グアダラハラの救貧施設

グアダラハラにある 「カバーニャスの病院」は、孤児や貧窮家庭の子供、身寄りのない高齢者、障碍者、長期療養者、貧しい入植者などのための療養所兼保護施設として、19世紀初頭に建設された。このような複合施設は当時のラテン・アメリカでは珍しいもので、その規模やシンプルなデザイン、中庭と建造物の調和のとれた構成などの価値が評価されている。

スペイン人による植民都市として1542年に成立したグアダラハラの町には、干ばつや洪水、霜などの被害が続いた近隣の農村から貧窮者が職を求めて流入し、失業者やホームレスが増加していたほか、劣悪な生活環境から病人や孤児なども発生していた。1791年頃、グアダラハラの司教は、貧窮者のための病院とともに、貧しい労働者のための簡易宿泊施設や孤児院を建設するよう命じた。この計画は、1796年に後任に任命されたホアン・ルイス・デ・カバーニャス司教によって引き継がれた。同司教がスペイン王に救貧施設の建設許可を要請したところ、1803年に許可が与えられた。

カバーニャス司教はヴァレンシア出身の高名な建築家マヌエル・トルサに設計を依頼したが、同氏は聖堂を除く大部分の施設の設計を弟子のホセ・グティエレスに任せたようである。建設作業はメキシコ独立革命によって中断され、1821年に完成してからも、建物が兵舎として使用された時期があった。とはいえ、18世紀後半には500人程が施設内に居住し、施設は修道女の手によって運営されていた。

建物は高さ7mの外壁で囲まれ、幅164m×145mの方形である。聖堂と台所を除いて1階建てとなっており、高齢者や病院の移動が容易になるよう工夫されている。23の中庭があり、回廊が設けられるなど修道院のような外観になっており、スペインの「エル・コスコリアル修道院」やパリの救貧施設「オテル・デ・ザンヴァリデ」を模した、新古典主義建築の特徴を有している。

20世紀初頭、メキシコを代表する壁画作家であったホセ・クレメンテ・オロスコにより、聖堂は壁画に彩られた。当時のメキシコでは、識字教育の機会に恵まれなかったメキシコ先住民にも理解できるよう、スペインの支配に抵抗し立ち上がるメキシコ人の革命精神や、人間の機械への従属に対する批判などの政治的なメッセージを、公共施設の壁画として表現する「壁画運動」が盛んであった。壁画には、メキシコ文化のモチーフ(神、供犠、神殿)とスペイン文化のモチーフ(王、修道会士、教会)が併存している。圧巻なのは天井画「炎の人」で、スペイン人による侵略を糾弾した作品である。

1980年、政府は救貧施設内にカバーニャス文化協会を創設し、施設は芸術学校と美術館、劇場、コンサートホールなどを兼ね備えた複合施設として生まれ変わっている。

参考文献