イチャン・カラ

ヒヴァは、イラン(ペルシャ)に向けて砂漠を横断する隊商が最後の休息を取るオアシスとして栄えてきた。人々の往来とともに、さまざまな文化や宗教がもたらされてきたが、712年のアラブ侵攻後はイスラーム化やトルコ化が進行し、イスラーム文化の一大中心地へと発展を遂げた。1643年、遊牧民族のウズベク人が16世紀に建国したヒヴァ・ハーン国の首都となり、政治・経済・宗教の都としての地位を確立することとなる。

都市は外壁と内壁の二重の城壁で囲まれている。高さ10mの内壁の内側にある旧市街は内城(イチャン・カラ)と呼ばれ、かつてはハーンの宮殿やハーレム、モスクなどがあった。内壁と外壁の間は外城(デシャン・カラ)と呼ばれ、庶民が暮らしていた。このような城壁を持つ都市の構造は珍しいものではないが、内城が無傷で残っているのは、中央アジア・西アジアではヒヴァのみである(ただし、ヒヴァの内城も、1740年のペルシャ侵攻により破壊され、18~19世紀にかけて復元されている)。内城には20のモスク、20のマドラサ(神学校)、6基のミナレットが残されている。

1990年にウズベキスタンで初めてユネスコ世界遺産に登録された。

主な宗教遺産

ジュマ・モスク

大部分が1788~1789年に再建されているが、原型は10世紀に建てられたモスク。内部には、花や星、文字などの精密な彫刻が施された200本余の柱が3.15mの間隔で立ち並ぶ。この柱の中には10世紀以前に作られたものが2本、10~11世紀のものが4本含まれるという。

ムハンマド・アミン・ハーンのマドラサ

19世紀に完成した当時は、中央アジア最大級のマドラサで、最盛期には99人の寄宿生が暮らしていた。社会主義時代には監獄に利用されていたが、現在は、ホテル、レストラン、土産物屋などが集まる観光施設として利用されている。

カルタ・ミナル(ミナレット)

カルタとは「短い」という意味。1852年、ムハンマド・アミン・ハーンが中央アジアで最も高いミナレットを建てようとしたものの、高さ約26mまで作られたところで工事が中断。未完成となっている。

イスラム・ホジャ・マドラサとミナレット

イスラム・ホジャ・マドラサは、ヒヴァの最後のハーンに仕えた大臣イスラム・ホジャによって1910年に建設された。イスラム・ホジャは学校、病院、郵便局などを建設し、帝国の近代化に尽力した人物。マドラサに併設されたミナレットは高さ45メートルで、ヒヴァでは最も高いミナレット。

参考文献リスト