世界に名だたる新幹線ができて,50年以上経ちました。新幹線の実現には,島 安二郎(1870~1946),島 秀雄(1901~1998)の親子が大きく寄与しています。新幹線の軌道の幅(線路の間の幅)は1,435 mmで「標準軌」とよばれています。世界的にはこの軌道はばが標準だからです。それに対して,在来線の線路幅は1,067 mmです。標準軌よりも狭いため「狭軌」とよばれています。これでは,高速鉄道を走らせることが困難です。島 秀雄は生涯鉄道の高速化のために標準軌を日本に広げたいと思っていました。彼は1894(明治27)年当時の関西鉄道に入社し,高速化や旅客サービスにつとめます。1907(明治40)年関西鉄道が国有化されると鉄道院に入ります。その時から広軌化計画(ここでいう広軌は標準軌のこと)策定に関与します。高速鉄道を走らせるには,狭軌では難しかったからです。その後,南満州鉄道(満鉄)の理事・社長代理,汽車製造会社の社長などを経て,1939(昭和14)年「弾丸列車計画」に携わります。弾丸列車というのは,新聞などが使ったよび名(通称)です。正式にはこの時点ですでに「新幹線」という言葉が使われています。その後,戦局の悪化で,中断され,高速鉄道の実現を夢見つつ,島安二郎は戦後間もない1946(昭和)21年に亡くなります。戦前の新幹線計画で用地買収と,トンネル工事が進んでいたため,戦後の東海道新幹線が短期で完成することになります。
安二郎の長男の島秀雄は後に「デゴイチ」で親しまれる蒸気機関車D51を開発します。戦後は機関車ではなく,分散動力による電車の開発などに携わりましたが,1951(昭和26)年の列車火災事故「桜木町事故」後,原因の調査と車両の徹底的改良を行なった後,責任をとって国鉄車両局長を辞職しました。その後,1955(昭和30)年,十河信二(そごうしんじ)が国鉄総裁に就任すると,十河から国鉄の技師長に復帰を要請されました。国鉄に復帰後,十河と二人三脚で,新幹線計画を実現します。しかし,新幹線開通の前年「新幹線予算不足の責任」をとって,十河とともに辞職しました。そのため,1964(昭和39)年10月1日の新幹線出発式には招待されなかったそうです。
なお,秀雄の次男の島 隆(1931~)も,新幹線計画の当初から設計に携わり,東北・上越新幹線200系の設計に携わりました。その後,台湾高速鉄道にも関与しました。