ウィーン歴史地区

ウィーンの歴史は古代ローマ時代にさかのぼるが、都市として発展を見せるのは、オーストリアを支配していたバーベンベルク家が1155年にウィーンを都と定めてからのことである。都市を囲む城壁が完成し、1278年にハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝ルドルフ1世の所領となると、ハプスブルク家の都としてさらなる発展を遂げた。欧州各地の修道会がウィーンに招聘され、数多くの教会や修道院が建設されたほか、聖職者の育成や学問の発展にも貢献した。

17世紀後半にオスマン=トルコ軍を撃退して以来、都市は城壁の外側へと拡大し、バロック様式の豪華絢爛な建造物が次々と建設され、音楽や美術などの芸術が一気に花開いた。多くの中世の教会がバロック様式に増改築されたほか、この時期、度々ウィーンを襲ったペスト禍を避けるため、新たに教会や聖像などが建立された。

19世紀半ばに行われたフランツ・ヨーゼフ1世の大規模な都市改造によって、ウィーン大学や美術史美術館、国立歌劇場など、数多くの文教施設が建造された。ハプスブルク家支配の終焉やナチス・ドイツによる併合などを経て、ウィーンは、国連事務局などを擁する国際政治の中心地に姿を変えたが、欧州を代表する芸術・文化、学問、宗教の中心地であることには変わりない。

【中世の代表的な建造物】

中世を代表する建造物は、旧市街の中心部に建つシュテファン大聖堂である。バーベンベルク家がウィーンを統治していた12世紀に建造が始まった後、幾度も増改築を重ね、各時代の建築様式が混ざり合った大聖堂へと発展した。モーツアルトの結婚式や葬儀が行われたことでも知られる。また、屋根を彩る「双頭の鷲」の紋章が示すように、シュテファン大聖堂はハプスブルク家の歴代君主の墓所でもあり、地下のカタコンベ(地下墓所)には、ハプスブルグ家の人々の内臓(心臓を除く)や、ペストで死んだウィーン市民の約2,000柱の骨が保存されている。ハプスブルク家には、死者の心臓、その他の内臓、遺体を3箇所に分けて埋葬する習慣があり、心臓は主にアウグスティーナー修道院、遺体は主にカプツィーナー修道院に埋葬されている。

現存するウィーン最古の教会はルプレヒト教会で、ロマネスク様式で建造された。現在の建物は1276年の大火の後にゴシック様式で建設されたものだが、一部に、12世紀初頭の壁や、1270年頃のものとみられるステンドグラスなどが残されている。

オーストリア最古の修道院であるショッテン修道院は、「スコットランドの修道院」を意味し、バーベンベルク家のハインリッヒ2世により、アイルランド(当時は小スコットランド)から招聘されたベネディクト会士によって1155年に建立された。中央祭壇には、聖母子や聖ベネディクトらの前に跪くハインリッヒ2世の姿が描かれている。同修道院には、1250年に作られたウィーン最古のマリア像など、貴重な絵画や聖像などが多数残されている。

マリア・アム・ゲシュターデ教会(1158年創建、14世紀に再建)は、かつてドナウ川支流であった土手に建立されたことから、「岸辺に立つマリア」教会と名付けられた。『受胎告知』を表現した中世の石像や14世紀に作られたステンドグラスなども、現存する。

大天使ミカエルの名を冠した聖ミヒャエル教会(1250年創建)は、モーツアルトの「レクイエム」が初演された教会として知られる。中央祭壇には「堕天使の群像」が彫刻され、中央にはクレタ島から運ばれた聖母子のイコン(聖画)が配置されている。

1224年創建のミノリート教会は、教会の尖塔の先端が煙突のような平たい形状をしているのが特徴的だが、これは、トルコ軍との戦闘の際、砲撃で破壊されたのをそのままの形で保存したためと言われる。教会内には、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』のレプリカが飾られている。ミノリートとは、当時、バーベンベルク家のレオポルド6世に招聘されたフランシスコ会士のことであり、フランシスコ会修道院(ミノリート修道院)も1250年頃、教会と一緒に建築された。

【バロック期の代表的な建造物】

カール4世やマリア・テレジアの治世では、ベルヴェデーレ宮殿などの華美な宮殿や噴水を有する庭園が続々と建造された。他方、中世以来の教会や修道院などは多くが改築され、バロック様式の装飾が施されるなど、中世ウィーンの景観は失われていった。ウィーンで2番目に古いとされるペーター教会もその1つで、18世紀初頭にバロック様式に再建された。天井画はオーストリア・バロックを代表する画家ヨハン・ミシャエル・ロットマイヤーが手掛けたもので、聖母マリアの昇天が描かれている。

この時代に新たに建造された教会もある。1713年にウィーンでペストが大流行し、8000人の死者を出した際、神聖ローマ皇帝カール6世は、ペストを鎮める守護聖人カール・ボロメウスに、ペストが早急に終息すれば教会を建てると願掛けを行った。翌年、ペスト禍は無事鎮静化したため、皇帝の命によりカール教会が建設された。教会の設計はヨハン・フィッシャー・フォン・エアラッハが担当し、ペーター教会の天井画も手掛けたロットマイヤーが、聖母マリアや天使、聖人を描いた豪華絢爛な天井画を完成させた。同教会の壁画やレリーフには、随所にカール・ボロメウスやペストを癒される人々が描かれているが、同時に、教会の左右にはローマ五賢帝のトラヤヌス帝とマルクス・アウレリウス帝の記念柱を模した「勝利の柱」が建立され、先端に皇帝の紋章が刻まれるなど、ハプスブルク家の王権は神からもたらされたとする王権神授説を強調したモチーフも見られる。

ウィーンは、1713年のペスト禍以前にも十数回のペスト大流行に見舞われており、1679年のペスト大流行の際には、レオポルド1世によってペスト記念柱(三位一体像柱)が建立され、ペストの早期終息が神に祈願された。

【近代の代表的な建造物】

19世紀半ば、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の都市改造計画により、ウィーンの街を取り囲んでいた城壁が取り壊され、その跡地にリンクシュトラーセと呼ばれる環状道路が敷かれた。これに沿って、国立歌劇場、ブルク劇場、国会議事堂、市庁舎など、新たな行政施設、文化施設が続々と建築された。

壁が取り壊された後、最初に作られたヴォーティフ教会は、1853年に暗殺未遂に遭ったフランツ・ヨーゼフ1世が無傷であったことを神に感謝するために建立された

ウィーン大学は1365年にハプスブルク家ルドルフ4世によって創立された、ドイツ語圏最古の大学であるが、現在の本館は19世紀に建設されたものである。講堂の天井画などはマッチュとクリムトの筆によるもので、第二次世界大戦中に焼失したクリムトの『医学』『哲学』『法学』については、モノクロ写真がはめ込まれている。柱と天井の継ぎ目の部分には、他の学問とともに『宗教学』の画も描かれている。

美術史美術館は19世紀後半に、歴代ハプスブルク君主が収集した美術品を収蔵するために建造され、聖書神話をモチーフにした多数の宗教画が収蔵・展示されている≪本ページ下部【ウィーン美術史美術館が所蔵する宗教画リスト】参照≫。建物自体もクリムトらの天井画や壁画によって装飾された豪奢なものである。また、ウィーン、シェーンブルン、ルクセンブルク、バーデンなど、各地の宮廷付教会や礼拝室で使用されていた祭壇や聖体顕示台、祭服、聖画・聖像など、キリスト教会が所有する宝物も収蔵・展示されている。

参考文献

UNESCOのページ

http://whc.unesco.org/en/list/1033/gallery/

Google Arts & Cultureのページ(美術史美術館の所蔵品175点の画像を閲覧できます:2018年11月現在)

https://artsandculture.google.com/partner/kunsthistorisches-museum-vienna-museum-of-fine-arts

https://sites.google.com/site/cercreligiousculture/world-religions/christianity/catholic/vienna/vienna1

シュテファン大聖堂

https://sites.google.com/site/cercreligiousculture/world-religions/christianity/catholic/vienna/vienna2

シュテファン大聖堂 内部

https://sites.google.com/site/cercreligiousculture/world-religions/christianity/catholic/vienna/vienna3

美術史美術館

https://sites.google.com/site/cercreligiousculture/world-religions/christianity/catholic/vienna/vienna4

美術史美術館

『聖フランシスコ・ザビエルの奇跡』

https://sites.google.com/site/cercreligiousculture/world-religions/christianity/catholic/vienna/vienna5

ウィーン大学

https://sites.google.com/site/cercreligiousculture/world-religions/christianity/catholic/vienna/vienna7

ウィーン大学講堂

https://sites.google.com/site/cercreligiousculture/world-religions/christianity/catholic/vienna/vienna6

ウィーン大学講堂『宗教学』

https://sites.google.com/site/cercreligiousculture/world-religions/christianity/catholic/vienna/vienna8

ウィーン大学講堂『哲学』『医学』

【ウィーン美術史美術館が所蔵する宗教画リスト】 外部リンク(Google Arts & Culture)

≪旧約聖書≫

・ ピーテル・ブリューゲル『バベルの塔』 →画像

・ ヒューホ・ファン・デル・フース『原罪と贖罪の二連祭壇画』 →画像

・ ルーカス・クラーナハ『ホロフェルネスの首を持つユーディット』 →画像

・ ヴェロネーゼ『ホロフェルネスの首を持つユーディット』 →画像

・ ヴェロネーゼ『ダヴィデの戴冠』 →画像

・ アントン・ファン・ダイク『サムソンとデリラ』 →画像

・ ニコラ・プッサン『ティトス皇帝によるエルサレム征服』 →画像

・ アンドレーア・デル・サルト『大天使ラファエルとトビアス』 →画像

・ ルーカ・ジョルダーノ『大天使ミカエルと堕天使』 →画像

≪新約聖書≫

洗礼者ヨハネ

・ ハンス・メムリンク『洗礼者ヨハネの小祭壇画』 →画像

・ ベルナルド・ストロッツィ『洗礼者ヨハネの説教』 →画像

・ グイド・レーニ『キリストの洗礼』 →画像

・ ヨアヒム・パティニール『キリストの洗礼』 →画像

・ ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス『洗礼者ヨハネの亡骸』 →画像

聖母マリアと聖家族

・ アントン・ラファエル・メングス『聖ヨゼフの夢』 →画像

・ ベルナルド・カヴァッリーノ『三王礼拝』 →画像

・ ヤコポ・ダ・ポンテ『三王礼拝』 →画像

・ バッチョ・デッラ・ポルタ『神殿の幼児キリスト』 →画像

・ ペーテル・パウル・ルーベンス『イルデフォンソの三連祭壇画』 →画像

・ アントネッロ・ダ・メッシーナ『聖母とバーリの聖ニコラウス、聖アナスタシア、聖ウルスラ、聖ドミニクス』 →画像

・ アルブレヒト・デューラー『梨を持つ幼児キリストを抱く聖母』 →画像

・ マルティン・ショーンガウアー『聖家族』 →画像

・ アーニョロ・ディ・コージモ『聖家族と聖アンナ、幼児洗礼者ヨハネ』 →画像

・ ロレンツォ・ロット『幼児キリストを抱く聖母マリア、聖カタリナ、聖ヤコブ』 →画像

・ アントン・ファン・ダイク『聖母マリアと福者ヘルマン・ヨーゼフの神秘の婚約』 →画像

・ ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『ジプシーの聖母』 →画像

・ ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ『ロザリオの聖母』 →画像

・ ラファエッロ『草原の聖母』 →画像

キリストの十字架と復活

・ ジョヴァンニ=バッティスタ・カラッチョーロ『オリーブ山のキリスト』 →画像

・ ミケランジェロ・メリジ・ダ・カラヴァッジョ『荊冠のキリスト』 →画像

・ ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『エッケ・ホモ(この人をみよ)』 →画像

・ ルーカス・クラーナハ『キリストの磔刑』 →画像

・ ロヒール・ファン・デル・ウェイデン『三連祭壇画:キリスト磔刑』 →画像

・ フランチェスコ・ソリメーナ『キリスト降架』 →画像

・ アルブレヒト・アルトドルファー『キリストの復活』 →画像

・ アルブレヒト・デューラー『万聖図』 →画像

使徒

・ ベルナールト・ファン・オルレイ『聖トマスと聖マタイの祭壇画』 →画像

・ ヤン・ホッサールト『マドンナを描く聖ルカ』 →画像

≪教会≫

・ ペーテル・パウル・ルーベンス『聖フランシスコ・ザビエルの奇跡』画像

・ ヤン・ファン・エイク『ニッコロ・アルベルガーティ枢機卿』 →画像

≪神話≫

・ バルトメウス・スプランヘル『ヴィーナスとアドニス』 →画像

・ アントーニオ・アッレグリ『ガニュメデスの誘拐』 →画像

・ アントーニオ・アッレグリ『ユピテルとイオ』 →画像

・ マールテン・ファン・ヘームスケルク『バッコスの勝利』 →画像

・ ハンス・フォン・アーヘン『バッコス、ケレス、クピド』 →画像

・ ペーテル・パウル・ルーベンス『ヴィーナスの祭り』 →画像

・ ペーテル・パウル・ルーベンス『ピレモンとバウキスがいる嵐の風景』 →画像