「百舌鳥・古市古墳群」は百舌鳥古墳群(大阪府堺市)と古市古墳群(羽曳野市・藤井寺市)の2つからなる文化遺産であり、大阪府内で初めて登録された世界遺産である。
古墳とは、3世紀後半から7世紀後半にかけて築造された墳丘上の墓を指し、東北南部から九州南部にかけて、20万基以上が造られた。なかでもこの遺産は、古墳時代の最盛期にあたる4世紀後半から5世紀後半にかけて、当時の政治・文化 の中心地のひとつであり、大陸に向かう航路の発着点であった大阪湾に接する平野に築造されたものである。墳長500m近くに達する前方後円墳から、わずか20mほどの墳墓にいたるまで、大小様々な規模と形状の古墳で構成されている。
構成資産としては、現存する89基のうち、形がよく残っている、百舌鳥エリアに位置する23基、古市エリアに位置する26基の計49基が登録されている。百舌鳥古墳群には日本列島最大規模の「仁徳天皇陵古墳」、第三位の規模である「履中天皇陵古墳」、古市古墳群には第二位の規模である「応神天皇陵古墳」が含まれている。
墳墓の規模や副葬品の多さは、被葬者の影響力や社会階層を物語っており、とりわけ規模の大きな百舌鳥・古市古墳群の墳墓は、古代日本の埋葬の伝統と社会・政治的な構造を表す、他に類を見ない建造物群として評価されている。
【古墳時代】
秦の始皇帝陵やクフ王のピラミッドに代表されるように、世界各地の古代国家形成の過程において、墳墓が社会の統合や国家の維持に重要な役割を果たし、当時の文化や社会・政治的な構造を表している例は世界に広く存在する。日本列島においても、各地の首長たちの共通の墓制として、独創的かつ多数の古墳が造られた。考古学上では、3世紀後半から7世紀後半までを古墳時代と呼び、前期(3世紀後半~4世紀後半)・中期(4世紀末~5世紀後半)・後期(5世紀末~7世紀)に区分される。
前期から後期を通じて大規模な古墳はいずれも、上空からは鍵穴のように見える形状をした前方後円墳である。日本独自かつ代表的墳形と考えられている。また、埋葬施設の構造や副葬品、埴輪などの質と量も墳丘規模に比例しており、古墳の規模や形状、副葬品の多寡によって、埋葬された人物の社会的地位や、権力構造をうかがうことができる。
【古墳の形状】
大規模な古墳はいずれも2~3段程度の段築構造になっており、各段の上部に平坦面(テラス)を持ち、各段の斜面には葺石が施されるのが一般的である。墳丘の周りには1~2重の濠をめぐらしたものが多く、そのうち水をたたえた濠をめぐらす古墳は近畿地方の大型古墳に多い。
各段上のテラスや墳丘の頂部、濠の外堤の上には円筒埴輪がめぐらされ、また墳頂部には家形埴輪や盾・靫(ゆき・背中に負う矢筒)・蓋(きぬがさ・貴人にさしかける笠)などの器財埴輪が円筒埴輪とともに並べられる。中期の後半以降はこれに人物埴輪や動物埴輪が加わる。器財埴輪は家形埴輪を取り巻くように並べられるところから、有力者・貴人に対する供膳儀礼を表すものと考えられている。
また、長い割竹形木棺を竪穴式石室に納めた埋葬施設や、三角縁神獣鏡(周縁の断面形が三角形を呈し、中国の神話に登場する神仙や霊獣を浮き彫りにした文様をもつ鏡)をはじめとする多数の銅鏡など呪術的色彩の強い副葬品もみられ、各地の首長たちが司祭者的な性格を持っていたこともうかがえる。
【代表的な構成資産】
<百舌鳥古墳群>
・仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)
日本列島最大の古墳であり、秦の始皇帝陵、クフ王のピラミッドとともに世界三大墳墓とも称される。3段からなる全長486mの墳丘、3重の濠、10基以上の陪塚からなる前方後円墳であり、1周は2.7km、陪塚までを含めるとその墓域は80haに及ぶ。その築造には、最大1日あたり2000人、延べ約680万人の人員と、約16年の歳月が必要であったと考えられている。
江戸時代の史料によると、後円部には大型の石棺があると記録されており、明治時代には前方部で竪穴式石室が発見され、石室の中に長持形石棺や金銅装の甲冑をはじめとする副葬品が納められていたことが確認された。出土品や文献をもとにした推測によれば、築造されたのは5世紀とされ、詳細は定かでないが、第16代仁徳天皇の陵墓とされている。
・履中天皇陵古墳
日本で3番目の規模である、全長365mの前方後円墳である。5世紀前半の築造とされ、第17代履中天皇の陵墓とされている。後円部の高さは27.6mであり、築造時は2重の周濠をもつ古墳であった。墳丘からは円筒埴輪、形象埴輪が見つかっており、そのうち、靫形埴輪は高さ1.4mという大型のものである。
<古市古墳群>
・応神天皇陵古墳
古市古墳群の中心的存在である応神天皇陵古墳は、大仙陵古墳に次ぐ第2位の規模を誇る、全長425mの前方後円墳である。墳丘の周囲に2重の濠と堤をもち、143万㎥という墳丘の体積は国内第1位である。築造時期は5世紀前半とされ、第15代応神天皇の陵墓とされている。墳丘や濠からは円筒埴輪や形象埴輪がみつかっており、古墳には1万8千本以上の円筒埴輪が並べられていたと推定される。
【参考資料】
大阪府公式ホームページ「百舌鳥・古市古墳群 仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳群」2019年5月22日アクセス
(http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/bunkazai/sekaiisan.html)
百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議ホームページ「百舌鳥・古市古墳群とは」2019年5月22日アクセス