サン・アントニオは米国テキサス州南部に位置し、同州ではヒューストンに次ぐ第2の都市である。一帯はサン・アントニオ・ミッションズ国立歴史公園に指定されており、5件の伝道所(エスパーダ伝道所 、サン・フアン伝道所 、サン・ホセ伝道所、コンセプシオン伝道所、バレロ伝道所)と1件の牧場(ランチョ・デ・ラ・カブラス)が世界文化遺産に登録されている。
同地に最初に入植したのはスペイン人であった。18世紀初頭からスペイン人による伝道所建設が行われており、1718年に完成したバレロ伝道所をはじめとして、1731年までに5つの伝道所が設けられた。
伝道所(misión: mission)とは植民地において布教のために建設される施設であり、教会、学校、宿泊所、作業所、農場、倉庫などを有している。伝道所には主に修道会から宣教師が派遣され、現地の先住民の改宗を目的としたさまざまな活動を行った。
そうした活動は教育や交易を通してなされ、軍事力的支援を期待して改宗する先住民もいた。しかし同時に、反発を招くことや部族間の対立に巻き込まれることもあり、1758年にはサン・アントニオの別の伝道所がコマンチ族らの襲撃を受けて破壊される事件も起きている。このような状況のため、同地の伝道所は先住民の襲撃に耐えられるような要塞化を行い、城壁が築かれ、大砲が配備されるようになっていった。
伝道所では先住民との衝突も起きていたが、それでも民間人や軍人に先住民との接触を担わせるのに比べ、伝道所システムは先住民の虐待や奴隷化を減らす方向に働いていたと言われている。
伝道所の活動は18世紀の間活発に行われていたが、スペイン本国からの予算の削減、政府による資産の没収、周辺の先住民の減少(伝染病による死亡や西洋社会による同化などによる)、周辺の先住民の改宗の達成などの理由によって徐々に重要性が薄れ、19世紀に入る頃には多くがその活動を停止した。
その後、バレロ伝道所は「アラモ」と呼ばれるようになり、スペイン軍およびメキシコ軍が駐屯するようになった。そして1835年には、メキシコの一州だったこの地が、分離独立を求めて立ち上がった独立戦争が勃発した。サン・アントニオ市を占領した独立勢力に対し、メキシコ軍は市を包囲した。
アラモには各地から志願兵が集まり激しい防衛戦となったが、13日間にわたる抵抗の末に砦は陥落した。最終的に独立は成功し、デイヴィー・クロケットをはじめとするアラモの守備隊は独立の英雄として語り継がれることになった。
こうした歴史を有する5つの伝道所は、現在においてもその姿を残している。それらは、カトリックの教会としての機能を有するだけではなく、生活の場や要塞としての機能ももつ複合施設である。
・Texas State Historical Association, "Spanish Missions" 最終アクセス2022年9月5日
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