マラッカとジョージ・タウン、

マラッカ海峡の古都群

マラッカ州の州都マラッカ(ムラカ)とペナン島市の中心地区ジョージ・タウンは、それぞれマレー半島沿岸部に位置する港湾都市で、ともにマラッカ海峡における東西貿易や文化の交流点として発展してきた。以下に記すように、この二つの都市はマラッカ王国時代、ポルトガル占領時代、オランダ・イギリス統治時代という激動の歴史を経て、様々な宗教文化が重層的に融合した独特の景観を持ち、その普遍的な価値が評価され2008年に世界遺産に登録された。

◆マラッカ王国時代

14世紀末、マラッカを含むマレー半島全域に絶対的権力を持ったスルタンが統治するマラッカ王国が成立した。首都であるマラッカは商業や貿易の、またムスリム商人によりイスラム神学の中心地として栄え、周辺諸国に対しても大きな影響力を持った。

◆ポルトガル占領時代

1511年、東インド貿易の支配を狙ったポルトガルによってマラッカは陥落した。ポルトガルによる占領はおよそ1世紀ほど続いたが、この時期を通じてマラッカの地にはカトリックの伝統やポルトガル文化がもたらされ、また落ち延びたスルタンを中心とするマレー人勢力との攻防もありマラッカの街は要塞化している。このポルトガル占領時代の雰囲気を現在に残すのが、ポルトガル広場やセントポール寺院、マラッカ要塞の跡である。

また、日本に初めてキリスト教をもたらしたことで知られるイエズス会のフランシスコ・ザビエルは、このマラッカの地で鹿児島出身の日本人・ヤジロウ(アンジロウ、アンジェロ)と出会い、日本での布教を決意したという逸話も有名である。マラッカのフランシスコ・ザビエル教会には、現在でもザビエルとヤジロウの銅像が並んで立っているのを見ることができる。

◆オランダ統治時代

ポルトガルによりマラッカが陥落したのち、この地から敗走したスルタンはマレー半島最南端のジョホールへ逃れ、マラッカ王国の伝統を継ぐジョホール=リアウ帝国が成立した。アチェ王国(現在のインドネシア)とポルトガルに敵対していたジョホールはオランダと同盟関係を結んだため、1641年にはオランダ東インド会社がマラッカを占領し、その後約180年間にわたり同地を支配した。このオランダ植民地時代を通じて、マラッカにはマラッカキリスト教会や総督邸(スタダイス)などのオランダ様式の建築物が建てられた。

◆イギリス統治時代

1824年、ナポレオン戦争によりオランダがマレー半島から撤退するとマラッカはイギリスの海峡植民地に統合されることになるが、ペナン島には1786年にイギリス東インド会社によってイギリス人が入植し、ジョージ二世の名を冠した都市ジョージタウンを形成した。貿易の中継地として発展したこの地には、イギリス東インド会社によってコーンウォリス要塞や市庁舎、セント・ジョージ教会などが建てられ、植民地時代の面影を今に伝えている。

参考文献

・ザイナル=アビディン=ビン=アブドゥル=ワーヒド編(1983)『マレーシアの歴史』(野村亨訳、山川出版社)