カルタゴ遺跡

カルタゴは、B.C.12世紀頃からこの地を地中海交易の拠点としていたフェニキア人(レバノン人)によって、B.C.9世紀に建設された。その後、B.C.6世紀頃から都市国家として急速に発展し、交易・造船のみならず、農業技術や金属加工、陶器製造、染色・織物、都市計画・水利設備、ギリシャ哲学などに代表される高度な文明が花開いた。

カルタゴ宗教の痕跡を今に伝えるものとして、フェニキアの火の神バアル・ハモンと、天と豊穣の女神タニトが祀られていた聖域と、それに隣接する墓所(現在ではトフェと呼ばれる)がある。墓所は地上と地下に分かれており、大量の墓石や骨壺が発掘されている。聖域から炭化した幼児の遺骨が多数発見されていることから、カルタゴでは生贄として幼児を火に投げ入れる宗教儀礼があったとする学説もある。真偽は定かでないが、ギュスターヴ・フローベールの小説『サランボー』に、この生贄の儀礼についての描写が登場することから、同学説が広く知られるようになった。

タニト神はカルタゴの守護神として崇拝されており、そのシンボルマーク(丸形の頭部、その下に直線の2本の手があり、体は三角形)は、カルタゴが支配した地中海の島々(コルシカ、サルディニアなど)の遺跡からも多数発掘されている。

B.C.3~2世紀に3度にわたりローマと戦った(ポエニ戦争)結果、B.C.146年、英雄ハンニバル率いるカルタゴ軍は敗北した。ローマ軍はカルタゴを破壊し尽くし、灰燼に帰した土地を鋤でならして塩を撒くほどの徹底ぶりであったが、B.C.46年、ローマの独裁官カエサルは、カルタゴを植民市として再建することを計画。碁盤状の道を造り、円形劇場や闘技場、浴場を備えたローマ風の都市が建設された。キリスト教の教父の一人、後にヒッポの司教となる聖アウグスティヌス(AD.354~430年)も、若き日にカルタゴに遊学したことで知られる。

その後、A.D.7世紀に、カルタゴはアラブ人が興したウマイヤ朝に占領され、再び破壊された。浴場などに用いられていた石材は、当時ウマイヤ朝の支配下にあったイベリア半島にモスクを建造するために運び出された。カルタゴの遺跡の発掘が始まるのは、ようやく20世紀になってからである。

参考文献

ビュルサの丘の市街地遺構

アントニヌスの公衆浴場の遺跡