富士山-信仰の対象と芸術の源泉
富士山に関わる信仰の歴史は古く、『万葉集』にも富士を称え崇める歌が見出せる。平安時代には富士山に山岳仏教がもたらされ「富士修験」が興った。江戸時代には村上光清(1682-1759)と食行身禄(じきぎょうみろく)(1671-1733)の活躍によって、富士信仰が民衆に広がり、江戸を中心に富士山を崇敬する集団(富士講)が多数組織された。江戸時代後期には、「江戸八百八町に八百八講」と謳われるほど富士講は大流行した。講徒は富士吉田に宿坊を構える御師とよばれる人々に率いられて富士山登拝を行った。講徒たちは、宿坊内の木花咲耶姫命と食行身禄像を祀った神殿の前で御師からお祓いを受け、富士吉田口から登山し、帰りは須走口から下山した。
また、富士講の人々は遠く望む富士の姿を模して、富士塚と呼ばれる小山を築いた。こうした富士塚に登ることで、富士登拝を疑似体験することができた。現在でも千駄ヶ谷の鳩森八幡神社など、都内各地で現存する富士塚を見ることができる。
しかしながら、明治新政府の宗教政策によって、神仏習合的な富士講の活動は変化を強いられることとなり、富士講の勢いは次第に削がれていった。この時期に富士講の一部は実行教、丸山教、扶桑教として教派神道化を果たし、現在まで受け継がれている。戦後には富士登山をレジャーとして楽しむ風潮が定着し、富士講の衰退は決定的となった。
世界文化遺産登録の際には、富士山が「文化創造の源泉」であり、また「信仰の対象」であるということの二点が行政によってアピールされた。これによって、聖なる山としての富士山に再度注目が集まっている。
UNESCOのサイト
http://whc.unesco.org/en/list/1418/gallery/
博物館と宗教文化のページ
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