ゲラティ修道院

(旧登録名:バグラティ大聖堂とゲラティ修道院)

クタイシの町は古くはシルクロードの交易拠点として栄え、その後、統一グルジア王国の首都となった。国家統一を成し遂げた初代国王バグラト3世は、10世紀末~11世紀初頭にかけてクタイシを見下ろす丘の上にグルジア正教会の大聖堂を建造した。1003年に行われた献堂式には国内外から聖俗の有力者が多数集まったと言われる。大聖堂は王の名を冠してバグラティ大聖堂と呼ばれるようになった。

大聖堂は1691年に、オスマン=トルコによって破壊され、屋根と天井が崩落した。現在に至るまで、外壁だけがクタイシの丘の上に残されているが、50mもある奥行きからは往時の威容が想像される。また、大聖堂の外壁や柱には、鳥や動物、ブドウなどの植物や花のレリーフが残されている。

一方のゲラティ修道院の中核となる建物は、中世グルジアの黄金期にあたる12世紀に、ダヴィド4世によって建設が開始された。当時、統一グルジア王国は、現在のグルジア、アルメニア、アゼルバイジャン、トルコの一部までを版図に収め、最盛期を迎えていた。修道院は宗教的実践の場であったばかりでなく、王立アカデミーも建設され、学術・教育の中心地となった。特に、写本や細密画の評価が高い。なお、ダヴィド4世の亡骸は、遺言に従い、修道院の南側入り口の敷石の下に埋葬されたという。

修道院は、13~14世紀を通じて増改築が重ねられた。その後、周辺諸国からの侵略や内乱、特に1510年のトルコ侵攻の際の火災により、大きな被害を被ったものの、直後(16世紀前半)から修復が始められた。また同時に、ゲラティ修道会には、西グルジアのカトリコス(西方教会の司教・主教に相当)が居住するようになった。その後、19世紀にグルジアがロシア帝国領に編入され、グルジア正教会は独立を失い、ゲラティ修道院も閉鎖されたことから、建物の荒廃が進んだが、1990年以降、再度、修道院としての機能を取り戻し、建物や絵画の修復が進められている。修道院の工房は、金属加工や塗装の技術にも優れていたと言われる。七宝や宝石を100個以上用いて装飾されたイコン「チャチュリの生神女(西方教会で言う聖母マリア)」は、一時は略奪により復元不能と思われていたが、現在、修復が行われている。

修道院の内部は数々のフレスコ画で飾られているが、代表的なものとして、修道院の主聖堂である生神女マリア聖堂に入るとすぐ目に飛び込んでくる、12世紀に製作された「キリストを抱く生神女マリア」のモザイクがある。壁には聖書の場面とともに、ダヴィド4世など、グルジアの歴史的人物の姿も描かれ、天蓋には「全能者キリスト(パントクラトール)」の姿が描かれている。

参考文献