度々、金文吉の報道で出てくる「雁道・韓唐」についてですが、それが記載されている古地図は、以下のようなものが挙げられます
なんどかこの雁道・韓唐の話が出てきますが、今回の2013/6/21の韓国報道を見て見ます。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1371740750/
・金教授がこの日公開した地図は1710年、華厳宗の僧侶、浪菓子が作っ た南胆部州萬国掌菓地図で独島を鬱陵島とともに韓唐と表示した。
とあるので、それでは南瞻部洲萬國掌菓之圖を見てみましょう。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/kochizu/gazou/lime/1-7.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/nansen/nansen-top.htm
隠岐の北、佐渡の西のところに確かに巨大な大陸の一部である「韓唐」が記載されております。
しかし、竹島は、二つの小さな島です。欝稜島は欝稜島、竹嶼、観音島などから形成される比較的大きな島ですが、もちろん竹島とも離れて存在していますし、かつ、朝鮮半島からも完全に孤立して存在している島であり、図のような、朝鮮半島にくっついている島ではありません。
つまり、「韓唐」が竹島である根拠はありません。
・1715年、オランダ人ネラドが作った日本帝国図にも 独島が韓半島から外延されているのは南胆部州万国掌菓地図のような脈絡」
・彼はまた「1787年、地理学者である石川流宣の日本海山潮陸図にも、鬱陵島と独島を韓唐とした」として、「韓唐は壬辰倭乱以後、朝鮮の固有名称」と付け加えた。
オランダ人ネラド と文中にありますが、レランドの間違いではないかと考えられます。
原文の添付がないので、金文吉の「ネラド」に対する主張が正しいのかどうか、確認はできません。
「1787年、地理学者である石川流宣の日本海山潮陸図にも、鬱陵島と独島を韓唐とした」として、「韓唐は壬辰倭乱以後、朝鮮の固有名称」と付け加えた。」という主張の真偽は現状確認できません。
ここではBARRY LAWRENCERUDERMANANTIQUEMAPINCeMapsに掲載されている
1740年頃作成と思われるものを見てみます
Adrien Reland / Reiner & Josua Ottens: Imperium Japonicum Per Regiones Digestum Sex et Sexaginta Atque Ipsorum Japonensium Mappis Descriptum Ab Hadriano Relando [with Provincial Names in Japanese Characters]
この地図自体は1740年頃作成か、とされていますが、その地図販売会社の説明に、この地図の初版が1715年とありますので、おそらくこのデザインの地図の話だと思われます。
The map first appeared in 1715 in volume 3 of Jean Frederic Benard's Recuiel de voiages. It was thereafter reissued by Reland and Wilehm Broedelet in a larger format in 1715, for inclusion in folio atlases. The plates from the enlarged edition were purchased by Joachim Ottens in about 1720 and thereafter reissued under his name and later the names of his sons, Josua and Reiner. Large inset of the area around Nagasaki and an ornate dedication cartouche, with about 20 coats of arms.
確かに韓唐が書かれていますが、隠岐の北東に巨大な島として記載されています。とても島根の竹島や欝稜島をひとまとめにした描写と結論することはできません。
先にも述べましたが、これは「ネラド」ではなく、Adrien Relandが正しように思えます。Adrean RelandのJapanicum Imperivuについては、石川流宣の地図との関連性が度々指摘されます。
本図は1715年にアドリアン・レランド(Adrien Reland, 1630-1706)によってアムステルダムで出版されたものを元にしている。本図の中でゾイターはレランドについては言及していないが、地図の成立につ いてのレランドの説明文は残している。それによると、レランドはオランダ東インド会社の高官だったベンジャミン・ダットリー(Benjamin Dutry)の蔵書から日本で作られた地図を入手しており、比較研究によりこの地図は石川流宣による『日本海山潮陸図』(1691年〔元禄4年〕)であっ たことが判明している。レランドはこの日本の地図を忠実に模写したため、それまでの西洋における日本地図製作が得てきた成果、例えば南西から北東に伸びた 日本列島の配置などは全く無視されることになった。本州は房総半島までで唐突に途切れており、東北諸州はその真上に密集している。他方、九州の描写の正確 さは、19世紀に至るまで凌駕されることがなかった。また、国名の表記に漢字を初めて用いたのもレランドであり、この他に、長崎から江戸までの定期的な江 戸参府の旅の途中でオランダ人が訪れた地名を加えている。挿入図の長崎湾もまた、オランダ人からの情報に基づくものである。本図において、地図の成立に関 する説明文上部の寓意像はゾイターによって加えられたものだが、日本人を描写した装飾画はモンタヌスの本(5. 参照)からレランドが取ったものをそのまま使用している。
http://www.yushodo.co.jp/nitiou/koti/koti-36.html
下記が、石川の作成した古地図です。
石川流宣の日本海山潮陸図(元禄4年、1691)は比較的いろいろな大学にありますが、明治代蘆田文庫のをみてみましょう。
http://www.lib.meiji.ac.jp/perl/exhibit/ex_search_detail?detail_sea_param=9,101,0,b
また、石川は、本朝図鑑綱目(1687)も出しているので、それも確認してみます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286174
隠岐の北東、因幡の北、佐渡の北西に「韓唐」が記載されております。
しかし、竹島は、二つの小さな島です。欝稜島は欝稜島、竹嶼、観音島などから形成される比較的大きな島ですが、もちろん竹島とも離れて存在しています。
日本人は、竹島は「二つの小さな島であること」をしっていますし、「朝鮮半島とも、欝稜島とも離れている島」と知っており、以下のような地図を残していますので、竹島や欝稜島を「韓唐」と表記した根拠はありません。
それでは、まとめてみます。
このように、金文吉が主張する「韓唐」が島根の竹島であると結論することはできません。
このようなデマコギーを何度繰り返すつもりなのでしょうか? これが韓国の学者のレベルなのです。
Wikipediaにおいて、韓唐について、
韓唐は、もともとは雁道とも表記されていたもので、、近世以前の日本人が北方に存在する信じていた架空の土地の名称である。江戸時代には韓唐(からとう)とも書かれ、中国においては月氐国(げつていこく)と同一視された。
とあるのですが、根拠資料が不明ですので後に調べておきたいと思っております。
参考:雁道について:雁道について/佐伯 正 http://www.lib.meiji.ac.jp/ashida/articles/report-2000/saeki/saeki.html
島根県竹島研究所 http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04-c.html