リラ修道院

修道院は、10世紀に東方正教会の修道士イオアン(イヴァン)が隠遁生活を行っていた山間の村に建てられた。イオアンの質素な住居と墓所は、彼を敬愛する修道士や巡礼者の崇敬の対象となり、また、修道院がアトス山やエルサレムへの巡礼道に位置していたことから、巡礼者のための宿泊施設などが建設され、修道院は規模を拡大して行く。イオアンはリラの聖イオアンとして、東方正教会の聖人に列せられた。

リラの修道院は第二次ブルガリア帝国の繁栄と相まって発展を続け、皇帝や貴族の寄進により周囲の23もの村を含む広大な領地を所有するようになった。中世を通じて東方正教世界に宗教、芸術面で強い影響を与えたが、13世紀の大火によって焼け落ちた。その後、地元の有力者であるステファン・フレリヨの巨額の寄付により、1335年に塔が再建され(現存する「フレリヨの塔」)、15世紀には元の修道院から数km離れた場所に城塞としての機能も兼ね備えた新しい修道院が完成した。

1400~1878年まで続いたオスマン・トルコによる占領下では、キリスト教の信仰やブルガリア語の使用は制限され、多くの修道院が破壊されたり、モスクに転用されたりした。しかし、リラ修道院だけは特別に活動を許されたことから(修道院が非常に裕福であったことから、オスマン帝国は、修道院を潰すより多額の税金を納めさせることを選んだとされる)、ブルガリア民族のアイデンティティの拠り所となった。また、東方キリスト教文化の中心地として、ブルガリア・ルネサンス(18~19世紀)の拠点となり、バルカン半島全土からの巡礼の対象となった。1833年の火事により、修道院は再度消失するが、ブルガリア全土から寄付やボランティアが集まり、1870年までに再建が完了した。

修道院の中庭にある聖母教会はアトス山のヒレンダル修道院の聖堂を模して建造されたものである。教会内部は1,200点の極彩色のフレスコ画に彩られ、旧約聖書の36の場面のほか、ブルガリアの民族衣装を着た聖人、竜・悪魔や異教徒と戦う戦士、リラ村近辺の農村の生活風景など、民族意識の高揚を感じさせるイコンも目立つ。祭壇の前には、聖イオアンの肘の骨が入った小箱が安置されている。修道院内にある博物館の収蔵物の中で異彩を放つのは「ラファエルの十字架」である。これは、18世紀の修道士ラファエルが縦81cm、横43cmの十字架に針で104の聖書の場面を描いたもの。絵の詳細は肉眼ではほとんど見ることができないほど細かく、完成までに12年かかったと言われている。

参考文献