カラクム砂漠のメルフ・オアシスは、シルクロード最大にして最古のオアシス都市であり、ペルシャから中央アジアに至る東西交通の要衝として発展した。遺構は非常に保存状態が良く、青銅器時代初期(B.C.2500~1200年)以来、中央アジア及びペルシャ文明4000年の歴史を現在に伝えている。
メルフは「さまよえる町」と呼ばれる。一般に、1つの都市が滅びた場合、新たな都市はその上に建てられることが多いが、メルフの場合、うち捨てられた都市に隣接する場所に新しい町が建造され、それが滅び、さらに隣接する場所に・・・・と、都市が横方向に移動していった。結果として、5つの時代の都市の遺構がすべて保存され、イスラーム、ゾロアスター教、キリスト教(ネストリウス派)、ユダヤ教、仏教など、それぞれの都市が有した宗教遺産がそのまま保存される希有な都市となった。
メルフに現存する最古の建造物はアケメネス朝ペルシャ(B.C.6~4世紀)時代の城であるエルク=カラ。30mの高さの城壁が残る。次いでセレウコス朝シリア(B.C.4~3世紀)時代にはグヤウル=カラが作られた。城内には仏塔や僧院跡などが残っており、これは世界最西端の仏教遺跡である。土偶、骨壺、彩画陶器などの美術的遺物なども多数出土しており、仏教のほか、ゾロアスター教やキリスト教の信仰も盛んであった様子がうかがえる。
A.D.6世紀にササン朝ペルシャによって大キズ=カラ、小キズ=カラが建設された頃からイスラームが支配的となった。「キズ=カラ」とは「乙女の城」という意味で、『千夜一夜物語』でシェヘラザードが王に夜な夜な物語を聞かせたのはメルフであったという伝承もある。セルジュク=トルコの首都となった12世紀頃には、スルタン=カラが建造され、メルヴは100万の人口を擁する最盛期を迎えた。「高貴なるメルフ」とも呼ばれ、イスラーム文化が花開いた。メルフの天文台に勤務していたオマル・ハイヤームが『ルバイヤート』を著したのもこの時期である(注:ただし、天文学者のオマル・ハイヤームと『ルバイヤート』を記したオマル・ハイヤームは別人であるとの学説もある)。また、複数あった数万冊規模の図書館は、世界中のイスラーム文化人の関心を集めた。
1221年のチンギス=ハーンの侵攻により、12世紀に最盛期を築いたスルタン・サンジャルの廟など一部の例外を除き、メルフは徹底的に破壊され、再興されることはなかった。