつる島」の意味で厳島と呼ばれた。この宮島の弥山(みせん)を背景に、海上の大鳥居と本殿が配されている。遺産として登録されているのは、厳島神社の本社本殿、拝殿、幣殿、祓殿等17棟に加え、朱鮮やかな大鳥居、五重塔、多宝塔を含めた建造物群、またそれらと一体となって景観を成している、前面の瀬戸内海と背後の弥山を中心とする地域である。海と山に映える建造物群は、穏やかな自然と人間の創造性との調和という日本の景観美を象徴しており、その美しさから日本三景の一つ「安芸の宮島」としても知られている。
【建築】
厳島神社の創建自体は推古朝の593年にさかのぼる。現在のような海上社殿となったのは平安時代(1168年)、平清盛による。清盛は、本殿、拝殿、摂社など37棟の赤塗りの建物を300mにも及ぶ回廊でつなぎ、優美な寝殿造りの社殿につくり変えた。満潮時には海上に建つ大鳥居とともにすべての社殿が海に浮かび、山を背景とした神社の姿は屏風絵を彷彿とさせる。その後、毛利元就による本社本殿の建て替えや、1949~56年に行われた昭和大修理といった修復事業が行われたものの、平安時代以来の寝殿造りは踏襲され、現在までその形を留めている。
【崇敬者】
厳島神社を信仰した者は歴史的にも数多く、その造営を手掛けた平清盛のみならず、中世には大内氏や毛利氏、江戸時代には広島藩主浅野氏が崇敬し庇護した。とりわけ、清盛が平家一門の繁栄を願って「平家納経」を奉納し、一門も深くこの神社を崇敬したことは有名である。こうした権力者たちの庇護もさることながら、民衆の信仰によっても厳島信仰は支えられており、漁民や商人は夷神として厳島を長年信仰してきた。潮の満ち引きによってその表情を変える厳島神社は、平安時代の建築様式を今に伝えるものであると同時に、長きにわたる人々の厳島に対する篤い信仰心を示すものでもあるといえる。
【厳島神社と神仏習合・神仏分離】
清盛の平家納経奉納からもわかるように、かつては島全体が厳島神社であり、そのなかに大聖院や大願寺といった寺院が共存する神仏習合の状態であった。祭祀に関しても、①現在の宮司、野坂家の先祖にあたる「棚守」を中心とした「社家方」、②座主大聖院を中心とした「供僧方」、③巫女で構成される「内侍方」の「社家三方」、そして④多くの職人を有し修理・造営を担当する大願寺、という四者が担っていた。
明治期になると神仏分離令のもと、大聖院と大願寺は厳島神社と分けられることとなったが、当時の棚守、野坂元延の嘆願により、社殿や五重塔、千畳閣などは厳島神社に残されることとなった。仏教色の色濃い建築物が現在でも厳島神社に残るのは、この時の嘆願に由来しているのである。平家納経に関しても、「宝蔵の鍵が行方不明になってしまったので開けられない」という宮司の機転により、焼かれることなく厳島神社に保存され今に至っている。
神仏習合の面影は現在でも多くの場所で感じることができる。五重塔に残された須弥壇のはめ込みの跡や、かつてそこに安置されており、神仏分離を機に移され、現在は大願寺で拝むことのできる釈迦三尊像、また厳島に残る仁王門跡や社僧屋敷跡などからもかつての神仏習合の様子をうかがうことができる。
さらに、建築や仏像に限らず、現在まで続く祭祀にも神仏習合との関わりを見ることができる。厳島神社の年中行事として行われている八月の玉取祭(玉取延年祭)や大晦日の鎮火祭は、天正年間に大聖院から始まったものであり、かつて大聖院が厳島神社の別当職として祭祀を司ってきたことを思い出させる。
・岸田裕之(2008)「世界文化遺産・厳島の歴史と文化」電気設備学会誌(28)-1、61ー70頁
・廿日市市観光課ホームページ「宮島観光公式サイト」(http://www.miyajima-wch.jp/index.html)2019年1月31日アクセス