洛陽の南方にある龍門石窟は、敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟とならび、中国三大石窟に数えられる。伊水の川岸の急峻な石灰岩の崖に2,345の窟や仏龕(仏像や位牌を安置する壇)が掘られ、10万体の仏像と2,500の造像題記や碑文、60の仏塔(パゴダ)が建造された。川の西岸は龍門山、東岸は香山であるが、龍門山の洞の方が圧倒的に質量に優れ、北魏、隋代に彫られた古いものが残る。なお、香山には詩人・白居易(白楽天)が修復して隠棲した香山寺があり、墓も残っている。
石窟の造営は、北魏の孝文帝が洛陽に遷都した493年頃に始まり、その後4世紀にわたって続けられた。最も盛んに造営が行われたのは493~534年にかけての時期で、最古の洞窟は499年頃に完成した古陽洞である。孝文帝の発願で造営されたが、これに賛同した多くの貴族や官吏、宗教者が多額の寄進を行った。正面には皇帝の寄進により三尊(中央が釈迦如来、脇の2体が菩薩)が彫られており、保存状態は良くないものの、衣服の美しさを強調したこの時期の彫像様式の特徴が見てとれる。また、仏像の由来を記した造像題記の中に優れたものが多く、「龍門二十品」と呼ばれる名筆の内、19品がこの洞にある。
517年頃に完成した賓陽中洞では、従来の三尊形式に、老若二人の比丘像を加えた五尊形式が確立され、527年に完成した皇甫公窟などでもこの形式が踏襲されている。そのほか、天井に蓮華が彫られた蓮華洞などの大型窟がこの時代に造営された。しかし、その後の内乱により北魏は分裂、戦乱の時代に入り、仏像の造営も一旦、下火となった。
唐代に入り、当初は道教が重視されたが、第三代皇帝高宗とその后で後に皇帝となる則天武后の治世に仏教が再び尊重されるようになり、龍門の造営も活気を帯びた。潜渓寺洞、壁一面に1万5千の仏像が彫りこまれた万仏洞などがこの時期に彫られた。中でも一際目を引くのは高宗の勅願により、皇后・武氏(則天武后)が化粧料2万貫を寄進して造らせたとされる奉先寺洞の巨大仏像群で、表情や服装などが中国化された唐代仏教彫刻の代表作である(675年完成)。洞の内部には9体の巨大な仏像が安置されており、中央の盧舎那仏(大日如来)は高さ17mにも及ぶ。のちには、則天武后により東岸の香山でも造像が行われるようになった。