韓国の嘘つきメディア 朝鮮日報が嘘つきである金サンフンとのインタビューを掲載しています。こういった悪質で低次元なうそのプロパガンダを流す朝鮮日報は本当にどうしようもない新聞社ですね。斜字部分が転写している部分で、通常のフォントが私の説明です。
▲キム・サンフン大領は「大韓海峡(朝鮮海峡)は現在の位置ではなく、対馬の南側にあった」と主張する。
金滉植(キム・ファンシク)首相が国会に出席して「たとえ歴史的根拠があったとしても、今さら対馬を韓国の領土だと主張するのは説得力に欠ける」と発言した。私もこの意見に同感だ。
このため、キム・サンフン大領=大佐に相当=(54)と会うことが決まった瞬間「私自身、極右主義者と思われてしまうのではないか」という一抹の不安が 脳裏をよぎった。現役軍人のキム大領は、学者ではないが「対馬の領有権」の研究に没頭している。何度も論文を発表し、『日本が隠してきた対馬・独島(日本 名:竹島)の秘密』という本を出版、国会でも特別講演をしている。
キム大領は、勤務先である関東大学の学群団(江原道江陵市)でプレゼンテーションを準備し、私が来るのを待っていた。初めて電話で話したときの激情的な口調とは違い、極めて紳士的な印象だった。
―独島問題を解決するために、わざと対馬にこだわっているのか。
「私は対馬が韓国の領土だという客観的証拠資料を前提に話している。日本は、こういった事実があるということを知っていて、対馬を隠すために、独島に必要以上に固執しているのかもしれない」
―歴史的に対馬が韓国の領土だという資料は数多くあるだろう。しかし、それに劣らないくらい、対馬が日本の領土だということを記載した文書や地図も多い。
*説明;朝鮮は対馬に侵略しに来て虐殺等を行いましたが、当時もも朝鮮では、対馬は朝鮮の領土であるというのは大嘘である、と話がキチンとかかれています。
一例;
1421.04.07 世宗 11卷, 3年(1421 辛丑 / 명 영락(永樂) 19年) 4月 7日(己亥) 4번째기사
http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_10304007_004
・対馬が慶尚道に属するなどと言う話は、歴史書を調べても、古老に聞いても根拠がない嘘である。
・対馬は日本の辺境で、対馬を侵略する事は日本を攻撃することと同じである、と回答される。
「おっしゃる通りだ。例えば1750年代に製作された『海東地図』には『白頭山は頭、大関嶺は脊椎で、嶺南の大馬と湖南の耽羅を両手とする(以白山為頭 大嶺為脊 嶺南之大馬 湖南之耽羅 為両趾)』と書かれている。19世紀に作成された慶尚道の行政地図にも『対馬郡』と出ている。しかし、私はこうした古地図や古文書を証拠に語っているわけ ではない」
*説明;朝鮮の八道総図など、朝鮮半島概略図には確かに対馬の表記があるものが多いです。ただしかし、よく地図を見てみると、対馬の部分に、「日本地」「日本界」とわざわざ書かれているものがあります。
一例; ソウル大学図書館蔵
八道地圖 〈古軸 4709-48〉 慶尚道図 対馬が記載されているが、対馬に「日本地対馬島」と説明
―キム大領が言う決定的な証拠資料とは何か。
「日本の開港直後、米国は日本本土から約1000キロ離れた太平洋の無人島『小笠原』を見つけた。米国がこれを自国の領土に編入しようとしたため、日米間の領土紛争が起った。このとき、日本はその島が記載されている自国の地図(1785年)を提示した」
―すでに日本はそのような地図まで準備していたのか。
「地図の作成者は林子平氏で、日本の領土主権にいち早く目覚めた人物だ。林氏は『海上防衛を重視し、周りの無人島を日本の領土として編入すべきだ』と主 張した。朝鮮を征伐し、国家防衛の領域を拡大しなければならないとも主張した。いわゆる征韓論の元祖ともいうべき人物だった。林氏は日本と周辺国を偵察し て5枚の地図を作成した」
ー領土交渉で米国はその地図を見て諦めたのか。
「米国は、林氏の日本語版の地図では客観的証拠にはならないと主張した。苦心した日本幕府は、林氏の地図を翻訳した『フランス語版』があるということを 知った。これを証拠物とすることで、領土交渉に成功した。そして、その地図では対馬が朝鮮領になっていた。日本が米国との領土交渉の際に使用した地図に は、そう出ていたというわけだ」
*説明;2011/05/11 日本, 国際公認地図通じて `対馬島は朝鮮島` 認定 の嘘 でも説明いたしましたが、そもそも日米間の小笠原をめぐる駆け引きに林子平の地図を提示したというのは小説に書かれている、つまり創作の話であり、史実でその様なやり取りは確認がされておりません。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima08/2007/record200807.html
【質問4】日本は1905年の島根県告示が独島(竹島)が日本の領土だという証拠と主張している。しかし、19世紀に日本がアメリカとの小笠原群島問題の際に提出した地図には独島(竹島)が韓国の領土だと明示されている。これについて説明を願いたい。
【回答】ご意見ありがとうございます。韓国で質問にあるような見解が発表されたので、改めて事実関係を調べてみま したが、19世紀に日米間で小笠原諸島の領有権を争った事実そのものが存在しないことを確認しました。伝えられるところによれば、韓国での議論は、(A) アメリカのペリー提督が日本に開国を求めて来航した際、小笠原諸島の帰属が問題となり、日本は、林子平の三国通覧図説を示してアメリカ側の主張に反駁した というものです。さらに、(B)三国通覧図説の絵図では竹島が朝鮮領となっているので、それをアメリカとの外交交渉に用いた以上、三国通覧図説の絵図は日 本政府が公的に認めたことになる、という議論だと承知しています。
(A)の話は、林子平の各種の伝記に登場するエピソードでありながら小笠原諸島の領有の経緯を扱った学術文献には全く出てこないことに疑問を 持ち、この話の来歴を辿った人がいます。その方の研究によれば、『河北新報』に掲載された林子平を題材とする新聞小説が元ネタだそうです(若松正志「小笠 原諸島の領有と林子平恩人説の展開」『日本史研究』536, 2007.4, p.103)。この新聞小説の連載第44回(1924年11月16日)には、次のような話が載っています。「...ペルリが来航した時、先づ小笠原島に入 りピールアイランド殖民政府といふものを置き、自国の領地だと称して日本政府にその確認を求めた。...幕府では頗る窮迫したが、偶仙台の林子平が天明中 に著述した三国通覧図説に小笠原島の地図と説明が乗せてあり、これを独逸で翻訳公刊したものがあると聞き、辛うじてそれを求めてペルリに提示し た...」。ペリーの記録は、1856年に米国上院文書(33d Cong. 2d Sess. Ex. Doc. No.79)として議会に提出されその後単行本として版を重ねた『ペリー艦隊日本遠征記』を始めとして、同じく上院に海軍長官が提出した報告書(33d Cong. 2d Sess. Ex. Doc. No.34)、ペリーの秘書官R・ピノーの日誌、同じく中国語通事S.W.ウィリアムズの日誌などがあります。これらには、上記のような話が出ていないば かりか、ペリーは小笠原寄港後香港に赴き、そこで英国政府の代表に対し、三国通覧図説(クラップロートによる訳本)を引用してボニン諸島という名称が日本 に由来するものであることを説き、英国の「発見」に基づく領有主張を退けています。1853年12月つまり「日米和親条約」締結交渉が行われる前年のこと です。無論、ペリーが日本での幕府との交渉で小笠原を要求したとか幕府が林子平を引き合いに出して反駁したというような記録は、日本側にもありません (『大日本古文書』など)。
(B)の三国通覧図説の絵図で竹島が朝鮮領となっているかを検討するまでもなく、そもそも(A)の話は新聞小説に端を発した俗説であって、史実ではないのです。 (事務局:総務課)
―その地図を直接確認したのか。
「これまで発見された筆写本の地図には、独島は韓国領、対馬は日本領となっている。韓国国籍を取得した保坂祐二教授(世宗大学独島研究所所長)はこれを 根拠として『国際的に公認された地図にこのように出ていることが、独島が韓国の領土であるという決定的な証拠』と主張した。しかし、その地図上でわれわれ が見落としていたのは、独島だけではなく、対馬も韓国の領土になっていたという点だ」
―話が矛盾している。筆写本で対馬は全て日本領土になっていると今言ったばかりではないか。
「その通りだ。しかし、その筆写本は全て捏造(ねつぞう)された可能性が高い。数年前に国会図書館の206号室の独島特別展示館で、フランス語版の原本を探し出すのに成功した。対馬の色は、韓国領を示す色で彩色されていた。私はこの地図を原本だと確信している」
―対馬が韓国領土と表示されていれば原本で、そうでないものは何らかの手が加えられたものと決め付けるのは、論理的とは思えないが。
「記録によると、1806年にあるオランダ人が林氏の原本地図を一つだけ欧州に持ち帰った。これを持ってクラフロトという東洋学者が現地の偵察などを 行った後、1832年にフランス語版を作り上げた。国会図書館のフランス語版がまさにその地図だ。古書収集家のハン・サンボク先生が国会図書館に寄贈した そうだ」
*説明;そもそも昨年も説明しましたが、KlaprothのTrois Royaumesには、対馬は日本の領土であると記載がありますし、Klaprothが参照したと思われる林子平の三国通覧図説の本にも、対馬は日本領土という見解を示している記述が当時既に載っています
2011/05/11 日本, 国際公認地図通じて `対馬島は朝鮮島` 認定 の嘘
金大領は悪質な人間なのか、オーストラリアで購入した三国通覧図説の附図を根拠に「対馬が朝鮮領土」であると主張しているのですが、この KlaprothのKlaprothのSAN KOKF TSOU RAN TO SETS ou apercu general des TROIS ROYAUMES を読むと
対馬は日本の一部であるとの記載があるのですが、それを意図的に無視しているようです。
IV. La province de Thsiuan Lo
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A L'époque des cinq petites dynasties (postérieures) qui ont régné en Chine, elle fut incorporée à celui de Kao li. - D'après les cartes, les limites du royaume de Tchao sian étaient celles-ci; droit au nord elles suivaient la direction des monts Tchhang pe chan, au sud elles traversaient la frontière du Thsiuan lo, à l'occident ce royaume était borné par la Mer; l'Île de Toui ma tao (Tsou sima) et les autres Île du Japon, situées au-delà de la mer de Tchao sian sont as sud-est, et vis-à-vis du port de Fou chan de la province de Khing chang. Les navires japonais viennent au port de Four chan, mais il ne leur est pas permis de dépasser le Thsiuan lo pour arriver à la mer occidentale.
IV. Thsiuan 道(慶尚道?)
(略)
中国が支配した5つの小さな王朝(後期)時代までに、この州は高麗(朝鮮?)の一つに編入されました。 - 地図によると、朝鮮の王国の範囲は、以下の通りでした; 正北は、Tchhang pe chan(長白山)の方角、南に、全羅の境界が横切って、王国の西は海によって制限されています。対馬とその他の日本の島々は、朝鮮海(峡)の南東先に位 置し、慶尚道の釜山港と対峙しています。(翻訳:Kaneganese氏)
Klaprothの三国通覧図説の本は林子平の文章とは異なっていますが、林子平の「三国通覧図説」にはどう書いてあるのか、確認してみましょう。
林子平 「三国通覧図説」九州大学デジタルアーカイブ
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/sangokutu/index.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/sangokutu/page.html?style=a&part=1&no=1
朝鮮八道 http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/sangokutu/page.html?style=b&part=1&no=7
その国九州の北に在肥前国唐津より壱岐島江海上十三里、壱岐嶋より対馬嶋江海上四十八里対馬嶋豊野浦より朝鮮の東港釜山港江四十八里と云ドモ四十里に不足
対馬豊之浦より朝鮮の東港釜山港とかかれております。つまり、対馬と朝鮮の間に日本と朝鮮の国境があるという認識が記載されています。
つまり、Klaplothの本にも、林子平の本にも、対馬は日本領土という認識が記載されているため、日本が改ざんしたという金サンフンの主張は、正しくありません。
そこで、ハン・サンボク氏(72)に電話インタビューを申し込んだところ、1980年代初めにオーストラリアで購入したもので「1832年の印刷本」に なると説明してくれた。しかし、当のハン氏は「地図で対馬が韓国と同じ色の黄色で塗られているからといって韓国領だと主張できるかどうかは疑問」との反応 を示した。
以下はキム大領とのインタビュー。
―韓国の国会図書館に保管されたもの以外に、他のフランス語版の原本が発見されたことはないのか。
「フランス語版は全部で数十部製作されたと記録されている。しかし、筆写本以外には発見されていない。『小笠原諸島』をめぐり米国と領土交渉を行った日 本代表が、1863年にフランス大使を訪ねた。同代表がフランス語版を回収し、廃棄した可能性が高い。その直後に日本は対馬を日本の領土として帰属させて いる(1868年)。これに前後して、対馬を日本領と表記した筆写本が一挙に作られたのだと思う」
*説明;そもそも日本の代表がフランス大使を訪ねたときにフランスから地図を回収した話は確認が取れない単なる金サンフンの妄想です。それに、世間に出回っている多くのKlaplothの地図を回収するのは不可能です。
―林氏の日本語版原本は直接見たことがあるか。
「日本語版でも、対馬が日本領となっている筆写本だけしか出回っていない。東京の国立国会図書館に原本が保管されているというが、確認できなかった。し かし、林氏が作成した『朝鮮八道地図』の原本は見つけた。林氏の故郷の仙台にある東北大学博物館のインターネットサイトで見つけた。大学側が“原本”と紹 介していた。その地図でも対馬は朝鮮領と書かれていた。私がこれらの資料を根拠に2010年末に論文を発表すると、1カ月もたたずにインターネットに掲載 されていた地図が削除されてしまった。その部分は『ノーイメージ(写真なし)』になっていた」
*説明;東北大学のデジタルアーカイブを確認しましたが、ノーイメージではなく、キチンと掲載があります。東北大学狩野文庫は、以前新サイトへのデジタルアーカイブの引越しを行っていたので、そのために金サンフン大佐は見ることができなかっただけでしょう。しかし、それを悪意のある陰謀論的な解釈を持って説明するのがこういった歴史歪曲プロパガンダを多様する韓国人の常套手段です。
東北大学付属図書館 おしらせ 2010/04/27
http://tul.library.tohoku.ac.jp/modules/newdb/detail.php?id=76
狩野文庫データベース お知らせ [2010/04/27] 当データベース収録コンテンツは「東北大学デジタルコレクション」の「狩野文庫データベース」へ移行しました。旧サイトは2010年中に停止予定です。
新サイトには、キチンと画像が展示されています。
1.まず東北大学のデジタルアーカイブの検索画面を開く
http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/meta_pub/G9200001CROSS
2.1の画面に林子平と入力すると、リストが出てくる。
朝鮮八道之圖 / 林子平友直 / 3-9318-1 / 画像あり をクリックすれば、対馬、というか朝鮮半島近くにある離島が黄色く着色されている古地図が出ます。
そして、
日本接壤地圖(三國通覽圖説附圖寫) / 林子平友直 / 3-9368-1 / 画像あり をくりっくすれば
朝鮮半島が緑色、対馬が赤色の地図が出てきます。
―対馬の領有権についてよりも、どうして現役軍人が対馬の研究に没頭するようになったのか気になる。
「2008年初めに米国ジョージワシントン大学で研修を受けていたときのことだ。ニューヨーク・タイムズに歌手キム・ジャンフンさんが出した独島の広告 を目にした。民間人もこうして努力しているのに、現役軍人として何か寄与しなければという気がした。ジョージワシントン大学は故・李承晩(イ・スンマン) 元大統領が通った大学で、同元大統領が政府を樹立した後『対馬返還』を要求したことを思い出した。何が根拠で、そうした主張を展開したのか知りたかった」
故・李承晩元大統領は、大韓民国政府の樹立(1948年8月15日)の3日後に行った初の記者会見で日本に『対馬返還』を要求した。翌年の年頭会見と年 末会見でも「対馬という韓国の失地を回復するのだ。日本人がいくら主張したとしても、歴史は変えられない」と主張した。こうした圧力を受け、日本の首相が 「実際に韓国人が2000人ほど居住している」という対馬の状況を天皇に報告している。しかし、6カ月後に韓国戦争(朝鮮戦争)が発生した。
―故・李承晩元大統領について何か資料はあったのか。
「ジョージワシントン大学の図書館7階の特殊文書室で、同元大統領の1907年の卒業アルバムを見つけた。そこには『李承晩氏に国籍を聞くときは失礼の ないように。彼の成績は全科目A、Bと、私たちの中で最も優秀だった。従って2年半で早期卒業できた。彼は歴史や哲学などのYMCAとの討論会で常に主要 メンバーだった』という文章が、当時同じ学科の同級生によって書かれていた。李元大統領が大学で歴史関連の2科目を履修し、その後ハーバード大学(修士) とプリンストン大学(博士)でも歴史について研究したことが分かった」
―それが故・李承晩元大統領の「対馬返還」要求とどんな関係があるのか。
「同元大統領が米国滞在時代に書いた『ジャパン・インサイド・アウト』(1941年)を見た。真珠湾への奇襲攻撃の7カ月前に、すでに日本が米国を相手 に戦争を起こすことが予測されていた。その書籍には『日本と朝鮮の間、朝鮮と満洲の間などに境界があったということを忘れてしまっているようだ。日本がこ うした境界を一つ、また一つと破りながら…』というくだりがある。同氏には実際に根拠があって『昔は境界線があった』と言ったはずだ。『対馬の領有権』に 対する主張も、こうした脈絡から出てきたのだと思う」
*説明;李承晩の願望から来る妄想・妄言は領有権の根拠にはなりません。
―キム大領には過去、同分野について専攻、または勉強した経験はあるか。
「全くない。ただ、そうした関心が生じたことで、米国で開かれたある古美術・地図展示会で1864年に発行されたアジアの地図を買った。地図の下には 『米国ペリー艦隊の日本の現地偵察と測量によって作成した。日本と条約が締結されることによって米議会の指示で、米国政府が作成した』と書かれてある。こ の地図には大韓海峡が現在の位置ではなく、対馬の南側となっていた。日本の領土は彩色されていたが、対馬は韓国と同じく無色になっていた。これが研究にの めり込むようになったきっかけだ」
―当時、米国としては東洋のどの国にどんな島が属していたのか、知る手段がなかったのかもしれない、とは思わないか。
「ペリー艦隊は前述した『小笠原』をめぐり日本と領土紛争を展開した当事者だ。当時、日本は林氏のフランス語版の地図を提示することで、交渉での勝利をものにした。そして、これを根拠に米国政府が製作した地図だった。だから対馬がどの国に属するかは知っていたはずだ」
*説明;全述のとおり、林子平の地図を見せたというのは小説の話であり、事実として認定されていません。
―地図一つだけで多くのことを推測し過ぎているとは思わないか。
「1855年に英国で製作された地図には、日本の各地方が区域別に番号で表示されている。その地図の下には『対馬と壱岐島は日本王国に含まれない』とある。1945年に国内で発行された『朝鮮解放記念版最新朝鮮全土』にも、対馬は韓国領と表記されている」
*説明;外国製の地図は、条約等の付属文書等に付随した物でなければ証拠能力を持ちません。
―しかし第2次世界大戦の敗戦国である日本と、米国などの戦勝国の間では、戦後処理のために「日本は韓国の独立を認め、済州島、巨文島、鬱陵島をはじめと する韓国に対する全ての権利と所有権、請求権を放棄する」とするサンフランシスコ条約(1951年)が締結された。この条約に『独島』と『対馬』は明記さ れていなかった。これで、故・李承晩元大統領の『対馬返還』要求も水泡に帰してしまったわけだ。
「私たちは『戦勝国』の立場ではなかったため、交渉には参加できなかった。また、何よりも朝鮮戦争の最中だった。外交的制約が多かったのだ。このため、 李元大統領は1952年に独島を含む『平和ライン』を設定したのだ。しかし、対馬を念頭に置き『この境界線は将来的に究明される新たな発見・研究、または 権益の出現によって発生する新たな情勢に合わせて修正できることを宣言する』と付け加えられている」
―対馬に対する領有権主張は本当に現実性があると思うか。
「当時のサンフランシスコ条約で『小笠原諸島』が米国に移った。しかし、日本の執拗(しつよう)な要求で1968年に引っ繰り返った。米国が過去の合意 を受け入れて、その島を日本に返還したのだ。当時領土交渉の基準となった地図によれば、対馬の領有権は韓国にあるのではないか」
*説明;SFPTにおける小笠原の扱いは、日本の存在主権を認めた上での米国へ施政権を貸与した性質の条約内容であり、米国の領土となったわけではありません。金サンフンはあまり研究せずに適当なデマカセを述べているように思えます。
キム大領からは引こうとする気配が一切感じられず、私はそのままソウルに帰るほかなかった。
崔普植(チェ・ボシク)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
こういう阿呆な捏造プロパガンダをわざわざ朝鮮日報の日本版に載せてしまう崔普植という輩も韓国の民族主義プロパガンダをあおるのに加担している悪質な人間です。