17世紀、サファヴィー朝のアッバース1世(在位1587~1628年)はイスファハンに遷都し、160m×510mにも及ぶ広大な広場を中心とする新しい首都の造営に着手した。当時、広場は「世界全図広場」の名で呼ばれ、その後、「王(シャー)の広場」と呼ばれるようになったが、1979年のイラン・イスラーム革命後は、イスラーム指導者を意味する「イマーム広場」と呼ばれている。
広場は2階建ての回廊で囲まれ、北には大バザール(1619年完成)、南にはイマーム・モスク(1630年完成)、東はシャイフ・ロトフォッラー・モスク(1618年完成)、西は、15世紀に建てられたティムールの宮殿を歴代の王族が増改築したアリー・カプー宮殿が立つ。当初は、パレードや観閲式、ポロの試合、式典のほか、公開処刑等にも用いられていた。
シャイフ・ロトフォッラー・モスクは、アッバース1世がレバノンから招聘したシャイフ・ロトフォッラーのために建造し、王族だけが私的な礼拝に用いていた。そのため、現在も400年前とほぼ変わらぬ姿で保存されている。ドームの屋根、天井ともに、ペルシャ建築としては珍しい黄色いタイルで装飾されているのが特徴で、中庭やミナレット(尖塔)もない。
一方、広場で一際目を引くのは高さ47mのドームを持つイマーム・モスクである。広場に面し、2本のミナレットに挟まれたイーワーン(玄関ホール)には、鍾乳石を模した装飾がほどこされ、鮮やかなブルーのタイルに彩られている。しかし、これは装飾的なもので、実際のモスクの入り口ではない。イーワーンを通り抜けると45度右手の方向にある中庭に出るが、そこにはメッカ(マッカ)の方角(南西)に向かって、さらに2本のミナレットに挟まれた2つ目のイーワーンがあり、これがモスクへの入り口となる。イマーム広場の建造物は、アーケードも含め、ほとんどが花や草木を描いたタイルで彩られているが、7色の彩色タイルで覆われたイマーム・モスクは、サファヴィー朝の高い芸術・建築技術を象徴するものと言えよう。
アリー・カプー宮殿は「アリーの扉」を意味し、アッバース1世が、ムハンマドのいとこで第4代カリフとなったアリーの遺物を収めた聖堂の扉を入手し、宮殿の扉に据えたとする故事に由来する名称である。宮殿の階段の壁面の図柄は天国をイメージしたものとされる。
アッバース1世は、王室の専売とした絹の交易などを目的として、ヨーロッパ各国に使節を送り、キリスト教徒をイスファハンに招待したことから、イスファハンの繁栄ぶりはヨーロッパにも知れ渡った。これにより、「イスファハンは世界の半分」という言葉が広まることとなった。