南仏の都市アヴィニョンは1309年から1376年までの67年間、教皇庁が置かれたことで知られる。アヴィニョン教皇庁の歴史は、ローマ教皇庁(バチカン、イタリア)の立場から、時の政治権力である仏王フィリップ4世が、教皇権を自らの支配下に置こうとし、教皇をアヴィニョンに遷座させたものと解釈され、「教皇のバビロン捕囚」又は「アヴィニョン幽囚」などと伝えられてきた。しかし、近年では、パリから遠く離れたアヴィニョンに王の強権が恒常的に及んでいたとは考え難いことなどから、教皇の主体的な意思や、アヴィニョンにおいて独自に遂げられた教皇庁の発展に焦点を当てた研究も発表されている(フランツ・フェルテン『中世ヨーロッパの教会と俗世』山川出版社、2010年)。
教会課税をめぐり、仏王フィリップ4世と激しく争った教皇ボニファティウス8世(在位:1294~1303年)の没後、カトリック教会内では党派対立が激化した。1305年に教皇に選出されたボルドー大司教ベルトラン・ド・ゴは、緊迫した状況の続くバチカンに行くことを拒否し、リヨンで教皇クレメンス5世(在位:1305~14年)として戴冠する。その後も、クレメンス5世はフランス国内に留まり、1309年、教皇庁をアヴィニョンのドミニコ会修道院に一時的に置くことを決定した。1377年にグレゴリウス11世がローマに戻るまで、7人の教皇がアヴィニョンで即位し、その後もバチカンとアヴィニョンに教皇が並び立つシスマ(教会大分裂)が1417年まで続いた。
当初は、政教間での激しい権力闘争が続いていたことを反映し、堅牢な城壁に囲まれた要塞のような教皇庁の外観が築き上げられた。しかし、4代目のアヴィニョン教皇クレメンス6世(在位:1342~52年)がプロヴァンス伯からアヴィニョンの土地を買い取り、教皇領とした頃から、アヴィニョンには多くの芸術家や学者、貴族などが集まるようになり、南仏の文化・芸術を代表する一大拠点へと成長した。また、フランスの歴史学者ギョーム・モラの大著『アヴィニョン教皇1305~1378』では、アヴィニョンで、聖職叙任権や徴税システム、司法制度が整備され、教会のガバナンス(統治)能力が格段の進化を遂げた点が指摘される。
もっとも、上記のような徴税システムの完成は、重税を課せられたドイツやイングランドにおいては否定的に評価されており、その税金が教皇の豪奢な生活や教会の装飾・絵画などの製作費として用いられたこと、また、アヴィニョン教皇がフランス人からしか選ばれなかったことなどへの不満も大きい。バチカンを擁するイタリアで、アヴィニョン教皇庁が教皇の「幽囚」事件として語り継がれているように、国や立場の違いによってアヴィニョン教皇庁の歴史的な解釈が分かれる点にも注目したい。
【主な宗教施設】
教皇宮殿の内、3代目のアヴィニョン教皇ベネディクト12世(在位:1334~42年)が司教館を取り壊して建てた旧宮殿は、王権との闘争が続く政治背景やシトー会出身の教皇の意向を反映し、質素で飾り気のない要塞のような外観をしている。旧宮殿の総面積は15,000㎡で、高さ50mの塔を4基備え、威容を誇る。その後、4代教皇クレメンス6世の命により、建築家のジャン・ド・ルーヴルの手によってゴシック様式の新宮殿が建造された。新宮殿の内部は、シモーネ・マルティーニとマテオ・ジョバネッティが作成したフレスコ画に彩られている。
プチ・パレ(小宮殿)は、15世紀に枢機卿の住居をルネサンス様式に改装した宮殿で、現在は美術館として用いられている。教皇の姿を描いた彫刻や、聖書・聖人をモチーフとした多数のテンペラ画が展示されているほか、フラ・アンジェリコやボッティチェリなど、イタリアの宗教絵画も所蔵されている。
教皇庁と並び立つノートルダム・デ・ドン大聖堂は、12世紀に建造されたロマネスク様式の大聖堂であったが、17世紀にバロック様式に改築された。第2代アヴィニョン教皇ヨハネ22世(在位:1316~34年)の墓所でもある。ただし、屋根に立つ黄金色の聖母マリア像は19世紀になって新たに作成されたもの。
ローヌ川にかかるサン・ベネゼ橋は、羊飼いのベネゼが神の啓示を受けたことから、12世紀に建造されたと言い伝えられる。フランス民謡「アヴィニョン橋の上で」は、この橋の完成を祝って人々が歌い踊る情景を描いたもの。建設当時は22のアーチから成る全長900m、幅4mの石造橋であったが、1226年、ルイ8世の侵攻により、橋の7割程度が破壊された。その後も自然災害などによる倒壊と修復を繰り返し、現在は4本の橋脚とサン・ベネゼの聖遺物などが祀られていたサン・二コラ礼拝堂のみが残っている(聖遺物などは、既にセレスティン修道院に移管されている)。