エラム王国は、イラン南西部のスーサを中心にB.C.3200年頃に建設された王国(群小国家の連合体)で、B.C.16~11世紀にかけて最盛期を迎えた。B.C.640年頃にアッシリアによって滅ぼされるまで、肥沃なメソポタミア地方で2500年にわたって繁栄した。
B.C.13世紀、エラム王国のウンタッシュガル王(B.C.1275-1240年)は、王国の中心地であったスーサの南方に宗教都市を建設した。この都市は「ドゥール・ウンタッシュ(ウンタッシュ王の城塞)」と呼ばれ、二重の城壁で囲まれていた。都市の外壁は1250m×850mで、内側に7つの門を持つ470m×380mの内壁に囲まれた聖域が造られた。中心には105m四方のジッグラト(聖塔)が建設され、雄牛の姿をしたインシュシナク神が祀られたとされる。インシュシナク神はスーサの守護神であったため、ジッグラトの建設には、王国の中心であるスーサを守護する目的があったと考えられる。
ジッグラトの現在の高さは25mであるが、元は60m程度であったと考えられている。遠くから見るとピラミッド状の建物に見えるが、実際は5つの異なる高さの建物が入れ子状に建っており、焼成レンガで造られた基層は、四隅が正確に東西南北の方角を向いている。メソポタミア地方では最大規模のジッグラトで、保存状態も非常に良い。当時13棟建設された神殿も、現在、4棟が良好な状態で保存されている。
また、地下は王家の墓所となっており、火葬された人骨が発掘されている。当時、エラム人は土葬を習慣としていたことから、神格化された王族が、一般人とは異なる方法で埋葬されたものとも考えられている。
遺跡は1935年に油田の調査中に偶然発見され、1951年より本格的な発掘調査が始まった。その際、遺跡の外観から、現代ペルシャ語で「チョガ・ザンビール(大きな籠のような山)」と呼ばれるようになった。