朝鮮王朝の鬱陵島捜討官の製作した鬱陵島詳細図

・1694年以降の朝鮮王朝の鬱陵島捜討官の製作した鬱陵島詳細図
・円型の鬱陵島圖形
・角型の鬱陵島地圖
・金正浩の地圖
・楕円形鬱陵島地圖
・朝鮮の地圖における鬱陵島と于山島(全地図リスト)

韓国側は、古地図に于山島と鬱陵島が記載されているので、その于山島は現竹島以外にありえない、と強弁する。韓国側は主に、朝鮮半島全体圖、および江原道圖などに記載された、簡略化された鬱陵島地圖をもちいて、于山島は現竹島であると主張する。 しかしながら、これには重大な隠蔽があった。すなわち、これら簡略化された鬱陵島のデザインは、実は朝鮮王朝の鬱陵島の捜討官(現地調査員)が鬱陵島を調査した成果である鬱陵島詳細圖を基にしたものだったのである。韓国側は、朝鮮王朝とは全く関係のない民間人安龍福が、「于山倭所謂松島」であるとの偽証を論拠に使い、長年これら鬱陵島詳細圖を用いて于山島が現竹島である主張を全くしなかったのには理由がある。それは、現地調査員の地圖には、于山島は現在の竹嶼(鬱陵島の北東部2Km先にある長細い島で、女竹(笹)が生えている島)であり、現竹島(鬱陵島の南東部90km先にある二つの巌島と無数の小さな岩礁から成り立つ島)でないことを完全に示しているからである。

1694年 鬱陵島事跡

1711年 朴錫昌 鬱陵島圖形 奎章閣所蔵  地図の地名と位置を検討


此の地図には、北西の香木亭の先にある小島、そして北部に穴の開いていることで目立つ孔巌、孔巌の隣には、海上に記載されているが、後の別の地図から判断するに錘峯などが書かれ、さらに二つの岩、そしてひときわその大きさが強調される竹巌が記載される。そして北東部に、後の龍巌となずけられる三仙巌(三岩は三つに見えるが、一つの燭台岩と、根元がほぼ同じ位置から生えている一根両頭の岩から成り立っている)、そして東部に所謂于山島、海長竹田が記載されている

この動画は、私が2009年08月に、鬱陵島と竹嶼へ実際に行って、撮影してきたものです。
竹嶼内部の画像だが、竹嶼には、確かに女竹(笹)が生えていたし、芋も生えていた。
参考に、于山島は、芋山島とも記載されることがある。
また、この小山の位置の形状に関しては(藪太郎氏の研究室)をご覧になってください。

YouTube 動画


また、南西部に二つ、南部に二つ、南東部に一つ、全て鬱陵島の近距離に記載されている、南5島が記載されている。この5島の正体はなぞであり、存在しないものだが、これは存在が信じられ、1900年まで朝鮮王朝の古地図に記載され続ける。
また、此の地図は、この地図にかかれた鬱陵島の範囲が、東西70里南北50里、周囲(四辺合計)200餘里と説明しており、この数値とほぼ同じ数値がやはり1900年代まで引き続き記載されるのである。
恐らく、この1711年の地圖を参考に作られたのが・円型の鬱陵島圖形の系統であると考えられる。
その後、鬱陵島の詳細地圖は、以下のような形状の変化を経て行く事になる。
・角型の鬱陵島地圖
・金正浩の地圖
・楕円形鬱陵島地圖

1780-1830年代、または1880-1890年代か?
1867.韓国中央図書館所蔵 鬱陵島圖形
 古2702-8
・鬱陵島視察を終えて、韓国中央図書館鬱陵島圖形を検証する

大于島と小于島と、鬱陵島本島の位置と竹嶼・観音島の関係を衛星画像と朝鮮王朝の政府の公式な命令によって派遣された鬱陵島調査員によるものと考えられる地圖
を比較したのが左の画像である。






此の地図にも、北西の香木亭の先に小岩が記載され、香木亭と玄石龜尾の間に孔巌が記載される。孔巌と錘峰の間に二つの岩または陸の山の小岩が記載され、天底龜尾の前にもやはり岩の記載がある。 ついで竹巌と思われる蟻竹巌が記載され、つづいて燭台岩と龍岩(今日の三仙岩と思われる)が記載される。
此の地図で注目したいのが小于島の存在である。この形状、位置をみれは、それが現在の島項/観音島を指しえている事は明白だが、1711年から始まる鬱陵島詳細地図には、この観音島は島として認識されてこなかった。此の部分は、はたから見ると、観音島と鬱陵島をつなぐ瀬戸(浅瀬)が鼠の後ろ首、うなじの形をしており、島に見えず、ただの岬の一部分に見えるのである。
また、同様に最も顕著な最大付属島として、竹嶼が「大于島」と記載されている。
此の地図には南の5島も記載されていない。しかしながら、目立つ南西部の岩と南東部の岩はしっかりと記載している。地名情報、および鬱陵島の付属の小岩の情報が1711年の地図よりも多い

各河口および入り江には名前が記載され、その使われている龜尾事体(この地圖とこの文章だけにこの字が現状確認されるのみ)と、地圖に書かれた山頂の赤い○しるしと記録中の朱砂峯など、1831年の報告に唯一残っている事体と一致する。
1831.05.14.江原監司 尹聲大 以 鬱陵島 搜討馳啓
狀啓以爲今年搜討 三陟營將 李慶鼎 去四月初八日率員役到泊於 鬱陵島黃土龜尾 看審島形則屛風巖在其右 黃土窟在其左山頂香木 非不交翠而皆是短矮進上 香木 盡日搜括僅斫原數仍向玄石龜尾 則可友魚百十爲群吼哮如牛或砲或棒捉得二首仰看最高之峯是謂 朱砂峯 而環一島蹤跡殆遍搜察備至而幸無頉處矣本島圖形進上元封 紫檀香二吐 加封十吐 靑竹三箇 石間朱六升 可支魚二領 依例自臣營一一尺 量後上送于 備邊司

これと同じような地理情報が確認できるものは以下のようなものがある。
1827.05..19.江原監司 鄭元容 以 鬱陵島 搜討馳達
狀達以爲鬱陵島搜討間二年擧行自是定式而今年搜討三陟營將 河始明牒呈內四月十六日與倭學崔甲文及所率負役沙格等八十人分載四船二十三日泊于本島看審則左有黃土窟右有屛風石黃土邱尾中峯爲五里而中有可墾田畓處或有古人所居之基址前進至浦口壁上有進上香木可封者故斫取後至萍卓邱尾則有大竹田而竹本稀疏取其中稍大者斫取而東至長沙邱尾望見竹田在於壁上俱是小竹入島三日詳察島內則周回殆近八九十里俱是石山而厥木則桑栢桐楡香榛之屬飛禽則烏雀鷗鶉走獸則猫鼠海錯則藿鰒雜魚又到可支魚窟則可支魚七八首驚人入海之際砲搏捉得二首二十七日還到泊於江陵而進上元封 紫檀香二吐 莫加封十吐 莫靑竹三箇 石間朱六升 可支魚皮二領 依例上送云本島圖形一本 可支皮二領 靑竹三箇 石間朱六升 紫檀香十二吐 莫一一尺 量後上送于備邊司


1807.江原監司 金履喬以鬱陵島潛船不飭之順天等三邑守令論罪馳啓狀
 啓以爲鬱陵島搜討間二年擧行故依例發關分付矣越松萬戶 李泰根牒呈以爲去三月二十六日與倭學 李馥祥及員役沙格幷七十二名分載四船發行四月初七日到泊于本島遍審島形則左有黃土窟右有屛風石黃土仇味中峯似近三十里而群峯崎屹泉水淸冽間有人家居址可田可畓爲四十餘石落傍有香木亭而有香木之斫置者又有可支魚皮捉置者此是潛船之所爲北向十餘里矗石特立於大洋之中中有通船之孔名曰孔巖轉向錐山巖巖形果如立錐南有天底仇味 谷口深邃爲十餘里于山島周回爲二三里許南至都庄仇味深入谷口則有竹田而多被潛船之亂斫屢日環島詳細搜探則潛船捉得合爲十四隻事拯驚駭十四隻船主等欲爲 縳來則萬戶帶去之東萊倭學 李馥祥 蔚珍沙格李己丑 興海沙格金允石等與潛船船主雄唱雌和非但顯有扶護之意潛船沙格等一百五十餘名都聚一處呼天曰必死聲動一島爻象危怖外雖若畏之狀而實有恃衆無忌之慮萬尸所領 沙格亦皆暗聽倭學之指敎擧欲漫而彌縫手下聽令之員役只不過軍官鎭吏軍牢等合十一名而已實無抵當之勢不得捉來十二日四船還發十五日還鎭十四隻私船之潛入島中 事係變怪而倭學之符同潛船欲爲扶護者拯爲痛駭李馥祥捧賂錢十兩全鰒二十貼一一摘發而李馥祥之欲爲防口員役十一名處所給全鰒五貼五串亦爲査出幷爲執留以待處 分潛船十四隻船王等姓名年歲居住成冊一件及島中所産進上紫香元封二吐加封十吐可支魚皮二令靑竹三箇朱土六升本島圖形幷依例上送云自臣營上送于備邊司搜討法 意本自嚴重而興陽 長興 順天等三邑私船之潛入島中採取禁物已是罔赦之罪及其現捉也締結倭學欲爲圖免互相綢繆不爲就捕者事未前有大關變怪東萊倭學 李馥祥則渠以搜討行帶率員役目見潛船居間捧賂欲其掩迹者究厥所爲節節痛惡興海沙格金允石蔚珍沙格李己丑等則甘聽倭學之指嗾同心和應之狀亦爲可駭故李馥祥 金允石 興陽船主金番金等長興船主鄭支平等順天船主全光 良守等十六名爲先移文于各該道使之一倂捉來與蔚珍沙格嚴覈得情照法嚴勘計料越松萬戶 李泰根則稱以彼衆我寡無以抵敵幷與船主而一任放過疲軟拯矣方自臣營拿致嚴棍癸亥年搜討時潛船十二隻之現捉者卽興陽 長興 順天等三邑之船漢也曾未幾何又出於三邑海堧頑俗之不畏法姑捨勿論當該地方官之不爲察飭誠極疏忽不可尋常置之興陽 長興 順天等三邑守令罪狀請令攸司稟處○義禁府啓言宋祥濂今方待命拿囚趙台錫 李時在任所請拿來允之

1794.06.03江原道觀察使沈晋賢狀啓言
 二十二日寅時, 怒濤漸息, 只見遠海之中, 二隻船帆自南而來。 格軍輩擧手指東曰: ‘彼雲霧中隱隱如雲者, 疑是島中上峰也。’ 萬戶詳細遠望, 則果是島形也。 親自擊皷, 激勵格軍, 卽爲到泊於島之西面黃土邱尾津。 登山看審, 則自谷至中峰三十餘里, 而山形重疊, 谷水成川, 其中有可作水田六十餘石下種之地。 谷則狹窄, 有瀑布, 而左爲黃土丘尾窟, 右爲屛風石。 其上又有香木亭, 故斫取香木, 而以間年斫取之故, 漸就稀少。
二十四日到桶丘尾津, 則谷形如桶, 前有一巖在海中, 與島相距可爲五十步, 而高近數十丈, 周回皆是絶壁。 谷口巖石層層, 僅僅攀登而見之, 則山高谷深, 樹木參天, 雜草茂密, 通涉無路。
二十五日到長作地浦, 谷口果有竹田, 非但稀踈, 擧皆體小。 其中擇其稍大者斫取後, 仍向東南楮田洞, 則自洞口至中峰爲數十里許, 而洞裏廣闊基址, 顯有三處, 可作水田數十石下種之地。 前有三島, 在北曰防牌島, 在中曰竹島, 在東曰瓮島。 三島相距, 不過百餘步, 島之周回, 各爲數十把, 險巖嵂屼, 難以登覽, 仍爲止宿。

1786.07.04原春の監司、李致中の復命(日省録)
原春監司 李致中 狀啓 鬱陵島 搜討乙巳年爲次第而因嶺東 慘歉前 監司 徐鼎修 狀聞停止今年搜討官當次 越松萬戶 金昌胤牒呈內四月十九日候風于平海丘尾津二十七日午時分四船與倭學李裕文上下員役沙格竝八十名齊發二十八日卯時船格等指曰彼黑雲底乃島中上峯云云未過數時 最高三峯宛然入望四更未四船同聚悲喜交極各陳危怖之狀
二十九日解纜到苧田洞四船之人沐浴山祭後看審則自洞口至中峯二十餘里重峯疊嶂內外相連中有三峯 最秀此是一島之主鎭而洞裏石城痕周可數三里宛然猶存城內有大錐巖小錐巖石礎苧田等處土地平衍可墾田畓八九石落前進可支仇味則山腰有兩石窟其深難測可支魚驚 出投水之際砲手齊放捉得二首
五月初一日卯時轉向南邊倭船滄則自洞口至中峯三十餘里皆是殘山石城石塔石葬等遺址宛然轉向前面巖壁削列水邊到長作地竹林處則竹 林稀疏元無體大者北到天磨仇味
初二日平明省審則有巖屹立水中狀如牛角名以帿竹巖 束有防牌島距大島爲三里許
初三日到玄作地石山重疊海邊則嚴石而已錐山則山形 奇異石色怪黑竹巖則兩巖屹立狀如帿竹傍有孔巖 中通小桶船到黃土仇味則山形重疊谷水成川可畓三十餘石可田數十餘石自洞至中峯三十餘里左右土窟巖石上有前日搜討官等題名
初四日轉向香木亭大抵一島周回可百 二十餘里南北七八十里東西六七十里四面皆絕壁山形箇箇峻險大溪小澗或瀑或流千丈銀虹萬斗噴玉自待風所望見樹木則冬栢側栢香木 楓木檜木欕木梧桐桑楡檀木羽蟲則島鷗毛族則㹨鼠而已海族則甘藿鰒魚可支魚搜探後同日申時一行齊登壇上謹祭海神掛帆旋歸
初五日酉時萬戶船還泊三陟遠德面長五 里戌時倭學船二隻來泊亥時下卜船一隻又來初七轉泊待風所初八還鎭所產可支魚 皮二令 靑竹 三箇 紫檀香 二吐莫 石間朱 五升本島圖形一件牒呈上送 備邊司 緣由馳啓


このあたりの記録が地圖の情報と大凡合致している。しかしながら張漢相の報告では地名の表記が無い上、1711年の朴錫昌の地圖はすこし地名が増えた程度に過ぎないので、この二つの鬱陵島図形が1711年より古い1699年と1702年とは考えられない。おおよそ地圖の情報と捜討官の報告が合致しているのは、この1780-1830年代の報告である。よって私は此の地図を1831年と考えている。 


1780-1830年代、または1880-1890年代
三陟博物館所蔵 鬱陵島圖形
・鬱陵島視察を終えて、再び三陟博物館鬱陵島圖形を検証

此の地図も上の韓国中央図書館所蔵の鬱陵島圖形とデザインがほぼ同じである。 香木亭の先に小岩は記載されていないが、北部に孔巌が記載され、ついで玄石仇尾に岩がある。ついで 二つの小岩もしくは小峰の間に、陸にある錘山が書かれており、その東には今日の竹巌と思われる蟻竹巌が記載される。その次が龍岩が記載されるが、なぜか三仙岩のうちの二つしか記載がない。 そして小于島であるが、この描写が非常に写実的である。こちらを見ていただくと判るが、観音島の地形を実に写実的に書いている。他の地図と同様に、最も顕著な最大付属島、竹嶼が「大于島」として記載されている。 
上の圖と同様に、南の五島は記載されていない。上の圖に記載された南東の岩は記載されていないが、南西にある岩は記載されている。

各河口/入り江にも固有の名前が記載さ


れ、これは上の圖と同様であることから、此の頃既に地名は固まっていたのではないかと考えられる。





大于島と小于島と、鬱陵島本島の位置と竹嶼・観音島の関係を衛星画像と朝鮮王朝の政府の公式な命令によって派遣された鬱陵島調査員によるものと考えられる地圖
を比較したのが上の画像である。









1882年 鬱陵島外圖

・鬱陵島視察を終えて、再び李圭遠の鬱陵島外圖を検証

日本の対馬藩と朝鮮東菜との間で、17世紀末に「竹嶋」(当時の鬱陵島の日本名)は朝鮮の帰属が外交交渉によってなされた。しかしながら、日本人は一時的には鬱陵島への渡航を停止していたが、それはいつの間にか再開していた。1834年には「松島(現竹島)」へ行くと嘘をついて「竹嶋(鬱陵島)へ渡航して、密貿易を実施したのが発覚して処刑された今津屋八右衛門は有名だが、1870年代辺りにはとにかく鬱陵島へ渡航していて、鬱陵島に「日本国松島」の碑文を鬱陵島に打ち込んでいる。 いずれにせよ、日本政府は朝鮮政府との話し合いで1881年、日本人を鬱陵島松島から撤退させる事になったが、それと同時期に鬱陵島へ派遣された朝鮮王朝の調査官である李圭遠が製作した地図である。

左上の香木亭の先の小岩は記載されていないが、孔巌と二つの半分折れている小岩が記載され、ついで陸地に錘峰を含む二つの峯が記載される。北東部には現在の竹巌と三仙岩が記載されている。
観音島はこの地図には、「島項」とされ、二つ記載されている。これは、観音島が西から見るのと東から見るのと、姿が違うからである。
そして他の地図と同様に、最も顕著な最大付属島である竹島(竹嶼)が記載される。

此の地図には、すでに于山島の名称が記載されていない。 1860年代の金正浩の大東地誌や、1870年代の朝鮮の官製の地圖では、地圖からは于山島が既に消えている。李圭遠の記録を見ると、「于山」は再び鬱陵島の古い旧名である」という三国史記のような解釈に戻った為だと思われる。(しかしながら、1890年代、再び于山島が竹嶼を示す地圖や認識が一時的に復活する)










こちらは、同じく李奎遠の鬱陵島内圖である。これは恐らくは羅里洞からみた各方角の峰が記載されている。

























このように、朝鮮王朝の捜討官が正式な調査によって製作した古地図は、現竹島が記載されていないばかりか、于山島は竹嶼であるということが明確に記載されているのである。これらの調査官の地図をもとに、それぞれの時代に鬱陵島の詳細図、拡大地図が製作され、さらにそれを簡略化して江原道圖や朝鮮半島全体圖に記載したのである。

是等の地図に関しての韓国側の言い訳は、「測量技術がない時代の地図」といういいけであるが、測量技術の有無は言い訳にならない。それは別項で説明する。
また、この地図がなぜ重要かというのは、これら鬱陵島図形は、空島政策中において、鬱陵島を監視していた朝鮮王朝の捜討官(現地捜索員)が制作したものだからである。 彼らの認識が、つまり鬱陵島の認識であるからだ。




香木亭




玄圃





錐山 小

孔巌


錐山 大


天府







三仙巌



観音島




竹嶼から対岸臥達里(船板邱尾?)と雄通邸尾、観音島

臥達里


芋田





芋洞と道洞の間







道洞







道洞~可頭峰


通九味・亀巌

通九味には、赤い土や洞窟の存在が確認されたとの事
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/index.data/11_d.pdf




南陽洞 ・獅子巌