エジソン電球や電流による発熱の実験にシャープペンシルの芯を使いました。そこで,シャープペンシルを実用化した人の話をしましょう。シャープペンシルの原型は,イギリスで作られたといいます。でも,壊れやすかったため,普及しなかったそうです。それを改良して,使用に耐えるものをつくったのは早川徳次(はやかわ とくじ)(1893~1980)という人です。1915年に特許を出願し,兄と一緒に販売をしました(当初の商品名は「エバー・レディー・シャープ・ペンシル」)。最初国内では売れませんでした。欧米で売れるようになったことがきっかけで国内にも普及したそうです。
早川徳次は,東京に工場を持っていましたが,関東大震災で工場や妻子を失いました。それらに追い打ちをかけるように,販売を委託していた会社から特約販売契約の解除と,契約金,融資金の返済を求められました。その結果,シャープペンシルの製造からは手をひきました。その後,大阪に移り,放送を予定していたラジオ受信機や通信機器の製造をはじめます。戦後は,日本で初めてテレビを製造します。シャープペンシルの製造からは手を引きましたが,「シャープ」のブランドで製品を販売しました。早川徳次は,日頃から「まねされるような商品をつくれ」が口癖でした。シャープは,長年液晶テレビの開発にかけていて,ブラウン管の自社製造をしませんでした。早川徳次亡き後,液晶テレビが実用化して,一時は「液晶のシャープ」といわれましたが,現在では海外製品にシェアをとられています。2016年には台湾の鴻海精密工業の傘下に入ったのは,耳に新しいことだと思います。まさに,「まねされる商品」つくったわけです。この後,早川徳次の遺志を受け継いで,さらに新たな「まねされる商品」を作り続けることができるといいなと思います。
ちなみに,昭和40年代前半小中学生のころ(50年近く前)から父に,「将来は液晶を使って,壁かけテレビができる」と聞かされていました。実際には液晶テレビが普及するまでそれが40年近くかかりました。
早川徳次は,苦労して育ちました。乳児のころに,母親が患ったために,養子に出されます。養父は良くしてくれたようですが,養父の後妻にひどい虐待されます。冬の寒いさなかに養母に便壺に落とされて,水をかけられて熱を出してうなされていたのを,近所の盲目の女性に助けられました。その人の世話で,飾(かざり)職人(しょくにん)(金属細工をする職人)に丁稚奉公いきます。飾職人の修行の過程で,金属加工の技術を身につました。独立した後,18歳のときに,徳(とく)尾錠(びじょう)とよばれる穴を開けないで使えるベルトのバックルを発明し特許を取得します。その後,独立して兄とシャープペンシルの製造を行い,会社を成長させていきます。成功しても,昔の恩を忘れず,恩を受けた人たちを世話しました。第二次世界大戦中に戦争で失明した人たちだけの工場をつくりました。子どもの頃助けてくれた,近所の盲目の女性への恩返しの気持ちもあったのだと思います。この工場はその後も続いているそうです(平野隆彰「シャープを創った男 早川徳次伝」日経BP(2004))。
早川徳次の伝記(平野隆彰「シャープを創った男 早川徳次伝」日経BP [2004])を読んでいて一つ気づいたことがあります。丁稚奉公というのは,一種の教育の役割をしていたのだということです。丁稚奉公というとほとんど無給でつらい仕事をするというイメージをもっていましたが,早川徳次は能力が高かったからかもしれませんが,10代で独立しています。商店への奉公でも途中で,他の店に移ったり,暖簾分けしてもらって独立したりすることもありました。昔の日本の教育というと,江戸時代の手習い塾(寺子屋)や藩校,私塾などや明治以降急速に整備されていった学校教育が思い浮かぶと思いますが,これ実務をしながら教育をしていくことも制度として整っていたのです。その習慣もあってか,バブルの頃までは社内教育が盛んでした。最近は大企業でもなかなか余力がなくなってきて大学や専門学校での教育を重視するように産業界も行っていますが,本の20年くらい前までは,会社で教育するので大学では何も実務的なことは教育しなくてよいと言っている企業が多かったのは事実です。