よく、韓国人に多い意味のない主張が、
"竹島には竹がない”のになぜ竹島か? だから竹島が日本領土ではない、と全く意味がない主張をする人たちが要る。
(まあ、こう主張する韓国人に対しては、「于山島は鬱陵島に隣接しており、南北に長細い一島で、女竹が生えている島だから、”独島”とは別の島」というカウンターパンチが待っているのであるが)
結論から言うと、1905年の正式編入の再に、現竹島である”リアンコールド巌”の名称に、既に使われなくなった江戸時代の鬱陵島(明治期日本名称:松島)の名称である”竹島”を使用する事にした。これは1904.09.29に「リャンコ島領土編入並二貸下願」を中井養三郎が提出し、明治政府が正式に該島を編入する前に、日本名の正式名称をどうするか隠岐島司に諮問し、隠岐島司は、該当の経緯からリアンコールド巌を”竹島”と改称した。(日本人、朝鮮人は現竹島をどのような呼称で呼んでいたか?)
1904.11.15.庶1073号
周吉軍西郷町中井養三朗より領土編入並に貸下願の件、別紙之通出願いに付、目下調査中之趣に候処、弥X所属を定めらるる場合に於いては隠岐島庁の所管とせらるるも差支なき御見込みに候や、又島嶼の命名に付併せて御意見承知致度此段及照会候也 島根県内務部長 書記官 堀信次 隠岐島司 東文輔殿
1904.11.30 乙庶第152号(11.15庶1073号への返答)
本月十五日庶一〇七三号を持って島嶼所属の儀に付きご照 会之趣了承、右は我が領土に編入の上隠岐島の所管に属せらるるも何等差支無之其名称は竹島を適当と存候。 元来朝鮮の東方海上に松竹両島の存在するは一般 口碑の伝ふる所、而して従来当地方より(きへん焦)耕業者の往来する鬱陵島を竹島と通称するも、其実は松島にして海図に依るも瞭然たる次第に有之候。左す ればこの新島を措て他に竹島に該当すべきもの無之、依て従来間称したる名称を転用し竹島の通称を新島に冠せしめ候方可然と存候此段及回答候也。 隠岐島司 東文輔 島根県内務部長 書記官 堀信次殿
これが竹が無いのに竹島と呼ぶ理由である。
以下は、簡単な名称の変遷である
まず、江戸時代は、日本は蔚陵島を"竹島”、現竹島を”松島” と呼び、地図に残してきた。
これが、Philip Von Sievoldが、存在しないアルゴノート島を記述し、本来の鬱陵島である場所に、Dagelet 松島と書く。
このPhilip voon Seiboldに代表される西洋の地図は、存在しないアルゴノート島を書いており、それが日本図にも反映される事になる。
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ただ、竹島松島は無人島で人が居住しているわけでもなく、鳥取藩などの藩領ではないので、実測図などは作られなかった。此の時期日本は残った未確認領域の情報把握を行っており、その過程で”竹島” ”松島"に関わる地籍編纂・開発要望 などで”竹島””松島”がでてくるが、これは「朝鮮鬱陵島一名竹島一名松島」なので日本とは無関係として拒否されるが、これらの竹島松島はアルゴノートおよびダゼラ島である鬱陵島であるので、現竹島とは関係がない。
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1890年頃から日本人が鬱陵島へ渡航が再解禁される事になって、1903年頃現竹島であるリアンコールド岩における日本人業者の過当競争による漁業資源の枯渇と、近海のロシア船舶の監視目的もかねて1905年に正式編入。ここで旧来鬱陵島に使っていた”竹島”の名前をリアンコールド巌につけ、現竹島と改称した。