もともとは、「古地図の独島、どうして鬱陵島の内側に描かれたのか?~版木からはみ出した部分は折り返した[11/28]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1259392876/
というタイトルになっているようですが、古地図には「独島」は記載されていないので、「于山島」に改めます。
----以下、上記サイトより引用--------
http://news.joins.com/component/htmlphoto_mmdata/200911/htm_20091128020750a000a010-001.JPG
独島(ドクト、日本名:竹島)は私たちの土地だ。ところが相当数の我が国の古地図には独島が鬱陵島(ウルルンド)の内側にあったり下の方に登場するなどその位置がまちまちだった。
学界でも明快な答を出すことができなかった。独島近隣の潮流が激しくて鬱陵島より独島にさらに早く着けるとか、その位置は重要ではなく私たちの領土であることを表わしたことが重要だという風に解釈した。ところが、在野の地理学者が古地図中の独島の位置表示に対する興味深い解釈を出した。
ヤン・ジェリョン(62)ホヤ地理博物館長は「距離上、木版の外に表示される鬱陵島と独島の部分を木版中に1~2回たたんで入れて描いたので独島と鬱陵島の位置が逆さまになったのだろう」と主張した。古地図版を製作する時は筆写本を木版の上に当てて刻んだ。その過程で木版の外にはみ出した部分は、基準線に合わせて中にたたんで入れた後、板刻したというのだ。独島が鬱陵島の左側下の部分に表示されたのは一度たたんで入れた場合だ。
独島と鬱陵島まさに左側に表示された「八道図」江原道幅は紙の地図を右側から左に一度たたんだ後、下から上へもう一度たたんで上げたものと解釈した。
1905年以前、日本が製作した地図では独島が鬱陵島の内側に位置する。日本は以後、朝鮮国土の測量を通じて正確な地図を製作する。ヤン館長は「日本が韓国の地図製作技法を知らないまま江原道幅を書き写して数世紀の間、独島の位置を間違って表記したのだろう」としながら「これは
独島を自国領土と考えなかったという意味」と主張した。
ヤン館長のこのような解釈を見せる「地図が明らかにする独島と東海」古地図展が来月2日~11日ソウル、松坡(ソンパ)子供図書館で開かれる。4日午前10時ヤン館長の特講も用意される。
イ・ギョンヒ記者
◆ホヤ地理博物館(www.geomuseum.co.kr)=地理教師で定年退職したヤン・ジェリョン館長が数十年収集した資料を土台に江原道寧越に開館した地理専門博物館。
ソース:中央日報(韓国語) 古地図の中独島、どうして鬱陵島内側にあるか
http://news.joins.com/article/875/3896875.html?ctg=1700&cloc=home|list|list3
--------------------------------------------
「学界でも明快な答を出すことができなかった。独島近隣の潮流が激しくて鬱陵島より独島にさらに早く着けるとか、その位置は重要ではなく私たちの領土であることを表わしたことが重要だという風に解釈した」
そのような仮説を裏付ける記録は一つもありません。朝鮮王朝時代は、三陟や平海越松亭から鬱陵島へ渡るのに、莫大な造船費用、人員と、危険な荒波を何とか超えて鬱陵島へ渡った(船団のうちの何隻かが大破したことも報告されています)ことが鬱陵島調査員の記録などに記載されていますが、現竹島へ渡ったなどと云うような記録はありません。
ヤン・ジェリョン(62)ホヤ地理博物館長は「距離上、木版の外に表示される鬱陵島と独島の部分を木版中に1~2回たたんで入れて描いたので独島と鬱陵島の位置が逆さまになったのだろう」と主張した。古地図版を製作する時は筆写本を木版の上に当てて刻んだ。その過程で木版の外にはみ出した部分は、基準線に合わせて中にたたんで入れた後、板刻したというのだ。独島が鬱陵島の左側下の部分に表示されたのは一度たたんで入れた場合だ。
そもそも、そのような畳んだ事を示す木版の存在が確認できません。まあ、よく確認出来ない事を、事実であるかのように記載するのか。
そそもそも、まず、朝鮮王朝の”朝鮮半島図”などを見てみます。鬱陵島の西に于山島が書かれているのは、おもに東国與地勝覧の見解を引き継いでいる地図ですが、江原道図、朝鮮半島図、ともに、木版に掘る時に、折り返しの必要がない大きさのデザインで、一枚構成ですので、氏の申すような仮説はありえません。
それでは、18世紀以前の地図には、北西や、南西に于山島が書かれている地図もありますが、それはいったいどのように畳まれたのか、説明が付きません。めちゃくちゃです。
私の仮説は、朝鮮王朝の記録には、「鬱陵島三陟の東于山島平海の東」という文章が結構書かれており、両方の土地から見えるのは、ともに同じ鬱陵島なのですが、平海から見るのに比べて、三陟から見るほうが大きく感じられた可能性から、一島である鬱陵島が二島である別の島と考えられていた説、
もう一つは、鬱陵島は、ある角度、ある邦楽及び標高から眺めると、一島である鬱陵島が、尾根の関係でまるで手前に小さな島と奥に大きな島が有るかのように見える、というシミュレーションを以前出しました。
ご存じのとおり、1694年に安龍福の竹嶋事件(鬱陵島事件)があって、日本の対馬藩と朝鮮の東菜府が揉めるようになり、朝鮮王朝は竹嶋つまり鬱陵島に調査員を送るようになります。其の後に基本的に于山島は東に書かれるようになります。この調査員の地図を見れば一目瞭然ですが、于山島はBoussole Rockつまり竹嶼をさしているわけであり、現竹島(Liancourt)を指していません。
1905年以前、日本が製作した地図では独島が鬱陵島の内側に位置する。日本は以後、朝鮮国土の測量を通じて正確な地図を製作する。ヤン館長は「日本が韓国の地図製作技法を知らないまま江原道幅を書き写して数世紀の間、独島の位置を間違って表記したのだろう」としながら「これは
独島を自国領土と考えなかったという意味」と主張した。
日本が内側に書いていた、”独島”ではなく、竹島ですが、これは竹島Argonautを指しておりまして、現在の竹島いわゆるLiancourt Rocksを意図して書いたものではありません。基本的に1880年以降の官製の日本の地図に関しては、Argonaut竹島は消えますが、
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/japan-map-take-matsu
1880年以前に制作されたArgonaut竹島とDagelet松島が記載された官製の地図を参考に、私個人が制作した地図には竹島Argonautは残っている地図もありますが、おそらくそのことを指しています。1905年以前に日本は現在の竹島Liacnourt Rocksを、”竹島”とは呼んでいません。
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/whytakeshima-is-takeshima-without-bamboo
結局、今回も洗脳韓国人の杜撰で短絡的なプロパガンダですが、こういったいい加減な仮説を繰り返せば事実となると考えているのが韓国社会ですので注意が必要です。