あかりの歴史をまとめていると,京都府の2つの八幡宮の話が出てきます。大山崎町の離宮八幡宮が室町時代エゴマの専売権を持っていたことを本文で述べました。実際には,同八幡宮の神人(じにん)(下級の神職)が販売権をもっていたそうです。エゴマはシソ科の植物で,今でもJR山崎駅前にある離宮八幡宮の社務所では,エゴマおよびエゴマ油を販売しています。社務所の前には,エゴマが植えられています。山崎というのは,後に秀吉が明智光秀を破った「山崎の合戦」の地としても有名です。エゴマは当初主に寺社の灯明用に使われたようです。
離宮八幡宮の御由緒書には,
「平安時代(794~)の始め,清和天皇が太陽が我が身に宿る夢を見,神のお告げをお聞きになりました。そのお告げとは国家鎮護(ちんご)のため,九州は宇佐八幡宮より八幡神を京へ御遷座(せんざ)せよというものでした。そこで清和天皇は僧の行教にそれを命じます。天皇の命を受け,八幡神を奉じて帰京した行教が山崎の津(当時淀川の航海のために設けられていた港)で夜の山(神降山)に霊光をみました。不思議に思いその地を少し掘ってみると岩間に清水が湧き出したのでここにご神体を鎮座し,社を創建することにしました。貞観元年(859)国家安康,国民平安を目的とする『石清水八幡宮』が建立されました。ここは嵯峨天皇の離宮である「河(か)陽(や)宮」の跡地であったため,後に社号が「離宮八幡宮」と改称されました」
とあります。この地は,京都の裏(うら)鬼門(きもん)の方角に当たります(裏鬼門とは南西の方角で,陰陽道で北東の方向である「鬼門」と同様,不安定で鬼が出入りする方向とされました。ちなみに,京都の鬼門には,比叡山延暦寺があります。東京では,皇居[江戸時代は江戸城]の鬼門には,東叡山寛永寺が,裏鬼門には増上寺があり,それぞれ徳川将軍の墓が一代おきにあります。実際には,増上寺,寛永寺は江戸が責められた時の砦の役割もあり,防衛上として現実的な意味もありました)。陰陽道での裏鬼門というだけではなく,桂川,宇治川,木津川の合流点にあって,京都を守る要衝でもあったのです。さて,当初「岩清水八幡宮」と称していたということですが,歴史の中で知られている「岩清水八幡宮」は上記の3つの河を隔てて対岸の男山(おとこやま)の上にあります。「岩清水八幡宮」の御由緒書きを見ると,
「平安時代始め,清和天皇の貞観元(859)年,南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ,八幡大神様の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣(ごたくせん)を蒙(こうむ)り,同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたのが当宮の起源です。そして朝廷は翌貞観2(860)年,同所に八幡造(はちまんづくり)の社殿(六宇(ろくう)の宝殿(ほうでん))を造営し,4月3日に御遷座されました」
とあります。離宮八幡宮も昔岩清水八幡宮と称していたことと,同じ行教が同じ時期に宇佐八幡宮から勧請したというのは,共通しているものです。離宮八幡宮に仮宮を作って,後に遷座したとか,離宮八幡宮があとから出来たなど諸説があるようです。何か,これをネタに小説でも書いてみたいと思いますが,生憎文才がないので,叶わぬ夢として楽しんでおこうかと思います。むしろ,2つの八幡宮が京都の交通の要衝を両脇で抑えているのは,門の両脇の守りを固めているようにも思えてきます。私が小説を書くとしたら,最初からどちらも京都鎮護という意味で同時に作られたとしてみたいと思っています。
さて,有名なエジソンの白熱電球は,男山の竹を使ったものです。現在は,世界中の6千種類以上の植物を試して,男山の竹にたどり着いたそうです。エジソンを記念して立派な記念碑が境内にたてられています(当初は昭和9(1934)年に境内の隣接地に建てられ,昭和59(1984)年に境内に建て替えられたそうです)。毎年誕生日の2月11日にはエジソン生誕祭が,命日の10月18日にはエジソン碑前祭が行われています。
なお,離宮八幡宮の御由緒書きでは,「岩間に清水が湧き出ていたので岩清水八幡宮と称した」とありますが,同地は水がきれいなところです。後に,朝ドラ「マッサン」(2014[H26]年度後半)のモデルとなった竹鶴政孝が山崎の地でウィスキーを始めたのもうなずけます。もっとも,サントリーの山崎蒸溜所は京都府乙訓郡大山崎町ではなく,大阪府三島郡島本町山崎にあります。
関連動画: 「 火を使ったあかりから白熱電球まで」(9分13秒)
関連サイト: 「第6回 あかりと熱源の歴史とエネルギー」