4.1. 学びには様々なタイプがあるということ
学生に過去の振り返りや考え方,まなび方を記述してもらうと,様々なタイプの人がいることがわかります。その人の認識,思考タイプにあった学び方の必要性を痛感します。「能動的な学習が大切だ,いや知識が大切だ」という議論を様々なところで耳にします。しかし,噛みあわない議論が多いようです。それは,それぞれ違う学習タイプを経験した人が自分の体験をもとに議論しているからではないでしょうか。
中等教育の時の学習では,単純記憶を要求することが多いようです。しかし,私のように単純記憶が苦手な人にとっては,とても苦痛です。色々考えたり,作業したりしながら,これまで知っていることとつなげていかないと記憶ができないからです。その一方で,知識が増えていくとつなげることのできる知識が多くなりますので,記憶がしやすくなることを感じます。
4.2. 私の学びに対するイメージ
私がもともと持っていた「学びのイメージ」は,「綿菓子」をつくるようなものです。綿菓子は,最初は割り箸に絡みにくいのですが,ある程度絡んでくると,新しい砂糖の「繊維」が簡単に絡むようになります。綿菓子と,学習で違うのは,綿菓子は表面にしか絡まないのに対して知識は表面だけではなく,内部にも絡むのです。このイメージを「多次元綿菓子モデル」とも自分なりによんでいます。学習とともに,脳ではニューラルネットワークが発達していくことを考えると,このモデルはある意味で妥当なモデルではないかと思っています。しかし,大学教師になった時に,どうも多くの学生の学び方はこの学びのイメージが違うことに気づきました。どうも,綿菓子をつくるのではなく,知識をもった紙を積み重ねるように学ぶ人が多いように感じました。そのギャップに一時かなり混乱し,悩みました。
この綿菓子モデルとともに,私自身は算数・数学・物理などでは「慣れずに学ぶ」ことが大切であると考えていました。慣れてしまうと,考えずに問題を解いてしまいがちです。私は算数・数学は考える力をつけるための科目だと思っていたからです。このことを話すと,わかってはもらえるのですが,このようなことを考えたこともないという人がほとんどでした。
私のようなタイプの人にとって,考えるということは知識を得る手段でもあるのです。逆に単純記憶ができる人は,ある程度知識を集めてから考える方が向いているのかも知れません。私自身体験していないので,本当のところはわかりません。逆に言うと,記憶だけで試験の点数がとれてしまうので,考える訓練がしにくくなるということもあるかもしれません。
そのような違いがあるために,「能動的な学習が大切だ,いや知識が大切だ」という議論が咬み合わないのではないでしょうか。
4.3. 伝統的な学び方,教え方は一般的か ― 得て不得手と頭脳処理のタイプの問題
とにかく,学校の先生や親御さんたちには学び方に得手不得手というものがあるのだということもっと意識してほしいなあと思っています。体力がない人や運動能力が劣る生徒に対して最初から他の人と同じようにさせようとする先生はいないでしょう。音痴だからといって,ふざけて歌を歌っているといって叱る先生はいないでしょう。でも,学び方については別なような気がします。人と同じやり方が無理なのに,同じやり方でできないのは本人の努力が足りないのだと思ってしまう。そのような人が多いのではないでしようか。
その教科の伝統的な学び方で「生き残った人」がカリキュラムをつくり,教科書をつくり,教えているのではないでしょうか。しかし,多くの人にとって,それらの方法があっているかというと必ずしもそうではありません。自分にあわない学習法を強要されるために躓いてしまった経験をもつ学生をたくさん見てきました。
例えば,私は大学では物理学科に入学しました。物理は好だからという理由が大きいのですが,進路適性検査であまりにも物理だけに適性があるという結果で出たこと,父に強く勧められたのがきっかけでした。父は,工学部を出ているにもかかわらず工学系への進学を反対しました。これは,私の理解タイプを考えてのものと想像しています。大学入学直前に亡くなったので真意を聞く機会はありませんでしたが,大学の教員になってからそ理由がわかったような気がします。
現在の教育方法では,物理の学習から考える面白さを除いたら何が残るのだろうと思います。したがって,考えることが苦手な人にとっては,苦痛そのものかもしれません。その一方,高校で物理を学ぶ際に解き方や公式を覚えろと言われたら,考えるのが好きな人で物理に向いている人は物理が嫌いになってしまうでしょう。学生に学科選択の理由を書かせると,毎年,先生が変わったり,塾や予備校で考える楽しみを教わったりしてから急に物理が好きになって,できるようになったと書く学生が毎年います。高校までの教育では,物理教育についてはもっと別のアプローチがあるのではないかと思っいいます。
私が大学受験の時に,旺文社の大学受験ラジオ講座というのをやっていました。数学の講座を聞いたら,一部の人を除いて数学というのは,解き方のパターンを覚えるものだということを言っていました。その時まで,解き方のパターンを覚えるなんて聞いたことも,考えたことがなかったので,ビックリするとともに,30分もそれを言っていたことにうんざりしてしまいました。その後,二度とラジオ講座を聞きくことはありませんでした。私にとって,自分の頭で考えれば楽だし楽しいのに何でそんな面倒で大変なことをしなければいけないのかという思いしかありませんでした。小学生の時から,研究者を夢見ていたので,考える力をつけることが何よりも大切だと考えていました。だから,知識をつけるよりも自分で考えることがなによりも大切だと思っていたのです。知識は結果として身につくもので,授業を聞く時も自分で結果を予想しながら考えて,自分が予想したことがあっていたかどうかを確かめながら学ぶことが学びだと信じこんでいたのです。そうしないと,社会に出てから学んだことが役に立たないのではないかと思っていたのです。実際,妥当な結果を予想しながら学ぶという習慣は社会に出てからとても役にたちました。
小学校の算数の文章題はものすごく優れた,思考練習だと思います。小学校から大学院まであれほど,直感力や思考力を要求される問題を出された記憶がないくらい,思考力を要求され(るものと感じてい)ました。事実,大人向けにも,思考力鍛錬を目的として,私立中学校受験問題などを解く本が出版されています(例えば 佐藤 恒雄「大人のための算数練習帳―論理思考を育てる文章題の傑作選」 (ブルーバックス) 講談社 (2004))。
算数の文章題を解いたといっても,それは学校の授業の中だけです。小学校の時には机に向かう習慣はつきませんでした。宿題すらやったことのない児童でした。ただ,中学受験の参考書を買わされて,学校で時々問題を解いただけでした。家では,宿題もやらずに中学校に進学したのです。もちろん,塾に行ったことや家庭教師をつけてもらったという経験はありません。
私の進学した中学校では,予習が中心で,あまり教えてくれませんでした。数学は,新しい単元に入ると5分くらいの解説をしたのち,ただちにその単元に相当する問題集の問題の答案をあてられた生徒が黒板に書き,先生はその解説をするだけでした。机に向かう習慣がなかった私は当然のようについていけませんでした。中高一貫校でしたので,なんとか高校に進学できましたが,中学校の時には数学で何度も0点をとりました。英語は高校2年で受験勉強を始めたときには,中1の教科書から復習はじめたのですが,中2に教科書になると辞書を引きまくらないと読めない状態からはじめました。
そんな中ですが,中学校で幾何の分野だけは,勉強しなくてもある程度できました。中1から数学は代数と幾何と別の科目として並行して授業をしていたのです。代数分野では0点をとるのに,幾何では,急に問題を出されて誰かできる人はいないかというと,一人だけ手を上げて黒板に出て回答したことも何度かありました。私の感覚では,代数と幾何は全く使う頭の部分が全く違うのです。論理あるいは文章的な考え方とイメージで考えることに対して,頭の中にいる全く別人が考えているという感覚を持ちました。今でも,考える時にはイメージで考える部分と論理あるいは言語で考える部分が別で,理解するというのは,「頭の中で両者が対話する」とか,「情報をキャッチボールする」とか,両者が理解できる言葉とイメージを翻訳していく」という感じで理解していくのです。キャッチボールがうまく行くときには頭のはたらきが良いと感じるのに,うまくいかない時には頭のはたらきがものすごく悪いように感じるのです。特に疲れている時は頭の働くがものすごく悪くなったと感じ,人の言葉も理解できなくなることがあります。
先にも述べましたように,私自身小学生の頃から,考えるということはとても大切なものと思っていました。その結果,何でも考えないといけないという極端な考えを持っていました。実際,かなりのことは自分で考えてわかることができました。しかし,考えてもわからないことがありました。その時,自分の能力(思考力)が足りないからわからないのだと思っていました。
大学に入って,教養の授業で論理学をとりました。相変わらず授業を聞いても理解できませんでした。ただ,一つだけ大切なことがわかりました。論理には数学の公理のように,誰も証明できない前提が必要だということです。なぜか,それだけが記憶に残っていました。それから20年あまり後に,大学で授業をするようになりました。大学の授業では,法則,定義に基づいて結果を出すことを学生に要求していました。別の項(コラム29)でも述べますが,法則というのは神様が(その表現が嫌ならば自然がそうなっているからといってもよい),定義というのは人間が決めた約束事なのです。これら,論理では証明できません。「なるほど」という合理的な理由や納得できる事例をあげることはできるのですが。法則と定義から結果を導くことは,実はそれまでも無意識にやっていたのです。それを自分で授業内容を構成する過程で全ての結果を法則と定義から導くように意識して行ったのです。
テストをやってみて,学生の学び方,考え方との違いに驚きました。かなりの割合の学生が解き方を覚えようとしていました。中には,前年出した問題の答案をそのまま書く学生もいました。そのくせ,法則や定義を書かせると書けない人が多いのです。解き方など覚えるのは大変だと思うのに覚えられる。「そんな難しいこと(もちろん私にとって)ができるならば考えればいいのに。考えないのは,子どもの時の怠け方が足りなかったからではないか?」とその時は真面目に思ったのです。どうしてそう思ったかというと,小学生から高校2年生の秋まではほとんどといっていいほど,家で机に向かうことができませんでした。勉強することができないのは,自分は意志が弱く,怠け者だと思っていたからです。小学校の低学年の時に母に「意志が弱いんだから」と言われた言葉が頭に残り,「自分は意志が悪いどうしようないダメな人間だ」と思い込んでいたのです。意志が弱い人間だから,どうやったら苦しさから紛れるように自分の気持ちをコントロールしようと思っていたのです。自分の気持ちをコントロールするということは,その当時は卑怯で,現実逃避のとてもいけない行為だと思っていたのです。家では机に向ませんでしたし,その結果当然宿題もやりませんでした。しかし,授業ではある程度先生の説明の前に予想して,どのようなものかを考えるようにしていました。学校のテストでも,それである程度正解が予想できたのです。そのようなことができるようになったのは,自分が怠け者だったからだと思い込んでいたのです。
同時に,覚えることは苦しくて,考えることが楽しいという気持ちが強かったのです。だから,学生には教科書を読む時,計算用紙を用意して計算しながら読めばよいと言っていました。さらに,手を動かせば自然に考えだすものと思い,毎回のようにレポートを出して,添削をするとともに解答例を付して返していました。でも,レポートやテストの答案は,数式を並べただけのもので,読む方としてはものすごくしんどい思いをしました。ごく最近(平成29年)になって気づいたのですが,私の言葉での「怠ける」ということは,学ぶ前から答えを予想して,テストで少なくとも平均点程度取れるようにすることです。たしから,机に向かって学んでいませんでしたし,テスト前に勉強するという習慣はありませんでしたが(これは受験勉強の時期になっても,大学生になっても習慣づきませんでしたが),ある意味で日頃からある程度合理的な理由をもとに予想する訓練をしていたのです。見方によっては,他人と違う方法でものすごく学習していたことになるかもしれません。
どうも,物理というのは問題を解くことだと思っている人が多かったようです。法則,定義にもとづいて,論理の飛びなく説明できることを「理解する」ことだと思っていた私にとっては,なぜ答案が説明文になっていないのかがわかりませんでした。そこで,最初の授業でレポートの書き方や書く目的を書いた説明文を配布するとともに,板書するのがきつくても,答案をどのように書いていくか,板書で言葉を省略せずに書くようにしました。その結果,だんだん答案も読みやすくなるとともに,期末試験の変容記述で,論理の飛びなく書くようになって初めて理解するということを実感したと書く学生が増えました。しかし,一部の学生ですが,論理の飛びなく考えるのがとても苦手な人がいることは確かです。そのような人に対する対処法についてはまだ見つけていません。
4.4. 考えることが好きな人が陥る罠
学校教育の中で考えるのが好きな人が陥る罠があります。そのような論理で証明できないことがあることを最初から教えてくれればよいのです。私は中学校に入った時に,代数で結合法則,分配法則などが覚えられませんでした。数学で覚えるという発想すらなかったのです。そのため,それらを覚えることに拒絶反応をもって,挙げ句の果てに数学の期末テストで0点を取ってしまいました(本当の理由は予習も復習もせず試験前の勉強もしなかったためかもしれません)。同様なことは,小学校で教わる分数にもいえます。それは約束事だと教えるのです。その上で,そのような計算をすると便利な例を上げるのです。例を上げて教育する方法もありますが,それはあくまでも納得するための説明です。論理的な説明ではないのです。その点をもっと早く教えて欲しかったと思います。
物理が嫌いな人は次の話はいやになるかもしれません。大学で教えるようになって初めて気づいたことがあります。力学の基本法則であるニュートンの三法則です。あまり力学の教科書にも書いてありませんが,順番に意義があるのです[1]。
4.5. 私の考える物理教育のあり方
さて,話は飛びますが物理が苦手な人が多くいるようです。多いというよりも,大多数の人が苦手なのかもしれません。中には大学で物理学科や応用物理学科を卒業しても物理が苦手だという人にもたくさん会いました。私は,物理が好きなので,化学をやりたかったのに物理学科に進学したくらいなので,物理は好き科目です。そこで,思うのですが,「学校で習う物理から,考える楽しみを除いたら何が残るのか?」という気持ちを持っています。これはもちろん,今の教科書の物理のことで,学校で学ぶべき物理現象のことではありません。物理を役立つ科目とするためには,もっと生活との関連と,定性的に理解できる内容を中心にしたらどうかと思っています。もっと,社会科的な要素や家庭科的な要素を入れて,興味を持たせるとともに,社会人としての仕事や家庭生活で物事を考える基礎をつけることを意識して授業ができないかと思っています。その説明法の一つを考える試みとして,この「教員免許状更新講習」のテキストを作ってみたのです。数式を一切使わず,生活との関連で物理現象を学んでいくのです。しかし,物事を判断する基礎はきちんとつける。そのような授業が必要ではないかと思います。
そのようなことをいうと,理工系に進学する人にとっては,数式を使った物理が必要だという意見が必ずでてくるものと思います。それに対しては,数学の微積分の応用として例えば力学の運動方程式を解く問題とか,ベクトルの応用として,力や電場,磁場などを教えたらよいと思います。物理だけではなく,経済学やコンピュータグラフィックなど実際に応用として使われているものの概要と考え方や数学の初歩を数学で教えたらよいのではないでしょうか。
数学教育の目標はいくつかあると思います。思考力の訓練,実用技術としての数学が主な目標になっているかと思います。しかし,実際には使わない人が多いかと思います。そこで,ある程度実際にどのように使われているかという「知識を与える」授業も一方では必要ではないかと思います。ほとんどの人が高校に進学する現状では,高校によっては柔軟に対応していると思いますが,もっと多様な人に向けた教育が必要ではないかと思います。それを補償する形で,必要になった時に学び直すシステムも手当する必要もあるでしょう。
4.6. 英語の学び方
人によって教え方が不適当だという点では,私の受けた英語教育もそのように感じています。私の受けた英語教育は,私にとって英語が嫌いになり,英語ができるようにならないためにものすご~~っくすばらしく良くデザインされたものだと感じています。英語を習い始めた時に幾つもの違和感を覚えました。まず,言葉としての学習の違和感です。英語を日本語という違う言語に無理やり移して学ぶという違和感です。言葉というものは,言葉を頭のなかで画像に翻訳して初めて認識できるのだというイメージが強かったのです。考えることも,記憶することも画像と切り離せないものと思っていました。不自然な日本語に置き換えると,そのイメージが崩れるのです。その英語の単語一つとっても,表現をとってもニュアンスと結びついているはずです。
その一方で,先に述べたように覚えるのが苦手という意識を持っていたことも英語の学習意欲をなくしました。小学校の先生から受けた苦手意識もありました。本当は考える力が強いので,もっと記憶する力を伸ばしたらと言われたのを自分はどうしようもなく記憶力が悪いので,考える力で補うしかないと思い込んでいたのです。さらに中学校に進学してからも,その先生に合えば覚えるのが苦手なので英語はできないだろうと言われたことも追い打ちをかけました。そのため自分は覚える力がどうしようもなく弱いものだと信じ込んだことも,化学系の学科に進学することを諦めて,物理学科に進学した大きな動機でした。化学系に進学しても受験には受かっても,進学してから授業についていけないと思ったからです。それは,その後の学び方,生き方を考えると間違った選択ではなかったと思います。
ところが,受験勉強で気づきはじめたのは,「覚えなければと思う気持ちが記憶を妨げている」ことでした。記憶が必要な場合は無理に覚えようとは思わずに,声を出しながら例文を書くなどのひたすら作業を繰り返すことと,自分なりの達成感をいかに感じさせるかというシステムづくりが大切だということに気づきました。
もう一つ英語学習を妨げていたのは,カタカナ英語に対する不快感です。中学校の1,2年の時はキレイなアメリカ英語を話す先生に教わっていたのもそれに拍車をかけたように思います。同級生や一部の英語の先生が話すカタカナ英語に違和感を覚えました。何で”the”を「ザ」と読むのか,何でリアゾン的な発音をしないのか,何で語尾に母音をつけるなど,違和感というかものすごい落ち着かなさを感じました。もちろん,日本人が正しい発音できないことは仕方がありません。そのことではなく,全く違う音であるにもかかわらず,英語の文章を不自然な日本語に置き換えるように発音を平気でカタカナで置き換えることに不自然を感じたのです。
30歳代から英語を使い出し,論文なども英語で書いています。そこで気づいたのは,英語ができるようになるためには,学校教育を受けるのに使ったのと全く別の頭の領域を使っていることです。結局,作業することによる慣れや,耳で聞いてその場で記憶(エビソード記憶)などが大切だということです。さらに,必要になったら単語を並べて,幼児に帰ったつもりが始めてなんとか意志の疎通を図ろうとする事も大切です。技術者の場合は,数式,図,場合によっては英語の単語を書くなど,あらゆるものを利用した意思疎通をはかることが大切であることに気づきました。そのうち,だんだん英語に慣れるとともに学校で習ったことを思い出してきました。
30代で,話すこと,書くことはある程度できるようになりましたが,聞くこと,読むことはなかなかできませんでした。もっとも,これは日本語で読むこと,聞くことが書くなどの発信能力よりも弱いこととも関係しているのかもしれません。英語の文章を読む時には,不完全な日本語にするよりも,図式化して解釈することが大切だと気づきました。ただし,これに気づいたのは大分遅く50歳前後のことです。英語は関係代名詞,入れ子構造など構造化し易いのです。それはそのまま日本語にならないので,文節を日本語にして,それを図式てきにつなぐなど表現して学べばよいものと思います。
4.7. 歴史の学び方
「私にとっての考える科目」としての歴史があります。歴史はある意味で人生を疑似体験する科目だと思っています。自分をその場にいたとして置き換えてみるのです。自分ならばどうするだろうと考えてみるのです。歴史に興味を持つようになったのは,小学校5年生の時に大河ドララマ「源義経」を見てからです。それがきっかけで,伝記や物語を読むようになりました。ちょうど6年生で歴史を習うようになりましたので,年表を意識しておおよその時代を頭にいれました。
歴史に興味をもってから,思わぬ副次効果が現れました。それまで苦手だった暗算が,2桁程度の足し算,引き算ならばできるようになったのです。実は死ぬのがこわくて,ある歴史上の人物がある出来事の後,何年生きられるかに興味があったからです。頭の中で筆算と同じ計算はできませんので,区切りが良い所で2つに分けて計算するのです。例えば,「1196引く1178」でしたら。1180でわけて,「1178から1180まで2」で,「1180から1196まで16」だから,「1196引く1178」は「2足す16は18」というように計算するのです。
大学受験は日本史で受けましたが,受験勉強は教科書を読まずに,気分転換に中1の時に買ってもらった読売新聞社の「日本の歴史」を読んでいました。もちろん,無理に覚えようとせずに,自分だったらどうするかとか,その時の情景を浮かべながら読んでいたのです。日本史に興味を持ったおかげで古文・漢文にも興味を持っていました。これには,受験勉強としては学校の勉強だけをあてました。これらの科目は実際理系の受験生としてはよくできましたし,理系に苦手な人が多いことも相まって苦手な英語をカバーすることができました。
歴史は「暗記科目」とよく言われます。学生は,よく高校時代は暗記していたと言いますが,私には「暗記」ということがよくわかりません。物理系の学科にいるせいか,暗記ということを否定的な文脈でいう人が多いのですが,学生ばかりか自分の子どもも平気で使っています。私自身は親や,先生に否定的な文脈で言われたことしかなく,とても戸惑ってしまいます。最近まで,暗記の「暗」をイメージがないという風にとっていました。イメージがない記憶というのが連想できないのです。無理にイメージしようとすると,拒絶反応とかイライラといったイメージが浮かんでしまいます。しかし,イメージがない記憶なってどう頑張ってもイメージできませんでした。もう一つは,「理解を記憶」で試験の成績を取る以外には,「全く役に立たない記憶」と思っていました。最近,学生がレポートに「様々なことを関聯連れて暗記できるようにしたい」と書いてあるのを見てやっと分かりました。私がいろいろなタイプを含めて「記憶」と言っているのをどうも暗記といっているようです。本当に同じ意味がわかりませんが,これまでのコラムでは「単純記憶」と書いていたのは,そのためです。
脚注
[1] ニュートンの第一法則はいわゆる慣性の法則です。物体に力が働かなければ物体は静止し続けるか,等速度運動をつづけるというものです。これは,全ての場合に当てはまるのではなく,そのような基準系(基準となる座標系)が存在し,その後の法則はこの基準系(慣性系)で記述しますということを行っています。第二法則は,運動を数学的に記述するものでいわゆる運動方程式 (質量)×(加速度)= (力)という式で表されるものです。この式は運動を慣性系で記述することを前提に,力と質量(慣性質量)を定義しているのです。但し,慣性質量は重力質量と等しいとして決めることができます。力はニュートンの第二法則で定義しているのです。ニュートンの第三法則は作用反作用の法則です。物体AからBに及ぼす力は,物体BからAに及ぼす力と大きさが等しく方向が同じで向きが逆だというものです。ニュートンの第三法則は力を定義して初めて成り立つのです。したがって,第一法則を前提にして,第二法則があり,第二法則を前提として第三法則があるのです。このようにニュートンの法則は順番に意味があるのです。
関連サイト: 「第3回 主体的・対話的で深い学びとは」
「第15回 持続可能な社会に向けて ~ 社会的視点で考える事 ~」
「その他テキスト」