平泉 ‐仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-
芭蕉の有名な句「夏草や つわものどもが 夢の跡」では、平泉を中心とした奥州藤原氏のかつての栄華が偲ばれている。平安末期、平泉(現在は岩手県平泉町)は藤原氏のもとで平安京に次ぐともいわれるほどの都市へと成長し、そして藤原氏の滅亡とともにその勢力を失っていった。
初代清衡以降四代にわたってこの地を治めた奥州藤原氏は、仏教、とくに浄土教信仰に基づいて街づくりを行ったとされている。中尊寺や毛越寺(もうつうじ)といった大規模な寺院は、当時の藤原氏の勢力や浄土への信仰をうかがわせるものである。
中尊寺は850年の円仁の開創とされ、その後清衡によって諸堂が建立された。天台宗の東北大本山である。藤原氏の時代には、堂塔40、僧坊300とも伝えられ、それらは黄金をまとっていたとされる。1337年の火事で多くが焼失し、現在残っているのは金色堂と経蔵のみである。金色堂はその名の通り金に輝く御堂であり、藤原氏の墓堂でもある。堂内には清衡、二代基衡、三代秀衡のミイラ化した遺体と四代泰衡の首級が納められている。
毛越寺は、中尊寺と同じく円仁の開基とされるが、基衡によって再興され、秀衡によって完成された。規模としては中尊寺よりも大きなものであった。火災や戦乱によって建造物の大部分が失われたが、建物跡と現存する浄土式庭園の姿が当時の浄土信仰をいまに伝える。
2011年に決定した世界遺産への登録の際にも、こうした建造物や庭園が浄土思想に基づくものであるという宗教文化的価値が高く評価された。世界遺産にはそのほかにも観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山が登録されている。