アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所は、1940年にナチス・ドイツ占領下のポーランドに建設された。1942~1944年には「ユダヤ人問題の最終的解決」の名の下に、多数のユダヤ人が収容され、命を落とした。アウシュヴィッツ博物館は、1945年1月27日に収容所が解放されるまでの死者は約130~150万人、その内ユダヤ人は約110万人と公表している。この一連の迫害は、ユダヤ教の宗教用語から派生した「ホロコースト(燔祭)」という語でも呼ばれるが、これは旧約聖書の「レビ記」に記された古代ユダヤの供犠で、祭壇上で生贄の動物を丸焼きにし、神に捧げることを指す。現在に至るまで、アウシュヴィッツはユダヤ人にとっての巡礼地となっており、イスラエルの学校や軍隊から派遣される団体見学者をはじめ、北米・欧州等、世界各国のユダヤ系市民が巡礼に訪れている。
一方、収容所で亡くなったのはユダヤ人だけではない。ナチスの占領に抵抗したポーランド人、当時「ジプシー」と呼ばれたシンティ・ロマ、ソ連人捕虜、同性愛者、エホバの証人の信者なども収容され、その多くが命を落とした。
ポーランド人については、カトリック聖職者、政治家、教師、作家・芸術家など、社会的に影響力を有する人々が、時には根拠もなく「反ナチス的活動に関与した」として逮捕され、16万人がアウシュヴィッツに収容された(半数が収容所内で死去)。終戦後の1947年、アウシュヴィッツ収容所跡地は国立博物館に認定され、ポーランド人にとっての聖地となった。特に、収容所で他の囚人の身代わりとなって処刑されたマキシミリアノ・コルベ神父への崇敬が高まり、同神父が1971年にローマ教皇庁によって福者に列せられ、その後、1982年に聖人とされてからは、全世界のカトリック信者にとっての巡礼地ともなっている。
博物館の年間訪問者数は1959年~1963年頃には30万人、1960年代後半から2004年まで50~80万人で推移していたが、ポーランドがEUに加盟した2004年以降、一気に100万人を超えた。ユネスコ世界遺産への登録は1979年である。
現在、アウシュヴィッツ収容所(第1アウシュヴィッツ)では、煉瓦造りの建物が展示室として利用されており、収容者の遺品(靴、衣服、髪の毛、鞄、義手・義足、眼鏡、日用品など)や当時の写真や地図、収容所で使用された道具、ベッドやトイレなどが展示されているほか、地下牢、死刑場、遺体の焼却炉(再現されたもの)が見学できる。ビルケナウ収容所(第2アウシュヴィッツ)には、広大な敷地を囲む鉄条網や囚人を運んできた鉄道の引き込み線、見張り台、収容者が寝起きしていたバラック、爆破されたクレマトリウムの残骸が一部保存され、最奥部の洗濯場跡には、囚人たちが遺した戦前の写真が展示されている。
ホロコースト以前のポーランド(現ウクライナ西部、リトアニア南部を含む旧ポーランド領)は人口の1割をユダヤ人が占め(約300万人)、大都市では人口の3分の1~4分の1がユダヤ人であった。これは、13世紀にヨーロッパ各地でユダヤ人の迫害や追放が始まった際、ポーランド王がユダヤ人を受け入れたことに起因する。全土に点在したユダヤ人コミュニティでは、イディッシュ語が話され、独自の文化が維持された。これらのコミュニティはイディッシュ語で「シュテットル」と呼ばれる。
UNESCOのページ
http://whc.unesco.org/en/list/31/gallery/
Google Arts & Culture(国立アウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館の所蔵品616点の画像を閲覧できます:2018年11月現在)
https://artsandculture.google.com/partner/auschwitz-birkenau-state-museum?hl=ja
CERC「映画と宗教文化」のページ