金正浩の地圖の系譜

・1694年以降の朝鮮王朝の鬱陵島捜討官の製作した鬱陵島詳細図
・円型の鬱陵島圖形
・角型の鬱陵島地圖
・金正浩の地圖
・楕円形鬱陵島地圖
・朝鮮の地圖における鬱陵島と于山島(全地図リスト)

金正浩も、鬱陵島の地図を書き残しているが、これらは鬱陵島の捜討官の書いた地図を参照し製作された地図を又参照した地図を参考にして書いていると思われる。彼の鬱陵島地図は、1830年代と1850-60年代で、そのデザインと趣が異なる。
1830年代の地図は18世紀中盤~19世紀初期の角型の鬱陵島地圖が元になっていると考えられ、加えて東に于山島(竹嶼)が書かれているが、1860年代の地図にはどちらかと言うと丸型で于山がかかれておらず、南に書かれる5島の数が地図によってまちまちである。1860年代の場合、金正浩は、「于山」は鬱陵島の古い旧名」との認識をしていたため、書かれなかったと思われる。

1834.青邱圖
本朝八道州県總目 (表紙、目次のようなもの)
鬱陵島は18層/3版-4版に位置している。
(ところで、このサイトによると、青邱圖は、東與図志をもとに書いたとのことだが、
是を確認することで、金正浩が鬱陵島をどのような情報を用いて記載したのかがわかるかもしれない。)


上の目次の地図の縮尺は、横が70里、縦が100里である
此の事から、下の鬱陵島詳細図の目盛りは、横が一枡5里、縦が10里である。

これと同じデザインを使用した青邱要覧 (高麗大学)

是と同じものは、以下の図書館に所蔵
韓国国立中央図書館 87  古朝61-80  青邱圖
http://www.dlibrary.go.kr/Map/main.jsp

1850年代後半、東輿圖 (大東輿地圖)
(全体を並べたもの)
このサイトによると、東輿圖は、1853-56.c.a.輿圖備志の情報をもとに書いたとのこと。
1853-56.c.a.輿圖備志
[鬱陵島]本島在蔚珍縣之正東海中(其水路未詳便風二日可到東直日本之隠岐州●天晴而登高望見則如雲) 古于山国(一云武陵一云羽陵一云艼陵)今称鬱陵島(周二百餘里東西八十餘里南北五十餘里中有三峯岌嶪聳空 空純是石山自中峯至正東海濱三十餘里至正南海濱二十餘里至正西海濱四十餘里至正北海濱二十海濱二十餘里川溪六七処竹田五六所可居基址數十処有楮田洞孔岩米土窟石葬数処船泊處待風所又南有四五小島島中皆石壁石澗洞壑甚多有狙鼠極大不知避人亦有桃李桑拓菜茹之屬珍木異草不知名者甚多 土産藿鰒可支魚諸大小雜魚不能詳海松子紫壇冬柏楓檜側柏黄柏 吾欕桑楡篁竹朱土鷹烏鷰鴎貍 [典故]○新羅智證王十三年于山國恃險不服遣何瑟羅州軍主金異斯夫擊降之  高麗太祖十三年芋陵島遣白吉土豆貢方物
顯宗九年以于山國被東北女眞所寇廢農業遣李元龜賜農器 十年于山國民曾彼女眞虜掠來奔者悉令歸之  德宗元年羽陵城主遣子獻土物  仁宗十九年秋七月溟州道都監倉使李陽實遣人入蔚陵島取菓核木葉異常者以獻  毅宗十三年王聞鬱陵地廣土肥可以居民遣溟州道監倉使金柔立往視柔立回奏云島中有大山從山頂東至海一萬餘步西至海一萬三千餘步南至海一萬五千餘步北至海八千 餘步有村落基址七所或有石佛鐵鍾石塔多生柴胡本石南草然多巖石民不可居遂寢其議 明宗時崔忠獻獻議以武陵土壤膏沃多珍木海錯遣使往觀之移東郡民以實之及使還多以珍木海錯進之後屢爲風濤所蕩覆舟因還其民居 忠穆王二年東界芋陵島人來朝 辛福五年倭人武陵島留半月而去○本朝 太宗朝聞流民逃于鬱陵島者甚多再命三陟人金麟雨爲安撫使刷出空其地麟雨言丰土地饒沃竹大如杠鼠大如猫桃核大於升凡物稱是 世宗元年武陵島民男婦共十七人行到京畿 平邱驛飢頓 上遣人救之 二十二年遣縣人萬戶南顥率數百人往搜連民盡俘金丸等七十餘人而還其地遂空 成宗二年有告別有三峯島者及遣朴宗元往覓之因風濤不得泊而還同行一舡泊鬱陵島只取大竹大鰒魚回啓云島中無居民矣肅宗二十八年三陟營將李浚明還自鬱陵島獻其 圖形及紫檀香靑竹石間朱魚皮等物浚明乘舡于竹邊串兩晝夜而還 英宗十一年江原監司趙冣等啓言鬱陵地廣土沃有人居舊址而其西又有于山島亦廣闊


鬱陵島の拡大図。恐らく一枡が10里もしくは20里と思われるが確かでない。
付属小六島-最も著者な付属島である竹嶼(地図では名前が無い)と南の5島が記載される。

1856-59 東輿圖 奎章閣
(全体を並べたもの)


鬱陵島は記載されているが、南東に三つの付属島があるのみ。
この三つの付属島の正体は不明。
他の地図のような、付属小六島-最も著者な付属島である竹嶼(地図では名前が無い)と南の5島が記載されていない。

1861大東輿地図?韓国国立中央図書館


付属小六島のうち、南の5島は記載されているが、
最も著者な付属島である竹嶼が記載されていない。


1861.大東輿地図(筆写本)奎章閣
これと同じものは以下の図書館にあり、
韓国中央図書館



72  古朝61-2   대동여지전도(大東與地全圖)  を選択後、、
右上(14)のボタンをおし、(2)
울릉도(鬱陵島)삼척(三陟)정선(旌善)영월(寧越)영춘(永春)


University of Wisconsin
(全体を並べたもの)

鬱陵島は記載されているが、南東に三つの付属島があるのみ。
この三つの付属島の正体は不明。
他の地図のような、付属小六島-最も著者な付属島である竹嶼(地図では名前が無い)と南の5島が記載されていない。


1861-1863.大東方輿圖 奎章閣
(全体を並べたもの)


鬱陵島は記載されているが、南東に三つの付属島があるのみ。
この三つの付属島の正体は不明。
他の地図のような、付属小六島-最も著者な付属島である竹嶼(地図では名前が無い)と南の5島が記載されていない。


1860年代 大東輿地全圖 崇実大学校博物館 

于山=鬱陵島のみ記載 此の地図は恐らくは大東地誌の付属圖と同じもとの思われる。(1850年後半から1860年前半、大東 輿地図を製作するに当り、金正浩は、旧来の地理誌に従い、”于山”とは鬱陵島の古い別名で有ると判断た。よって、于山島即ち竹嶼JUKDOが消えていると 思われる。 于山島である竹嶼も、りゃんこ島(竹島/独島)も地図の範囲外である為にから記入しなかったわけではない。)
(範囲外だから書かなかったわけではないことについてはこちらを参照)


1863.大東地誌付属圖
九州総圖              冥州全圖

ともに于山のみの記載。それは金正浩は"于山”は鬱陵島の旧名であるとの認識に基づいたものである。
これは、輿圖備志、及び1863年の大東地誌を確認するとわかる。
1853-56.c.a.輿圖備志
[鬱陵島]本島在蔚珍縣之正東海中(其水路未詳便風二日可到東直日本之隠岐州●天晴而登高望見則如雲) 古于山国(一云武陵一云羽陵一云艼陵)今称鬱陵島(周二百餘里東西八十餘里南北五十餘里中有三峯岌嶪聳空 空純是石山自中峯至正東海濱三十餘里至正南海濱二十餘里至正西海濱四十餘里至正北海濱二十海濱二十餘里川溪六七処竹田五六所可居基址數十処有楮田洞孔岩米土窟石葬数処船泊處待風所又南有四五小島島中皆石壁石澗洞壑甚多有狙鼠極大不知避人亦有桃李桑拓菜茹之屬珍木異草不知名者甚多 土産藿鰒可支魚諸大小雜魚不能詳海松子紫壇冬柏楓檜側柏黄柏 吾欕桑楡篁竹朱土鷹烏鷰鴎貍 [典故]○新羅智證王十三年于山國恃險不服遣何瑟羅州軍主金異斯夫擊降之  高麗太祖十三年芋陵島遣白吉土豆貢方物
顯宗九年以于山國被東北女眞所寇廢農業遣李元龜賜農器 十年于山國民曾彼女眞虜掠來奔者悉令歸之  德宗元年羽陵城主遣子獻土物  仁宗十九年秋七月溟州道都監倉使李陽實遣人入蔚陵島取菓核木葉異常者以獻  毅宗十三年王聞鬱陵地廣土肥可以居民遣溟州道監倉使金柔立往視柔立回奏云島中有大山從山頂東至海一萬餘步西至海一萬三千餘步南至海一萬五千餘步北至海八千 餘步有村落基址七所或有石佛鐵鍾石塔多生柴胡本石南草然多巖石民不可居遂寢其議 明宗時崔忠獻獻議以武陵土壤膏沃多珍木海錯遣使往觀之移東郡民以實之及使還多以珍木海錯進之後屢爲風濤所蕩覆舟因還其民居 忠穆王二年東界芋陵島人來朝 辛福五年倭人武陵島留半月而去○本朝 太宗朝聞流民逃于鬱陵島者甚多再命三陟人金麟雨爲安撫使刷出空其地麟雨言丰土地饒沃竹大如杠鼠大如猫桃核大於升凡物稱是 世宗元年武陵島民男婦共十七人行到京畿 平邱驛飢頓 上遣人救之 二十二年遣縣人萬戶南顥率數百人往搜連民盡俘金丸等七十餘人而還其地遂空 成宗二年有告別有三峯島者及遣朴宗元往覓之因風濤不得泊而還同行一舡泊鬱陵島只取大竹大鰒魚回啓云島中無居民矣肅宗二十八年三陟營將李浚明還自鬱陵島獻其 圖形及紫檀香靑竹石間朱魚皮等物浚明乘舡于竹邊串兩晝夜而還 英宗十一年江原監司趙冣等啓言鬱陵地廣土沃有人居舊址而其西又有于山島亦廣闊

なお、1863年の大東地誌の本文は以下の通りになっている。
このサイトによると、大東地誌は、東與図志と、與図備志を統合し、改定した内容であるとのこと。
鬱陵島在本縣正東海中古于山一云武陵一云羽陵一云艼陵周二百餘里東西七十餘里南北五十餘里三峯岌嶪聳空(倭舡漁探者時到)純是石山自本縣天晴而登高望見則如雲氣便風二日可到倭人謂之竹島與日本隱岐州相近自中峯至正東海濱三十餘里正西海濱四十餘里正南海濱二十餘里正北海濱二十餘里川溪六七竹田五六居址數十有楮田洞孔巖米土窟石葬古址船泊處待風所島之南有四五小島島中皆石壁石澗洞壑甚多有狙鼠極大不知避人亦有桃李桑拓菜茹之屬珍木異草不知名者甚多○新羅智證王十三年于山國恃險不服遣何瑟羅軍主金異斯夫擊降之 高麗太祖十三年芋陵島遣白吉土豆貢方物
顯宗九年以于山國被東北女眞所寇廢農業遣李元龜賜農器 十年于山國民曾彼女眞虜掠來奔者悉令歸之 德宗元年羽陵城主遣子獻土物 仁宗十九年秋七月溟州道都監倉使李陽實遣人入蔚陵島取菓核木葉異常者以獻 毅宗十三年王聞鬱陵地廣土肥可以居民遣溟州道監倉使金柔立往視柔立回奏云島中有大山從山頂東至海一萬餘步西至海一萬三千餘步南至海一萬五千餘步北至海八千餘步有村落基址七所或有石佛鐵鍾石塔多生柴胡本石南草然多巖石民不可居遂寢其議 明宗時崔忠獻獻議以武陵土壤膏沃多珍木海錯遣使往觀之移東郡民以實之及使還多以珍木海錯進之後屢爲風濤所蕩覆舟因還其民居 忠穆王二年東界芋陵島人來朝 辛福五年倭人武陵島留半月而去○本朝 太宗朝聞流民逃于鬱陵島者甚多再命三陟人金麟雨爲安撫使刷出空其地麟雨言丰土地饒沃竹大如杠鼠大如猫桃核大於升凡物稱是 世宗元年武陵島民男婦共十七人行到京畿 平邱驛飢頓 上遣人救之 二十二年遣縣人萬戶南顥率數百人往搜連民盡俘金丸等七十餘人而還其地遂空 成宗二年有告別有三峯島者及遣朴宗元往覓之因風濤不得泊而還同行一舡泊鬱陵島只取大竹大鰒魚回啓云島中無居民矣肅宗二十八年三陟營將李浚明還自鬱陵島獻其圖形及紫檀香靑竹石間朱魚皮等物浚明乘舡于竹邊串兩晝夜而還 英宗十一年江原監司趙冣等啓言鬱陵地廣土沃有人居舊址而其西又有于山島亦廣闊○土産藿鰒可支魚大小雜魚柏木香木冬柏側柏黃柏梧桐楓檜欕桑楡篁竹朱土鷹烏鷰鳲貍鼠

1864の大東輿地図 改訂版筆写本(日本国立国会図書館)
1861年の大東輿地図に、于山(竹嶼/JUKDO)が書き加えられた。尚、南には小5島はなく、三島のみである。


1897.大東與地図
1864年と推測される日本国立国会図書館の大東與地図とほぼデザインが似ているが、
ウサン島の形状が詳しい。特に南端から伸びる道が線として記述されていることが、
この島が欝陵島竹嶼を示し、島根の竹島を示しているわけでないことがわかる。
この地図に関しては以下のサイトの投稿が詳しい。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2011/05/dong-reports-discovery-of-daedong-yeoji.html
"英宗十一年 江原監使趙最壽 啓言 鬱陵島地廣土沃有人居田地 而其西又有于山島 亦廣闊云 則所謂西字與 此圖之在東相佐"
東西六十余里南北四十余里周二百余里


19C中後期?朝鮮古分道地圖 三
以下の地図は、金正浩の地図かどうかは不明だが、同じ系統であるのでここに掲載しておく。
他の地図のような、付属小六島-最も著者な付属島である竹嶼(地図では名前が無い)と南の5島が記載されていない。
南に小4島が記載される。、