私は「科学的思考」など「科学的」という言葉を聞くと違和感を覚えてしまいます。「科学的」という言葉を使うときに何故かいかがわしさを感じてしまうのです。何か「『科学的』方法を使っているので間違いない。文句あっか!!」と言われているように感じてしまうのです。文部科学省のホームページを見ていたら,OECDの学習到達度調査PISA(Programme for International Student Assessment)の説明の中で『科学的リテラシーとは,「自然界及び人間の活動によって起こる自然界の変化について理解し,意思決定するために,科学的知識を使用し,課題を明確にし,証拠に基づく結論を導き出す能力」である』と書いてありました。確かに言われてみるとその通りのようにも思えます。でも,実際に学校教育の中で身に付けるとしたらどうでしょうか。長い間時間をかけて,試行錯誤しながら身につけていくことのように思います。もちろん,小中高等学校でできないというわけではないと思います。でも,そのような力を身に付けるとしたら,児童生徒が「主体的」に自分で身につけていくという意思をもたないと育たないような気がするのですが,いかがでしょうか。もっと,簡単な言葉でいうことはできないのでしょうか。難しいことを言う前に,「科学的リテラシー」をもっと簡単な言葉で言えないでしょうか。例えば,
「考えることはとても楽しいことだよ。私たちの身の回りにあることについて,考えてみるんだ。考えてみて,間違えることもある。間違ってもいいから,考えてみる。それで,考えたことがあっているかどうか,とにかく試してみよう。その手段の一つとして実験があるんだ。でも,まだだれも知らないこともいっぱいあるんだよ。その時は,正しいかどうか,わからない。だから,みんなが納得できるいろいろな方法で正しいかどう確かめなければならないんだ。一人で確かめられなければ,いろいろな人の力を借りよう。そのために,どんな結果が出たかみんなに知らせるんだ。それが本当に正しいかどうか,だれかが確かめる。それが,科学の方法なんだ。間違ったことをいうことあるだろう。でも,いろいろな人が確かめていく中で,それが正しいということがわかってきたことも多いんだよ。君も,その中の一人になるかもしれない。知らないことを知ることはとてもワクワクするよ! 誰も説明できなかったことを人に説明することもとてもワクワクするんだ。
まずは学校の勉強で練習してみよう。先生の説明を聞く前に「先生は何と言うのだろうか?」「どのような説明をするのだろうか?」「実験の結果はどうなるんだろうか?」など何でも予想してみよう。クイズの答えを考えるように遊びのつもりで予想するといいよ。でも,全くあてずっぽうではなくて,何か知ってることを使って考えることが大事だよ。予想していたことがあっているどうか。そうしたら,君が予想する力があるかどうかわかるよね。全く正解でなくても気にすることはないよ。当たっていなかったらなぜ当たっていなかったかを考えてみよう。全部当たらなくても,部分的にあたっていることもあるだろう。そのような予想する力をつけるのも学校の勉強でとても大事何だよ。但し,苦しんでやるんじゃなくて,楽しんでやること。これが大事なんだ」
といった言い方をすると私にとって,しっくりきます。こんなことをいうのは,私が物分かりが悪いからかもしれません。だから,小学生の時から,習ったことを自分の言葉に言い直さないと理解できなかったのでしょう。
先にも述べたように「科学的」という言葉を聞くと,時々胡散臭い言葉に感じていまうことがあるのはなぜでしょうか。水戸黄門の印籠をかざした助さん角さんみたいに,「『科学的』に調べているから,もんくあるのか!!だまれ!!控えおろう!!」といっているように感じることもあります。自然科学の手法は条件付きでなりたつこともあります。時には,適用限界や適用条件を超えて適用してしまうこともあります。人をだますために知っていて使うの場合はいいのですが(いい理由(わけ)ないか!!??),時として,自分が騙されてしまうことがあります。学生時代,理論系の研究をしていました。その時,常に思っていたのは,「こんな単純化していんだろうか?」ということでした。実験も,面倒な条件はすべて除いて実験する。何か,現実と違っているという焦りというか,違和感というかなんとも言えない気持がありました。でも,理想化していることを認識しているからいいのだと思います。それを現実と合わせる時にどう考えるかが大切なのだと思います。
文部科学省関係のある資料を見ていたら「科学的思考力(=批判的思考力)」と書いてありました。私が大学1年生の時に,文系の先生が「大学教育の目的は批判的思考力をつけることだ」といっていました。当時,私はものすごい誤解をしていました。批判的思考力というのは,世の中のいろいろなものに対して,矛盾をついて批判をすることだと思ったのです。批判をして,矛盾点をいうけれども,建設的な意見をいわないと・・・と思っていました。しかし,50歳近くなってから,「批判的思考力」は“critical thinking”の訳語だということを初めて知りました。とても恥ずかしいことです。私の頭にあったcritical thinkingは,私なりに日本語に置き換えるならば「精査吟味思考」とでも言うべきイメージを持っていました。
もう一つ恥ずかしい話をします。自然科学(物理学)の構造について40歳で大学教師になってから初めて気づいたことがありました。物理の体系については,理屈では証明できない法則があって,それを受け入れてから,「適応範囲」があることはありますが)論理的に説明できるということです。ニュートン力学で言えばニュートンの運動の三法則に相当するものです。法則について「納得」するための実験や説明はありますが,論理的な証明はできません。法則は,様々な実験事実や時には,単純さや対称性などのある種の「美意識」にもとづいて提案され,それが様々な実証で矛盾が見つからなければ法則となるのです。論理的な思考といいますが,自然科学の方法と同様,論理的に説明できない「公理」があります。数学の公理のようなものです。これはいわば「約束」ですので,受け入れるしかありません。
ところが社会科学ですと,その公理に相当するものが本当に正しいのか,適用条件は満たしているのか,理想化した場合他の条件の影響はどうなのかわからない場合もあります。「理論」と称する様々な仮設が適用限界や大きく影響する因子に気づかないまま使わることもあるかと思います。このとき,形式は物理学のような形式上「科学的」手法を取っていますが,前提が本当に正しいかどうかわからない場合もあります。そのため,様々な学説などを自分で「精査吟味」して,判断する力が大切になってきます。そのため,「批判的思考力」が非常に大切になってくるのではないかと思います。
「理科離れ」という言葉が言われていますし,その対策ということで様々な活動や助成金がでています。その反面,「社会科離れ」という言葉は余り世間では聞きません。本当にそんなことはがないかと調べてみました(文献検索やウェブ検索すると結構ヒットします)。社会科離れは小学校3年生からはじまることが指摘されていました(小形浩子:青森県総合学校教育センター 研究紀要[2008.3]G2-02 (2008).)とてもショッキングなことです。「社会科離れ」というよりも,最初からかみ合っていないといった方がよいのではないでしょうか。なぜならば,社会科や理科は小学校3年生から習い始めるからです。
中等教育では,社会で生きていくために必要な「公民」分野は特に人気がありません(次の指導要領では,「公共」という科目が導入されると聞きました。どうなるか楽しみです)。大学入試センター試験で,公民の試験が単独で行われていた時には,試験監督にあたると受験生の数が少ないのに愕然とした思いを持ちました。そもそも,社会科を教える先生自体にとっても,公民分野は苦手な人が多いのです。なぜでしょうか。公民分野を不偏不党で教えようとすると,事実の羅列になってしまい,無味乾燥なものになってしまうからかもしれません。面白い授業を考えると,特定の「イデオロギー」に基づいた話に偏ってしまいかねません。大学の授業ならば,それで良いのでしょうが,中等教育での授業ではそのように行かないでしょう。そもそも「特的のイデオロギー」とは何でしょうか。つまる所は,ある仮説を公理としたものだと思います。それが一般性あるものかどうかは別ですが,構造上は,物理の法則に相当するものを前提として成り立っているのです。でも,対象が複雑なため,ある社会現象は説明できても,本当にそれが一般性があるかどうかはわかりません。また,社会情勢,国際情勢が変わってもそれが成り立つかどうかわかりません。自然科学の手法を真似て,その「前提にしたがって,データにもとづいて検証」しても,検証データは過去のものに過ぎません。科学の手法を真似して,一見「科学的」に研究しているようですが,前提が普遍的なものかどうか実は分からないことが多いのです。そこで,自分の立場をはっきりさせて,自分の考えと,人の考えを比較する上で重要になってくるのが「批判的思考力」なのだと思います。それなしに,社会科学系のことを学ぶと,一つのイデオロギーの「信者」になるか,あるいは見かけ上矛盾する学説の間で,混乱してしまうかのいずれかになってしまうのかもしれません。そこが,社会科が面白くない一つの原因なのだと思います。それに対して,どうすればよいか?正解はないことを認めた上で,徹底的に自分で調べ,考えることをする科目にすることがよいと思います。調べて,いろいろ意見を言いながら,考えることを楽しむことが社会科を面白くすることにつながるのではないかと思います。その中で,重要なのは様々な意見の人が何を拠り所にしているのか?何を公理(絶対前提)にしているのかを把握する力を身につけることではないでしょうか。その力こそcritical thinking(批判的思考力)のひとつの重要な要素ではないかと私なりに思っています。もちろん,高校段階では多くの生徒は充分には身につかないでしょう。でも,そのようなことの大切さを知ることが大切だと思います。その大切さを知った上で,少しずつでよいから「生涯考え続け,人生の中で身につけていく」ことが大切ではないかと思います。