「サイエンスコミュニケーション」について,調べていたら次のような記述が目につきました。(渡辺政隆『なぜサイエンスコミュニケーションなのか ―「想定外」を想定するために―』専門日本語研究 13,15-18(2011))
今回の大震災と原発事故において物議を醸した言辞の一つが「想定外」だった。
原子力工学関係者あるいは津波対策にあたっていた土木関係者,広く工学者にとっての「想定」とは,計画案と予算の範囲内で設定すべき仕様を意味する。したがって施主や発注者が指定しない仕様は,すべて「想定外」となりうる。
それに対して,施設の安全性に関してはあらゆる危険を想定した対策を施してあるはずだというのが,一般人の「常識」であろう。まして原子力発電所のように,いったん事故が起こったならばその影響が広範囲,長期に及ぶ施設となればなおさらである。
原子力関係者は,事故の起こる確率は低いと強調することで,万が一に事故が起きた場合の被害の深刻さを考慮しなかったと言われても弁解のしようがない。しかも,業界のジャーゴン(著者注: 仲間内だけで通用する言葉)である「想定外」を安易に口にした。それが「世間」の猛反発を引き起こすことは「想定外」だったのだ。
まさに,専門家と一般の人との言葉の定義の違いによる意思伝達の溝「コミュニケーションギャップ」によるものです。このようなことは,日常屡々おこることだと思います。仕事で異業種の人と会話するときやちがうバックグランドを持つ人たちの間でしばしばおこります。責任ある立場の人が不用意に言ったので問題となったのです。言った方は悪意は無いものと思います。このようなことは,教師と児童・生徒・学生の間にも起こり得ることでしょう。学生が指導したことができないことは,しばしばこちらの伝え方が悪かったり,学生がちがう意味で理解したりということがあります。授業をやっていて,学生のできが良くなったと感じるとき,よく考えると指導が良くなったためや,入学してきた学生の質がよかったのではなく,単に伝え方がうまくなっただけであることに後で気がつくことがあります。しかし,どこが良くなったのか気がつかないことも多いのです。それぞれの立場で,仲間内だけで話をしていると,しばしばわかったような気になります。でも,専門外の人に伝わらないこともあります。そのために,専門外の人に伝えることを通じて,何が本質かわかってくることもあるのです。その一つの例が,この更新講習です。毎年やるごとに様々なことに気づかされます。そのために,専門家が専門外の人に対して話をしていくことが大切ではないかと思います。
池上彰氏がさまざまなことをわかりやすく説明できるようになったのは,「週間子どもニュース」で,柴田理恵さんと小学生に鍛えられたからだそうです。小学校では,理科が苦手な先生がたくさんおられます。そのような方々に対して理科が苦手でわかっていないと嘆くだけではなく,いろいろ質問されながらわかりやすい教育方法を作っていけないでしょうか。小学校の教師になるような人が理解できないような教え方をしているということは,どこか不自然だとは思いませんか。
偏見かもしれませんが,最近強く思っていることがあります。どの教科もそうですが,その教科の典型的なやり方(教え方,学び方)で「生き残った」人が指導要領を策定し,教科を教えていることも問題の一つではなかということです。典型的な教え方でわからせようとするだけではなく,分からない人の発問によって,わかりやすい説明や新たな知見を引き出すということはできないでしょうか。それが,さまざまな意味での発展につながるのではないかと思います。
学問は,さまざまな人がさまざまなことを考えてやっています。でも,他分野の人には情報は伝わりにくいものです。そこで,その成果を公開することによって,他分野に資することも大切ではないかと思います。科学という言葉は,「分科の学」という意味から来ています。でも,実際の学問は学際的に協力したり,成果を借用したりしながら発達してきました。このことからも,セクショナリズムを排した開かれた学問が必要になってくることはわかると思います。専門家が素人に説明するときも,素人に教えて上げるという姿勢ではなく,素人から教わる(教えていただく)という姿勢や気持が必要ではないかと思います。
関連動画: 「専門家と非専門間のコミュニケーション」(14分28秒)
関連サイト: 「第4回 サイエンスコミュニケーションとその意義」