マルボルクのドイツ騎士団の城

ポーランド北部の都市、マルボルクにある城塞。ドイツ騎士修道会によって1280年頃建設され、14世紀後半に改築された。

ドイツ騎士修道会(ドイツ騎士団)は、テンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団と並んで、中世ヨーロッパの歴史を動かしたローマ・カトリックの騎士修道会である。騎士修道会とは、「修道士」と「騎士」という一見矛盾する2つの性格が十字軍の聖戦理念のもとに結び付けられた特異な修道会を指す。その理念とは、「肉体上の敵と戦う」戦士の役割と、清貧・貞潔・従順の誓願を守り「精神上の敵とも戦う」修道士の務めとを同時に遂行する「キリストの戦士」を創出しようとするものである。

ドイツ騎士修道会は、第三回十字軍(1189-1192)の際にイスラエル北部のアッコに設けられた野戦病院「エルサレム聖母マリア・ドイツ病院兄弟団」を前身とする。1198年に騎士修道会に昇格したのちは、ヨーロッパ北部において異教徒の改宗や軍事事業に携わり、ドイツ騎士団国という国家を形成するに至る。このように長期にわたって活躍していたドイツ騎士団であるが、1525年に当時の総長がルター派に改宗し、騎士団領を世俗公国プロイセンとしたことによってその歴史に幕が閉じられることとなる。

騎士修道会という特徴的な形態は、マルボルク城の建築にも反映されている。マルボルク城は、城塞に修道院施設を組み込むという形態をとっているのである。城の一階は防衛のために閉鎖的な構造をしており、堀がめぐらされている。そして、二階には礼拝堂や修道院施設が配されている。通常、礼拝堂などの施設は修道院の一階に設けられるが、マルボルク城は対ポーランド戦線の防衛の要としての役割を果たすためにこうした構造となった。この巨大な城にはおよそ一万人を収容することができるという。 マルボルク城の構造とドイツ騎士修道会の歴史には、世俗的権力と宗教勢力が拮抗する中世ヨーロッパの政治的・宗教的景観が反映されているといえよう。

参考文献リスト

マルボルクのドイツ騎士修道会の城

マルボルクのドイツ騎士修道会の城

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