調理では,焼くだけではなく,煮炊きします。現在は,土鍋もありますが金属の鍋が主流です。人類は最初,土器を使っていました。土器とは,原料の土が現れた素焼きのもののことです。日本では,縄文土器と弥生式土器が知られていますよね。もともとは地上に突き刺して煮炊きに使われたようです。縄文土器がみられるのは,1万6千年前から2千3百年前で,世界でも最も早い時期に現れたとも言われています。縄文土器が使われた時代を「縄文時代」といいます。縄文土器という名称は縒(よ)り糸を土器表面に当てて回転させてつけた「縄目」があるから名付けられたものです。窯を使わずに比較的低温で焼成しています。その後現れた弥生土器は,縄文土器よりも高温で焼成されたために,薄くて硬いものになっています。藁や土をかけて焼成する「覆(おお)い焼き」という方法で作られているといわれています。色も縄文土器が赤褐色であるのに対して明るい褐色をしています。弥生土器が使われた時期は縄文時代が終わった後からおおよそ紀元前後3世紀までの間です(終わった時期は日本列島の地域によって違います)。弥生土器という名称は,明治17年(1884年)現在の文京区の弥生町で出土したことにちなむものです。
その後の古墳時代から11世紀にかけて土師器(はじき)がつくられました。同時期には,より高温で焼成した須恵器(すえき)が並行して使われていました。土師器は,弥生式土器の延長とみられています。土師器をつくる部(べ)(大化の改新以前に朝廷や豪族が所有した人々の集団)を土(は)師部(じべ)といいました。ちなみに学問の神様として知られる菅原道真の菅原(すがわら)氏(うじ)はもともと土師氏でした。大相撲の始祖として知られる野見宿禰(のみのすくね)の子孫です。野見宿禰は,それまであった殉死(じゅんし)(君主が亡くなると臣下がそれに従って死ぬこと)が禁止されたのにともない,殉死者の代わりとして埴輪を考案したといわれています。その功績によって,土師(はじ)臣(のおみ)の氏姓(うじかばね)を与えられたといわれています。平安時代の始め菅原古人が大和国菅原邑(むら)に住んでいたこと言われています。桓武天皇の時代土師氏は新たに氏姓を与えられ,大江(おおえ)氏(うじ),菅原(すがわら)氏(うじ),秋篠(あきしの)氏(うじ)にわかれました。大江氏には源義家(みなもとのよしいえ)(八幡太郎)に兵法を教えたと言われる大江(おおえの)匡房(まさふさ)がいます。女性では三十六歌仙の和泉式部,赤(あか)染(ぞめ)衛門(えもん)がいます。大江匡房の孫の大江広元は源頼朝に招かれ,鎌倉幕府の政所(まんどころ)の初代別当(べっとう)となっています。その子孫が戦国時代中国地方を制覇した毛利元就です。毛利家は,江戸時代防長(ぼうちょう)二州(山口県)の領主となり,明治維新の達成に大きく貢献しました。菅原姓を名乗る大名としては加賀の前田家が知られています。
土器ができる原理をお話おきましょう。土器の原料となる主な成分は,ケイ酸塩(主にカオリナイト[Al4Si4O10(OH)8])と石英(SiO2)です。ケイ酸塩を加熱すれば水酸基から水分がとれ,立体構造が変化します。石英は573℃まで加熱すると結晶構造が低温型(α石英)から高温型(β石英)に変化します。高温型の結晶は温度が上がるにつれて収縮します(ほとんどの物質は温度の上昇とともに膨張しますが,収縮するものもあるのです。氷が融けてから4°Cの間も収縮します)。土器とは加熱することによって,これらの構造変化に伴って強度が増すことを利用したものです。
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関連サイト: 「第6回 あかりと熱源の歴史とエネルギー」