バンベルクの町

ドイツ中南部の都市バンベルクは、10世紀よりスラブ民族(特にポーランド人)との交易の要衝となってきた。

東フランク王ハインリッヒ2世は、1007年にバンベルクに司教座を置き、大聖堂を建設した。ローマに匹敵する宗教都市とするべく、その後も聖堂や修道院を次々と建造したことから、やがてバンベルクは「第二のローマ」と呼ばれるようになる。中世都市に典型的な十字架型の構造をしており、東西南北の方角にはそれぞれ聖ミヒャエル教会(後にベネディクト会修道院)、聖ステファン教会、聖ガンゴルフ教会、聖ヤコブ教会が配置された。

12世紀初頭、司教オットー1世の即位に伴い、バンベルクは司教領となった。13世紀には、2度にわたり焼失の憂き目にあっていた大聖堂が再建され、都市は、中世後期まで続く繁栄期を迎える。再建された大聖堂は4基の尖塔を持ち、ロマネスク様式からバロック様式への移行期の様式として、建築史上、重視されている。聖堂には、中世の理想の騎士像を表現した等身大の彫像「バンベルクの騎士」や、16世紀初頭の彫刻家リーメンシュナイダーによるハインリヒ2世と妃クニグンデの石棺が安置されている。

17世紀後半から18世紀初頭にかけて、司教領主シェーンボルンの命により、都市は当時流行していたバロック様式につくりかえられたが、これにはディエンツェンホーファー一族やバルタザール・ノイマンなどの名建築家が大きな役割を果たした。これらバンベルクの建築様式は中央ヨーロッパ一帯に伝播しており、特にゴシック期の建築様式は北ドイツやハンガリーに、バロック期の様式はボヘミア地方(チェコ)に強い影響を与えた。

さて、このような都市の繁栄とは裏腹に、バンベルクの名を有名にしたもう1つの歴史的な出来事は「魔女狩り」であった。16~17世紀、魔女狩りが欧州全土で猖獗を極めた時期、ヴュルツブルク、フルダ、バンベルクなどの南ドイツの各都市は、相互に競い合って「魔女狩り」を行い、カトリック司祭らの提唱する「悪魔学」の理論に基づき、多くの人々を処刑したとされる。当初は貧しい女性などが標的となっていたが、徐々に高い身分の女性や幼児、また高い地位にある男性にまで処刑の対象が拡大する。バンベルクでは、司教が600人の魔女を処刑したが、その中には司法官と市長が含まれたとの記録が残っている(アン・ルーエリン・バーストウ『魔女狩りという狂気』創元社)。

1802年に司教領が解体されると、バンベルクはバイエルン王国の一部となり、宗教都市としての特権を失った。

参考文献

https://sites.google.com/site/cercreligiousculture/world-religions/christianity/catholic/bamberg/photo1

旧市街の町並み

https://sites.google.com/site/cercreligiousculture/world-religions/christianity/catholic/bamberg/photo2

旧市街の壁画

https://sites.google.com/site/cercreligiousculture/world-religions/christianity/catholic/bamberg/photo3

ハーフティンバーハウス(木骨造)