キエフは、ヨーロッパとビザンツ帝国の交易路として古くから発展し、988年、ウラジーミル聖公が東方正教に改宗して以降、公式にキリスト教国となった。ウラジーミル公は洗礼を受ける交換条件として、東ローマ皇帝バシレイオス2世の妹アンナを娶ったが、彼女に付き従い多数の聖職者や建築技術者・職人がキエフに到来した。これらの技術者により989年に建立された聖堂は「デシャチンナヤ(10分の1)聖堂」と呼ばれたが、これは、ウラジーミル公が建設のため収入の10分の1を寄進したことに由来する。聖堂は1240年のモンゴル軍の侵攻により破壊された。
◆聖ソフィア大聖堂
ウラジーミル公の息子、ヤロスラフ賢公により1037年頃に建設されたのが、聖ソフィア聖堂である。コンスタンティノープルのハギア・ソフィア大聖堂(現アヤソフィア)に倣って建造された。これによってキエフは「第二のコンスタンティノープル」というべき正教世界の信仰の拠点となり、大聖堂の装飾や描画の技術は、多くの名工が残したイコン作品とともにキエフ・ルーシ(ロシア)全土に伝播していった。
聖堂内部は五廊式で、12の柱や手すりなどにも華麗な装飾が施された。祭壇の生神女マリア(西方教会でいうところの聖母マリア)のモザイクは177色300万個のガラス石で描かれており、13世紀にモンゴル軍が攻め込んできた際にも破壊されなかったため、「不滅の壁のマリア」と呼ばれている。屋根の大きな円蓋(キューポラ)と12の小ぶりな円蓋は、キリストと12使徒を表現しており、18世紀にタマネギ型の円蓋に改築された際にも数が減らされることはなかった。
1685~1707年の大改築により、大聖堂の周囲には、府主教の館、食堂、神学校などウクライナ・バロック様式の建物が立ち並ぶようになったが、聖堂内のイコンは大半がオリジナルである。また、ロシア最古の図書館が併設され、ギリシャ、ブルガリア、ロシアなどの貴重書が所蔵されている。
◆ペチェールスカヤ大修道院
11世紀、ギリシャのアトス山から来た修道士らがドニエプル川沿いの洞窟で修業を始めたのがペチェルスカヤ大修道院の起源とされる。キエフ公の庇護の下で修道院は発展し、洞窟の上に修道院の建物も建てられた。13世紀には、修行僧らの言行を記録した『キエフ洞窟修道院名僧列伝』が編纂され、やがて広く庶民にも愛読されるようになった。
17世紀になると洞窟修道院は、ラウラ(大修道院)の称号を冠する最も格式の高い修道院となった。印刷所が建設され、知的拠点として聖書の翻訳や年代記の編纂も行われ、17~19世紀にかけてロシア各地に正教の知識や信仰、文化を広めるのに重要な役割を果たした。また、この時期、時計台や食堂など、ウクライナ・バロック様式の壮麗な建物が多数建立された。
1941年、戦火により最古の建造物であったウスペンスキー大聖堂がほぼ完全に破壊された。現存する最古の建造物は12世紀に建てられたトロイツカヤ聖堂である。外観はバロック様式の華美な装飾によっておおわれているが、壁一面に残されたイコンが当時の姿を今に伝えている。同じく12世紀頃からのものとして、全長1.5kmにおよぶ地下洞窟がある。洞窟には修道士の居室となった房が並んでおり、修道士は一日の大半の時間をここで一人で過ごし、神に祈りを捧げた。亡くなると房がそのまま墓所(カタコンベ)となったが、湿度や温度が一定しているため、百人以上の修道士の遺骸がミイラ化した状態で今も安置されている。中世から近世にかけて、これらの聖者への崇敬が民衆の間で広がり、ロシア各地から何か月もかけて施しを受けながら修道院に詣でる巡礼が後を絶たなかった。現在、このカタコンベを自由に見学できるのは正教徒だけで、その他の見学者はガイドの指示に従いつつ、洞窟の一部のみ見学することができる。その際の服装上の禁忌なども厳格に規定されている。
UNESCOのページ
http://whc.unesco.org/en/list/527/gallery/
Google Arts & Culture(聖ソフィア大聖堂の所蔵品56点の画像を閲覧できます:2015年9月現在)
https://www.google.com/culturalinstitute/collection/st-sophia-of-kyiv?hl=ja