アイゼナハの山の上に建つヴァルトブルク城は、中央ヨーロッパを代表する建築物で、その起源は1067年にさかのぼる。現存する城の基幹部は12世紀に建てられたものだが、保存状態は非常に良い。
ヴァルトブルク城はルターが新約聖書をドイツ語に翻訳した場所として知られているが、その他にも宗教文化にかかわる言い伝えが残されている。
◆『ヴァルトブルクの歌合戦』
1206~1207年にヴァルトブルク城で開かれたとされる「歌合戦」は、ヴァーグナーのオペラ『タンホイザー』の題材として広く知られる。グリム童話にも登場するが、そこでは、6人の歌自慢が即興詩を吟じ合い、負けたものは首をくくられるという命がけの「歌合戦」の様子が描かれている。5人の詩人がテューリンゲン方伯ヘルマンを讃える歌を吟じたのに対し、詩人ハインリヒはオーストリア公レオポルトを讃え、勝負はハインリヒの負けとなる。方伯夫人のとりなしで命を助けられたハインリヒは、歌の名人である魔法使いクリングゾルの助けを得て、2度目の「歌合戦」に勝利する。
この、グリム版「歌合戦」は、ハインリヒが方伯夫人の外套の下に潜り込んだり、クリングゾルが空飛ぶ敷物に乗ったり、悪魔を呼び出して味方につけたりするなど、滑稽で荒唐無稽な話としてまとめられているが、中世の年代記では、2度目の「歌合戦」の際には神の慈しみやキリストの権能、ミサ聖餐の解釈など、神学的内容についての謎かけ(問答)が行われたとする記述が見られる。また、クリングゾルが方伯によって宴に招かれた理由として、ハンガリーの聖女エリザベートが同家に嫁ぎ、方伯に息子が生まれることを予言したからと説明する写本もある。
◆聖女エリザベート
1207年にハンガリー王アンドラーシュ2世の第3子として誕生したエルジェーベト(エリザベート)は、当時の慣習にしたがい4歳でテューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世と婚約し、ヴァルトブルク城に移り住んだ。10年後に結婚式を挙げ、3人の子をなしたが、20歳の時に十字軍として従軍した方伯と死別する。エリザベートは方伯の生前から、ハンセン病患者や貧者などへの奉仕活動に熱心で、教会に多額の寄進を行っていたため、宮廷内で批判を浴びることも多かったが、方伯が彼女をかばっていた。しかし、方伯の死後は孤立無援となり、「散財」を理由に宮廷から追放されたとも、自ら宮廷を去ったとも言われている。
マールブルクに移り住んだエリザベートは施療院を設立し、自ら献身的に奉仕に当たったが、1231年に24歳の若さで他界した。その後、彼女の墓を訪れた人の身に奇蹟がおきると評判が広まったことから、4年後の1235年、早々に聖人に列せられた。これによってマールブルクは、サンティアゴ・デ・コンポステーラに次ぐ一大巡礼地となった。
◆マルティン・ルター
城にはザクセン選帝侯フリードリヒ3世の庇護の下、マルティン・ルターが1522年以降、偽名を使い隠れ住んだ。1517年、ヴィッテンベルク大学の神学教授であったルターは、『95ヶ条の論題』として知られる文書においてカトリック教会による贖宥状の販売を批判し、「人は信仰によってのみ義とされる」(信仰義認説)と唱えた。その後、1519年に神学者エックとの間で行われたライプツィヒ討論で、教皇の至上権や公会議の権威を否定したことから、カトリック教会との決裂は決定的となり、1521年に公式に破門された。さらに、ルターは神聖ローマ帝国皇帝カール5世に帝国議会に召喚され、あらゆる権利を剥奪される。こうした状況下で、ルターに手を差し伸べたのがザクセン選帝侯であった。
ルターはこの城の一室で、新約聖書をドイツ語に翻訳した。言い伝えでは、ルターが聖書を翻訳しているところに悪魔が現れ、邪魔をしたが、ルターがインク壺を投げつけると、悪魔は二度と現れなかったとされる。城には、ルターが書いた書簡も多数保存されている。
・安藤秀國「歌劇『タンホイザー』とヴァルトブルクの歌合戦 」『愛媛大学法文学部論集』35巻、2013年
・上尾信也「『ヴァルトブルクの歌合戦』伝説」『桐朋学園芸術短期大学紀要』Vol.3、2007年