1世紀にローマ人によって建造された駐屯地「カストロ・レギーナ」を起源とするレーゲンスブルクは、ドイツ最古の都市の1つである。313年まで続いた古代ローマ帝国のキリスト教迫害の時期に、レーゲンスブルクは既にキリスト教化されていたことが考古学的に証明されている。現存するレーゲンスブルク最古の教会アルテ・カペレの原型は6世紀に建設が始まったと考えられている(現在のロココ様式の教会堂は18世紀に再建されたもの)。739年にはニーダーミュンスター教会に司教座が置かれるようになった。
旧市街は堅牢な城壁に囲まれ、11~13世紀に建造されたドイツ最古の石橋、旧市庁舎、大聖堂、修道院が林立している。中世初期に教会建設が非常に盛んであった点で、レーゲンスブルクはドイツ随一の都市とされる。1275年に礎石が置かれた聖ペテロ司教座大聖堂は、数世紀にわたり増改築が重ねられ、2本の尖塔をもつ現在の姿が完成したのは1869年である。また、旧市街の対岸には、1220年、司教と市民の協力により、旧カタリーナ慈善病院が建設された。
16世紀に入ると宗教間、教派間の対立が影を落とすようになる。1519年には、シナゴーグ(ユダヤ教礼拝堂)やゲットー(ユダヤ人居住区)が破壊され、ユダヤ人が町から追放された。シナゴーグが破壊された場所に木造の聖堂が建てられ(現在のノイプファー教会)、特別な恩寵をもたらすとされた聖画「美しいマリア」の模写が飾られたことで、大衆の間でレーゲンスブルクへの巡礼熱が高まる。各地から聖堂を訪れ、熱狂状態で乱舞する人々の姿は、ホイジンガの『中世の秋』にも描かれている。このような巡礼熱は5年ほどで鎮静化するが、反ユダヤ主義を煽ったのと、聖堂を巡礼地に仕立てたのは同一人物で、後に再洗礼派(アナバプテスト)を代表する神学者となるバルタザール・フープマイヤーであると説明されている(木村直司『ドナウの古都レーゲンスブルク』NTT出版)。さらに、1542年、レーゲンスブルク市議会は宗教改革を受け入れ、ルター派を公認した。新しい教えは市民の間に急速に広まり、カトリックの市民は市民権を剥奪されるに至った。三十年戦争(1618~48年)の間、レーゲンスブルクはプロテスタント勢力の砦として、カトリック勢力が優勢な周辺の都市と激しく対立することとなった。
三十年戦争後の1663年、レーゲンスブルクには神聖ローマ帝国議会が置かれ、帝国が崩壊する1806年まで常置された。帝国崩壊後は、マインツ大司教だったカール・フォン・ダールベルクの所領となったが、ダールベルクは、プロテスタントとカトリックに同等の権利を認めたことから信頼を集めた。
1842年にはレーゲンスブルク郊外のドナウ河岸に、パルテノン神殿を模した新古典主義の宮殿「ヴァルハラ神殿」が完成した。ヴァルハラとは、戦死者の魂が集まるとされる北欧神話の神オーディンの宮殿であるが、レーゲンスブルクの「ヴァルハラ神殿」に祀られているのは広義のドイツの偉人(ドイツ語を話すことを条件とする)で、戦死者に限らず、女性を含む科学者や宗教家なども含まれる。
なお、第265代教皇ベネディクト16世は、1969~77年にレーゲンスブルク大学神学部で教授を務めており、2006年には教皇としてレーゲンスブルクを公式訪問した。神父である教皇の兄ゲオルク・ラッツィンガーが聖ペテロ司教座大聖堂付少年合唱団の指揮者を長く務めていたこともあり、ベネディクト16世が同地で休暇を過ごすこともドイツ人の間では良く知られている。