マサダとはアラム語で「要塞」を意味し、死海の西岸、ユダヤ砂漠にある400mの高さの岩の台地の上に残る。紀元前100年頃に一度要塞が建設された後、ユダヤのヘロデ大王(在位:紀元前37~4年)が大規模な増築を行った。ヘロデ大王は、猜疑心の強い人物として知られ、政敵はおろか自らの肉親も次々と殺害したと言われる。新約聖書の『マタイによる福音書』には、イエスの誕生に際し、救世主の誕生を聞きつけた大王がベツレヘムの2歳以下の幼児を皆殺しにしたとの記述がある。マサダの増築を行ったのも、敵の侵略や謀反を危惧したものと考えられる。
マサダは、初期ローマ帝国の古典的様式の宮殿の複合体であり、世界的に見ても最も保存状態の良いローマ時代の建造物である。要塞は1,300mに及ぶ二重の防壁で囲まれ、見張り塔や兵舎、食料を入れたと思われる数百の壺や武器を収めた貯蔵庫、4万㎥の水を貯められる12の貯水槽などに加え、王が居住する豪奢な宮殿も建設された。宮殿は2棟建てられ、北側のものはヘロデ大王の私邸とされる。崖の縁に位置し、列柱に囲まれた大広間には3つのテラスが、寝室には半円形のバルコニーが設置されていることから、エン・ゲディ(オアシス)や死海、モアブ山などを一望することができる。もう1棟は、西側に築かれた4,000㎡の宮殿で、執務を行ったり、客人をもてなしたりしたと考えられている。また、浴室にはサウナ、大浴槽、冷水浴槽などがあり、床はモザイクで飾られるなど非常に豪華なものである。
西暦4年にヘロデ大王が亡くなるとユダヤ王国は混乱に陥った。ローマ帝国はユダヤに総督を送り込み、これを属州とした(ゆえに、ユダヤの律法学者たちはローマの総督ピラトに対し、イエス・キリストを十字架に架けるよう訴え出たのである)。ユダヤ人の中に民族独立の希望を捨てずローマの支配に武力で抵抗する一派(熱心党)があり、これを鎮圧するローマ軍の残虐ぶりもエスカレートしていった。そのような中で66年に、ユダヤの民衆反乱である第一次ユダヤ戦争が勃発する。ユダヤの反乱軍はローマに支配されていた宮殿や要塞に奇襲をかけ、これを奪還していくが、地力に優れたローマ軍により70年にはエルサレムが焼き落とされ、徹底的に破壊されるに至った。
エルサレム陥落後、約960人のユダヤ人がマサダに立てこもり抵抗を続けた。73(または74)年、ローマ軍に防壁を突破され、いよいよ敗北を覚悟したユダヤ人たちは捕虜になるより自決することを選んだ。年代記『ユダヤ戦記』には、男たちが妻と子を殺して要塞に火を放ち、くじで選ばれた10人の男が残りの男たちを殺し、そして、最後に選ばれた1人の男が9人の男を殺して自害したと記される。生存者は女性2人と子供5人のみで、『ユダヤ戦記』のマサダ陥落に関する記述は、この2人の女性の証言を元にしたものとされる。考古学的調査により、北の宮殿の前から陶器の破片1つ1つに名前を書いたものが11片出土しており、その1つに指揮官だったベンヤイールの名が書かかれていたことから、くじに用いられたものではないかと推測されている。
『ユダヤ戦記』はユダヤ人であるヨセフスによって1世紀に書かれた書物だが、ユダヤ人の間では、千数百年の間、特に顧みられることはなく、マサダの正確な位置も判別がつかないまま放置されていた。19世紀になり、考古学的調査によってマサダの場所が特定され、細かい数値や位置関係などを除いては、年代記の内容が概ね史実と合致することが明らかとなった。また、年代記がフランス語や英語などに翻訳され、1920年代にはこれに着想を得た叙事詩も発表されたことで、その後、ナチスによる迫害に苦しむヨーロッパのユダヤ人の間でマサダの悲劇が強い共感を持って受け止められることとなった。このような経緯からユダヤ人のマサダに寄せる思いは強く、一生に1度は訪れると言われる聖地となっている。また、イスラエル国防軍の入隊宣誓式はマサダで行われており、そこでは「マサダは2度と陥落しない」と宣言するという。
マサダには、第一次ユダヤ戦争の際、立てこもったユダヤ人たちが礼拝を行っていたシナゴーグの壁や柱の下部は現在も残されており、現存するシナゴーグとしては世界最古の部類である。また、後には、キリスト教徒によってもこの場所が神聖視されるようになり、神殿には6世紀に建設されたビザンツ様式のキリスト教の教会も残される。