モスクワのクレムリンと赤の広場

ロシア大統領府(かつてはソ連共産党本部)の代名詞のように用いられている「クレムリン(クレムリ)」の語は、ロシア語では「要塞」を意味する一般名詞。モスクワの「要塞(クレムリン)」の起源は1156年に建設された木製の砦に遡る。1271年にモスクワ大公国が開かれてから、交易などによって発展を遂げ、1326年にはウラジーミルより府主教座が遷され、1328年には正式にモスクワ大公国の首都となった。

15世紀後半にイヴァン大帝によりレンガ造りの壁、塔、城門などが建設された。城壁の中心に、イタリアから招聘した建築家によって、ウスペンスキー大聖堂やブラゴヴェシチェンスキー聖堂が建造されたのも同時期である。聖堂には、コンスタンティノープルやギリシャからも聖遺物が運ばれてきて安置された。クレムリンは、「第三のローマ」、「第二のエルサレム」などの異名を持つ、宗教上の核でもあった。

赤の広場はクレムリンに隣接し、7万3千平方メートルにも及ぶ広大な広場である。聖ワシーリー寺院やレーニン廟などがあり、軍隊の閲兵式などのパレードも行われる。

【クレムリン内の宗教施設】

ウスペンスキー大聖堂は、イヴァン大帝が招聘したイタリア人建築家アリストーテリ・フィオラバンティの設計により、1479年に建造された。大聖堂の壁や屋根は1000人の修道士によって描かれたとされるイコンで飾られている。かつては皇帝の戴冠式やモスクワ総主教の葬儀が行われていた。

ブラゴヴェシチェンスキー聖堂は、イヴァン大帝の私的な聖堂として1489年に建設され、その後、歴代の皇帝が個人聖堂として利用してきた。9つの円蓋は金箔で覆われており、「黄金の屋根の聖堂」と呼ばれる。イコノスタシスには、アンドレイ・ルブリョフが作成したイコンなども飾られている。

リザパラジェーニア聖堂は、モスクワがモンゴル人による支配を脱したことを祝して建立され、1度焼失した後、1485年に再建された。教会内部はフレスコ画で覆い尽くされ、ロシアの伝統的な建築様式とイタリアのルネッサンス様式が融合した貴重な建造物として知られる。

アルハンゲリスキー聖堂は、軍の守護神である大天使ミカエルを祀るため、1508年に創建された聖堂。ピョートル1世がサンクト・ペテルブルクに遷都するまで、歴代モスクワ公と皇帝が埋葬された。

【赤の広場の宗教施設】

聖ワシーリー寺院は、正式名称を濠の上のポクロフスキー聖堂と言い、生神女マリア(西方教会でいう聖母マリア)に捧げられた教会である。カザン=ハン国に勝利した記念に、イヴァン雷帝の命によって建てられた。赤の広場にあり、色とりどりの9つのタマネギ型の円蓋がそびえる姿で知られる。

赤の広場にあるレーニン廟には、1924年に死去したレーニンの遺骸が安置されている。永久保存可能な防腐処理を施された遺骸がガラス張りの棺の中に収められており、現在では観光客などにも公開されている。社会主義期には、個人崇拝の対象ともなったレーニンであるが、ソ連崩壊後は、廟を撤去するか否かでロシア国民の世論が二分されている。

参考文献

UNESCOのページ

http://whc.unesco.org/en/list/545/gallery/

CERC「映画と宗教文化」のページ