朝鮮鬱陵島一名竹島一名松島

現在作成中.

 結局、松島が何であるかを確認するために巡視をしようとした所、それもせずに「竹島と外一島」を太政官指令文書で関係ないとしたものの、やはり巡視する必要性から1880年、やはり巡視しに行く事となったが、鬱陵島へ軍艦天城は調査に行くも、リアンコルド岩つまり現竹島には素通りして無視している上、磯竹島略圖にかかれた磯竹島、「つまり元禄12年称スル所ノ竹島」であり、「松島ハ古代韓人称スル処ノ爵陵島」へ行き、この時初めて竹島松島が朝鮮鬱陵島」である、一島三名であるという結論を出したわけで、これにより外一島が何であるか道が開くようになった。
1881.竹島考証 北澤正誠
 「海軍水路局ノ水路雑誌ニ拠レハ明治11年6月海軍少佐松村安種天城艦ヲ以テ朝鮮海ヘ回航ノ際其乗員海軍大尉山澄直清海軍少尉補小林春三同福地邦県等ト松島ニ 赴キ吉田中尉ハ正午本艦ノ所在ヲ実測シ北緯37度48分ヲ得又午前7時58分ニ太陽高度ヲ測リテ本艦所在ノ東経130度32分ヲ得是ヨリ針路ヲ南東ニ変シ 水程儀ヲ以テ測リ航走スル20里松島ヲ去ル2里ノ処ニ達シ松島ノ中部ヲ正南ニ望ム云々トアリ是我軍艦松島ノ測量スルノ始メナリ 其後明治13年天城艦ノ再ヒ松島ニ航スルニ及ヒ海軍少尉三浦重郷等親シク其地ニ至リ実見測量スルニ及ヒ該島東岸ニ仮泊ノ地ヲ発見シ又松島ハ古代韓人称スル処ノ爵陵島ニシテ他ニ竹島ト称スル者アルモ蔓爾タル小島ニ過キサルヲ知リ事情愈明了ナリ由此観之ハ今日ノ松島ハ即チ元禄12年称スル所ノ竹島ニシテ古来我 版図外ノ地タルヤ知ルヘシ 是竹島古今沿革ノ大略ナリ」
元禄12年:1699年

また、この竹島考証を簡潔にしたものが、「竹島版図所属考」である。
竹島版図所属考
竹島一名は磯竹島又松島韓名は鬱陵島と云ひ又芋陵島と称する者此なり..........


この認識は、これ以降もたびたび朝鮮国蔚陵島即竹島松島」といった言葉が使われる事があるのでここで確認しておく。
また、この認識は、恐らくは李圭遠の鬱陵島調査後の朝鮮王朝から日本人の鬱陵島渡航の抗議に対する日本からの回答の際にも、朝鮮国所属鬱陵島(我邦人竹島又は松島と唱ふ)という文書が使用されているので、朝鮮側も、之に影響を受け「于山島+松竹島=倭松島/竹島+竹嶼=鬱陵島という認識 になる。

1881.08.20 外務省取調 北沢正誠「竹嶋版図所属考」「竹嶋版図所属考/を作成。
竹島一名磯竹島 又 松島と称す 韓名は欝陵島又芋陵島と称する者此なり・・・」

1881.08.29 朝鮮国蔚陵島へ本邦人民入往漁採せしにより往復書
外務省上申 (中略)

同国蔚陵島ノ儀ニ付同国政府ヘ送翰ノ件
1881.11.07 明治14年
外務卿井上馨→太政大臣三条実実
第2277号
外務省上申 朝鮮国蔚陵島へ我人民の渡航漁採するもの有之由に・・・・(中略)・・・・・別冊竹島所属考に明瞭なるか如く我の所謂竹島一名松島なるものにして右松島へは昨年末我人民つ渡航して漁採する者往々有之候得共追々帰航可致趣に相聞候果して然らば其昔及通知速に彼の猜疑を消するは今日朝鮮に対する我交際方略上必要の別紙外務省上申朝鮮国鬱陵島へ我人民渡航漁採するもの処分の儀に付同国政府へ送翰の儀は至當の件に付上申の通御聴許可相成哉左案取調仰高載候也 十四年十月七日 外務大臣井上馨
太政大臣三条実実殿
上申の通 明治十四年十一月七日

甲号 6月日 朝鮮国●書 沈舜澤→大日本国外務卿井上馨 (内容省略) djvu P2
無号 以書.......(省略)明治14年08月20日 外務卿代理外務大輔上野影範 (DJVU P3)
丙号 朝鮮政府へ送書簡案 日本国外務卿井上馨→朝鮮国●書 沈舜澤 
照会者、有我民入入 貴国欝陵島伐木精査者之由。前既経照覆。且以騎係創聞。一面?函。....................

竹島版図考 (DJVU P5)
竹島一名は磯竹島又松島韓名は鬱陵島と云ひ又芋陵島と称する者此なり..........
(同ページ下部に付箋あり)


1881?Undated.?石見国那賀郡浅井邨士族大屋兼助外一名ヨリ松島開墾願書
島根県那賀郡(なかぐん)浅井村の士族大屋兼助が、島根県に提出
 

1881.11.12. 「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」
発:  島根県令境二郎(=斎藤栄蔵:明治9年県参事として内務省に伺い書を出した。)
宛:  内務卿山田顕義 と、農商務卿西郷従道 に提出
件名:「(私注:大屋の)日本海内松島開墾之儀ニ付伺」
『明治十四(私注:1881)年、明治十五年県治要領』「明治15(私注1882)年1月の条」
「三十一日 去年(私注1881)十一月十二日付ヲ以「日本海内松島開墾ノ義」内務農商務ノ両卿ニ稟議 シ至是内務卿ヨリ其指令ヲ得ル如左 書面松島ノ義ハ最前指令ノ通本邦関係無之義ト可相心得依テ開墾願ノ義ハ許可スへキ筋ニ無之候事但本件ハ両名宛ニ不及候 事」

1881.11.12.「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」 (島根県令境二郎→内務卿山田顕義/農商務卿西郷従道 )
 当管内石見国那賀郡浅井邨士族大屋兼助外一名ヨリ松島開墾願書差出シ
 其旨趣タル該島ノ義ハ同郡浜田ヨリ海上距離凡八十三里酉戌ノ方位ニ当リ無人ノ
 孤島ニ有之候処、東京府下大倉喜八郎 設立ノ大倉組社員片山常雄ナルモノ木材
 伐採ノ為メ海軍省第一廻漕丸船ニテ本年八月該地渡航ノ際、右兼助浜田ヨリ
 乗込同航実地見分候処、其景況東西凡四五里南北三里余周廻十五六里、島
 山ニシテ海岸ヨリ頂ニ至ル凡一里半雑樹森在古木稠茂シ其間幾多ノ渓流
 ツハ平坦ノ地アリ地味膏腴水利モ亦便僅カニ一隅ヲ拓クモ数十町歩ノ耕地ヲ得ヘク
 其他採藻漁業ノ益全島ノ福利測ル可ラ ズ移住開墾適当ノ地ニ付同志ヲ浜田地
 方ニ募リ資金ヲ合セ自費ヲ以テ草莱ヲ開キ大ニ遺利ヲ起サントノ義ニ有之候処
 該島ノ義ハ過ル明治九年地籍取調ノ際 本県地籍編入ノ義内務省ヘ相伺候処
同十年四月九日付書面竹島外一島ノ義は本邦関係無之義ト可相心得旨御指令相成
 然ルニ前述当度大倉組渡航伐木候場合ニ就キ推考候得は、十年四月御指令
 後或ハ御詮議相変リ本邦版図内ト被定候儀ニ可有之歟、該島果シテ本邦地盤ニ候
 得は兼助等願意事業経費ノ目論見資金支出ノ方法及同志者規約等詳
 悉取調更ニ相伺候様致シ度別紙相添此段相伺候也
  明治十四年十一月十二日
        島根県令境二郎
 内務卿山田顕義殿
 農商務卿西郷従道殿
*この文章から見る限り、松島=鬱陵島をさす。)

1881.11.29 外務省記録8324「内務書記官 西村捨三の外務省書記官宛照会」
内務省が「竹島と松島を版図外とした先述の太政官の指令書」を島根県令から「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」に付して、大蔵組社員が船到伐木しているとして外務省に欝陵島の現状を照会し注意喚起を行った(25)。
(発:内務権大書記官西村捨三 →宛:外務書記官 )
島地第一一一四号
日本海ニ在ル竹島松島之義ハ別紙甲号  之通去明治十年中本邦関係無之事
 ニ伺定相成爾来然カ相心得居候処今般島根県ヨリ別紙乙号之通申出候次
 第ニヨレハ大倉組社員ノ者航到伐木候趣ニ相聞候就テハ該島之義ニ付近頃朝
 鮮国ト何歟談判約束等ニ相渉リタル義ニテモ有之候哉一応致承知度、此段及御照
 会候也
 明治十四年十一月廿九日 内務権大書記官西村捨三
 外務書記官
       御中

内務権大書記官西村捨三

別紙甲号
内務権大書記官西村捨三発、外務書記官あて照会 別紙甲号(太政官指令、明治10年3月29日)
甲号
 日本海内竹島外一島地籍編纂方伺(外一島ハ松島ナリ)
 竹島所轄之義ニ付島根県ヨリ別紙伺出取調候処、該島ノ義ハ元禄五年朝鮮人入
 島以来別紙書類ニ摘採スル如ク元禄九年正月第一号旧政府評議ノ旨意ニヨリ二号
 訳官へ達書三号該国来柬四号本邦回答及ヒ口上書等ノ如ク則チ元禄十二年ニ至リ
 夫々往復相済ミ本邦関係無之相聞ヘ候得共版図ノ取捨ハ重大ノ事件ニ付別紙書
 類相添 為念此段相伺候也
  明治十年三月十七日  内務少輔
    右大臣殿       (付箋書類略ス
指令
 伺之趣竹島外一島ノ義本邦関係無之
 義ト可相心得事
  明治十年三月廿九日

別紙号)
内務権大書記官西村捨三発外務書記官あて照会 別紙乙号日本海内松島開墾之儀ニ付伺、明治14年11月12日)
日本海内松島開墾之儀ニ付伺

 当管内石見国那賀郡浅井邨士族大屋兼助外一名ヨリ松島開墾願書差出シ
 其旨趣タル該島ノ義ハ同郡浜田ヨリ海上距離凡八十三里酉戌ノ方位ニ当リ無人ノ
 孤島ニ有之候処、東京府下大倉喜八郎設立ノ大倉組社員片山常雄ナルモノ木材
 伐採ノ為メ海軍省第一廻漕丸船ニテ本年八月該地渡航ノ際、右兼助浜田ヨリ
 乗込同航実地見分候処、其景況東西凡四五里南北三里余周廻十五六里、島
 山ニシテ海岸ヨリ頂ニ至ル凡一里半雑樹森在古木稠茂シ其間幾多ノ渓流且
 ツハ平坦ノ地アリ地味膏腴水利モ亦便僅 カニ一隅ヲ拓クモ数十町歩ノ耕地ヲ得ヘク
 其他採藻漁業ノ益全島ノ福利測ル可ラズ移住開墾適当ノ地ニ付同志ヲ浜田地
 方ニ募リ資金ヲ合セ自費ヲ以テ草莱ヲ開キ大ニ遺利ヲ起サントノ義ニ有之候処
 該島ノ義ハ過ル明治九年地籍取調ノ際本県地籍編入ノ義内務省ヘ相伺候処
 同十年四月九日付書面竹島外一島ノ義は本邦関係無之義ト可相心得旨御指令相成
 然ルニ前述当度大倉組渡航伐木候場合ニ就キ推考候得は、十年四月御指令
 後或ハ御詮議相変リ本邦版図内ト被定候儀ニ可有之歟、該島果シテ本邦地盤ニ候
 得は兼助等願意事業経費ノ目論見資金支出ノ方法及同志者規約等詳
 悉取調更ニ相伺候様致シ度別紙相添此段相伺候也
  明治十四年十一月十二日
        島根県令境二郎
 内務卿山田顕義殿
 農商務卿西郷従道殿

(*甲で、竹島外一島のうち、外一島は松島と言っている。そして、乙を見てみると、乙に出てくる松島は朝鮮鬱陵島であることがわかる。つまり外一島の松島は松島Dagelet島と認識しており、江戸時代の松島Liacnourt Rocksではない。


1881.11.30.
発: 外務省
宛 内務権大書記官西村捨三殿、外務権大書記官光妙寺三郎
明治十四年十一月三十日起案文 「公第二六五一号
   内務権大書記官西村捨三殿外務権大書記官光妙寺三郎へ
朝鮮国蔚陵島即竹島松島之儀ニ付御聞合之趣閲悉候右は先般該島江我人民ノ渡航漁採スル者有之趣ニテ朝鮮政府より外務卿江照会有之候付査究候処果シテ右様之事実有之趣ニ付既ニ撤帰為致爾後右様之儀無之様申禁ニ及置候旨該政府江照覆置相成候右回答申達候也
     十四年十二月一日
*朝鮮政府より外務卿江照会有之候とは、1881.11.07朝鮮蔚陵島へ入住の和我人民を撤諦せしめ爾後航行を禁する旨XX国政府へ照会す。の件であり、この文書には欝陵島の説明として、竹島版図考を添付しており、そこには『竹島一名は磯竹島又松島韓名は鬱陵島と云ひ又芋陵島と称する者此なり.........』とあること、そしてこの公2651号において、朝鮮欝陵島即竹島松島の儀とあること。
このことから、竹島=松島=朝鮮鬱陵島。
 江戸時代の松島すなわちリアンコールド岩は文章中には関係がないことがわかる。

http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/sugi/take_04g08.html
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/index.html

1882.06 明治15年06月、来日した修信使朴泳孝鬱陵島へ日本人が渡海することを抗議
修信使朴泳孝から外務卿井上馨に抗議
之を気に、朝鮮側でも、(江戸時代の)竹島=(現在の)松島=朝鮮鬱陵島=(于山国)という認識が生じたと思われる。つまり、「于山」は再び鬱陵島の古い旧名に戻る。

1883.「蔚陵島ニ邦人渡航禁止審査決議ノ件並ニ決済」
北緯37度30分東経130度49分の洋中に位する一の島嶼即ち日本称竹島或は松島朝鮮称蔚陵島の儀は 往古孰れの所領たる確定せすと雖も我慶長年間宋対馬守より朝鮮政府に照会し所属論を提出したれとも論旨徹せず其後元禄6年より同12年に至る迄7年間数回の往復を経て遂に両政府において其所属論を確定したることは別冊竹島版図所蔵考記載の通りなり」(原文ひらがな→カタカナ)

竹島一名は磯竹島又松島韓名は鬱陵島と云ひ又芋陵島と称する者此なり..........
(この下に、付箋あり:
明治十七年四月刊行の海軍省水路局水路雑誌代十六号に曰く松島、我隠岐国隠岐島より北東二分一、東一百三十四里、長門国角島より北二分一、東一百八十五里、釜山浦より北西四分三、北二百六十五里の処に在り。全島巖石より成るものの如く、而し樹木蔚然、周囲は絶壁多く唯南東面に少しく平坦なる処あり。我輩の此に到るや土人の小舎を構へ漁舟を造るを見たり。他の浜岸は小舟と雖も近つく可らさるか如し。東方に一小嶼あり。且奇石怪巖島を環らして星羅せり。我艦航走中此島頂の高度を測りて二千三百九十一尺を得たり。 )

1882.02.16.外務卿井上馨から太政大臣三条實美への朝鮮蔚陵島の件
(1883.明治十六年 公文録 外務省三月四月(1883年)
公第二七二号
我邦人朝鮮国所属蔚陵島(我邦人竹島又は松島と唱ふ)へ渡
航し妄に伐採木切木者有之趣X歳七月中朝鮮政 府より照会有之XX即ち申禁可XXXXXX置X
X尚又今般別紙甲に通り照会有之X就ては 今後尚渡航者有之Xteha彼政府へ対し交際上
不都合のみならす我政府の禁令人民に及はさ るを示すの体なきXはす依て朝鮮政府へは竹
添 理公使を以って申禁可XX返X差遣わし可 申しX且X未心得Xひ無之様乙号X禁X意を以
て内務Xより各府県へ諭達相成XXXX仕度XX も右諭達X蒙は近時京城辺乱に付彼国政府と
條約交換有之Xnite同国使節も滞京中の事に Xへは其等に因縁X様に世上へ感触を未しX
ては不都合に被存XX諭達文中にも該島に付 朝鮮政府とのX定せし年月を挿入致置従来朝
鮮国に属し特に今日に定むるものに非ざる を引Xし諭達の意は単に訣島の位置を明示し
渡航を禁するに止まるものに有之X右之次第 に付X発令の義も朝鮮使節帰国相成X上に有る
之X様仕度XX上申X也
 明治十五年十二月十六日 外務卿井山 馨

  太政大臣三條實美殿
 追て右諭達に背き該島に至り私に売買を為 す者有之Xは日韓貿易規則第九則に檬て処
 分し又樹木を盗伐する者有之時は我刑法第 三百七十三條に檬て処分すへきものと被存
 XX右X趣は予め司法卿より各裁判所に問 訓有之X様致XX
竹島版図考壱冊為XX考差出X
上申之趣聞届X事
 明治十六年三月一日

竹島一名は磯竹島又松島韓名は鬱陵島と云ひ又芋陵島と称する者此なり..........
この下に、付箋あり:
明治十七年四月刊行の海軍省水路局水路雑誌代十六号に曰く松島、我隠岐国隠岐島より北東二分一、東一百三十四里、長門国角島より北二分一、東一百八十五里、釜山浦より北西四分三、北二百六十五里の処に在り。全島巖石より成るものの如く、而し樹木蔚然、周囲は絶壁多く唯南東面に少しく平坦なる処あり。我輩の此に到るや土人の小舎を構へ漁舟を造るを見たり。他の浜岸は小舟と雖も近つく可らさるか如し。東方に一小嶼あり。且奇石怪巖島を環らして星羅せり。我艦航走中此島頂の高度を測りて二千三百九十一尺を得たり。 )


1883.03.01公文類集第七編
朝鮮国所属鬱陵島へ我民妄に渡航上陸するを禁す(1883年)(上と同じ)
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/2a11rui97/
朝鮮国所属鬱陵島へ我民妄に渡航上陸するを禁す
外務省へ稟告内達
我が法人朝鮮国所属鬱陵島(我邦人竹島又は松島と唱ふ)へ渡航し   
妄に伐木致候者有之趣客歳七月中朝鮮政府より照 会有之候間即ち申禁可致告相答置候処尚今搬別
紙甲号之通り照会有之候就ては今後尚渡航者者之候 ては彼政府へ対し交際上不都合のみならす我政府
の禁令人民に及はさるを示すの嫌なき能はす依て 朝鮮政府へは竹添 里公使を以て申禁可致X返翰
差遣はし可申候且此末心得達ひ無之様乙X草按之 意を以て内務卿より各府県は諭達相成候様仕度候
尤右諭達之義は近時京城変乱に付彼国政府と条約 交換有之際にて同国使節も滞京中の事に候へは其
等に因縁候儀に世上位置感角蜀を来し候ては不都合に 彼存候間諭達文中にもX島に付朝鮮政府との議定
せし年月をX入致置従来朝鮮国に属し特に今日に 定むるものに非らさるを引証し諭達の意は単に訣
島の位置を明示し渡航を禁するに止まるものに有 之候右之次第に付御発令の義も朝鮮使節帰国相成
候上に有之候様仕度此瑕上申候也(十五年十二月1十六日) 
 追て右諭達に背き訣島に至り私に売買を為す者 有之時は日韓貿易規則第九則に拠て処分し又樹
 木を盗伐する者有之時は我刑法第三百七十三條 に拠て処分すへきものと被存候間右之趣はXメ
 司法卿より各裁判所に内訓有之候様致度候
竹島版図考壱冊為御参考差出候
上申の趣聞 候事(十六年三月一日外務)
 別紙
甲号 
大朝鮮国X曹判書李 Χ昌 呈書
大日本国外務卿井上馨 閣下
 謹茲照会者廠邦鬱陵島非間界也頃因
帰国人X樹伐木早奉書契藉蒙
貴朝廷号許禁止X邦委遣検察使李圭遠周視島界X
  言切採乃前無改X
(以下略) 

竹島一名は磯竹島又松島韓名は鬱陵島と云ひ又芋陵島と称する者此なり..........
この下に、付箋あり:
明治十七年四月刊行の海軍省水路局水路雑誌代十六号に曰く松島、我隠岐国隠岐島より北東二分一、東一百三十四里、長門国角島より北二分一、東一百八十五里、釜山浦より北西四分三、北二百六十五里の処に在り。全島巖石より成るものの如く、而し樹木蔚然、周囲は絶壁多く唯南東面に少しく平坦なる処あり。我輩の此に到るや土人の小舎を構へ漁舟を造るを見たり。他の浜岸は小舟と雖も近つく可らさるか如し。東方に一小嶼あり。且奇石怪巖島を環らして星羅せり。我艦航走中此島頂の高度を測りて二千三百九十一尺を得たり。 )


1883.03.明治二十三年往復簿 一 内閣記録局(1890年)
(上と同じ内容)
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/2a357chou83/
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka40/2a357chou83/2.jpg
読めず↑
朝鮮国所属蔚陵島へ渡航上陸禁止の儀
に付十六年三月各地方長官へ當省よりの諭達文は入用に付宣X通可及送XXX照会之趣可添即別紙壱業及面送我問X査収有之度X也   明治二三年二月十日   内務省記録課
内閣記録局 記録課 此中

北緯三十七度三十分西経八度五十七分(東京XXXXXより起算)に位する日本称松島(一名竹島)朝鮮称蔚陵島の儀は  従全彼我政府議定の義も有之日本人民妄に渡航上陸不相成X條心得XX之様其管下へ諭達可X然XX内達X也
明治十六年三月三十一日 内務卿
各府県長官宛 親展


1883.09.朝鮮国蔚陵島出張檜垣内務少書記官復命ノ件
1883.09M16.M16.地図第四号(「朝鮮国蔚陵島出張檜垣内務少書記官復命ノ件」p11、p12
在馬関内務少書記官檜垣直枝ヨリ朝鮮国欝陵島近況報告ノ件
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090419335099548&
リンク中P54邦人滞在者への尋問中 「松島で伐木す。・・・・中略・・・・松島へ着以来」


1883.「松島景況書」(明治16年) 山口県の横谷佐一
約400人の日本人が8組の組織で伐木事業をしており、そのうち5組が山口県勢であると報告。

1899.10.01.日本地図にも載った我が領土(?)の蔚陵島から日本人追い払われる 外交の手抜かりからロシアの借地権確立 東京朝日新聞
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/54641015.html
元来、この島はかつてはその所属が明らかではなかった場所であり、日本の地図には「松島」あるいは「竹島」等の名で描かれていて、邦人はこれを日本の国土と思っていたに相違ない。


1899.10.14  朝日新聞 鬱陵島の近状(実検者の談)  http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/MYBLOG/yblog.html
▲位置と地勢 鬱陵島は江原道の東南に位置し、海里およそ100マイルのところにあり、我が日本の隠岐を離れること150マイルである。地勢は東西に長く南北に短い。島は二島から成っており、一つを松島と言い一つを竹島と言う。松島が最も広く竹島はその半分に過ぎない。この二島を総括すれば、周囲は18マ イルほどある。山の地勢は、岩石を並べたかのように山脈が岐立している。そういう地勢であるために大きな水源も無く、ただ谷間に小川が流れるのみであって 一まとまりの水田もなく山あいの畑が多い。ただし、それも東南の方面には多いが西北の方面はただ山野の一部が開拓されているのみで、山全体が樹木に覆われ て鬱蒼としており人が立つ余地もない。それで、これを東南の方角から望み見れば、黒ダイをまな板に乗せて尾の方から眺めたような景色である。その風景の素 晴らしさは我が国の安芸の宮島も及ばないであろう。
▲樹木の種類 樹木は、松、柏、ケヤキその他雑木類があり、日本にあるものとそれほど変わらない。中でもケヤキが最も多い。
▲人口 ここは、ほぼ日本人と韓国人の雑居地と言って良い状況である。しかし、韓国人は歴史的に(この島に)関 係があるので他の地方から年々移住が進み、現在は二千人に達しようとしている。日本人もかなり多く、千人前後が住んでいる。いずれも隠岐、島根の県人たち で、彼らは農業、商業に従事している。商業の品目は、砂糖、紙、酒類やその他の雑貨類などで、どれも韓国人に売っている。日本人と韓国人の間は極めて親密 で、互いの間に特段の争いが生ずる心配はない。
▲耕作の模様 当地で耕作されているのは粟と大豆である。一年間の収量ははっきりしていないが、三千石を下らないものと思われる。
▲漁業 漁業は多くは日本人が行っているが、船の数はわずかに三十(引用者注:「三千」のようにも見え・・・・ない?)艘程度に過ぎず、漁獲するのはイカ、アワビ、タイ、ヒラメなどで、住民の需要をどうにか満たす程度に過ぎない。
▲行政 当地には島司がいて行政を預かっている。しかしながら、海洋の一孤島であるため行政関係のことは韓国政府の指示によらず任意に処理しているようである。
▲気候は、春夏秋冬常に朝夕は冷気を感ずる。比較的、冷気が多いところである。元山地方の気候と比べれば大差はないようである。



1900.06.12.在釜山 領事官補 赤塚正輔 [鬱陵島 調査槪況 및 山林調査槪況 報告의 件]
鬱陵島ハ韓國江原道ニ屬シタル島嶼ニシテ松島又ハ竹島ト稱シ(東經百三十度八分二厘北緯三十七度五分)釜山ヲ距ル東北百八十哩境港ヲ距ル西北二百哩隱岐ヲ距ル百四十哩ニシテ東西凡六哩强南北凡四哩强海面ヲ拔ク約四千尺周圍凡二十哩峻硝澆确峯巒重疊鬱蒼タル天然ノ森林ニシテ日光ヲ見サルノ部分其半ヲ占メ老樹衰憊腐朽ニ屬スルノ今所モ尠カラサルナリ陸地ヲ距ル百四十哩ノ小島ナルヲ以テ海底深ク濃藍色ヲ呈シ風波常ニ甚タシク殊ニ灣形ヲナシタルケ所ナク船舶ノ碇泊ニ便ナラス


1901.06.15 黒龍界 韓国沿海事情 P13 第一巻第二号 葛生修吉 
鬱陵島(春川府直轄)平海郡、越松浦の南微北に当り、四十余里の海中にある孤島にして、別名之を武陵又た羽陵と称す、即ち古の于山国にして本邦人は松島と呼ぶ、 世人の本島は大小六小箇の島嶼、若くは竹島、松島の二島より成れりと為し、或は地図に之れを記入しあるは往々見る所なれとも、是れ等は何れも誤りなるが如 し。【改行】本島は●と金剛山脈の一支流れて東海に入り、対立して其頭を顕はしたるものにして、面積約七十五万方哩、中央に一の山岳Xふるものあり、其高 さ四千尺、峻厳突X四●之れを擁して。遠く望めば背螺の浮出したるに勢●たり又た船舶を碇泊するの良港無く、商船漁船の碇泊困難にして、風涛少しく荒るる ときは、島の北面に位する海濱の平地に船を引き揚げるを常すと云ふ、  
(*松竹二島が地図に書いて有るが、これ(二島説(竹Argonaut松Dagelet)は間違いであり、松=竹一島であることを説明している、つまり北沢と同じ解釈


1904.11.30 乙庶第152号(11.15庶1073号への返答)
本月十五日庶一〇七三号を持って島嶼所属の儀に付きご照会之趣了承、 右は我が領土に編入の上隠岐島の所管に属せらるるも何等差支無之其名称は竹島を適当と存候。
元来朝鮮の東方海上に松竹両島の存在するは一般口碑の伝ふる所、 而して従来当地方より(きへん焦)耕業者の往来する鬱陵島を竹島と通称するも、 其実は松島にして海図に依るも瞭然たる次第に有之候。
左すればこの新島を措て他に竹島に該当すべきもの無之、依て従来間称したる名称を転用し竹島の通称を新島に冠せしめ候方可然と存候此段及回答候也。          隠岐島司 東文輔   島根県内務部長 書記官 堀信次殿

(*つまり、朝鮮東方の海上に松竹二島が有ると考えられていたが、竹島と通称されていた鬱陵島が、実は松島(Dagelet)であり、松竹は「松」の一島であったため、余った竹島の名前を”新島”であるりやんこ島に名づけたのである。松竹が一島二名である北沢と同じ解釈





備考・例外 2島説
1850-1905年頃までの地図には、長赤水のかいた竹島松島の二島が記載され、本来はこれらは鬱陵島と現竹島のつもりで書いていたのだと思われるが、次第に・西洋の地圖と同じような、アルゴノート島を竹島と書き、これを蔚陵島と認識しており、本来の蔚陵島であるDageletを松島の認識で書くようになった傾向が見られる。ただ、この時点で日本は、Dagelet松島を、Hornet Rocksでもなく、鬱陵島でもない別の大きな開発のし甲斐の有る島と認識しているが、1880年以降、明確にArgonaut竹島は存在しない島となり、松島Dageletが鬱陵島で”Boussole Rock竹嶼”が竹島である事がわかり、北澤はそれ故「古来の竹島=現在の松島=朝鮮蔚陵島」一島三名の認識で完結し、官製の地図・文献においてはこれが使用されることとなった。 しかしながら、1880年の天城以前に流通していたArgonaut竹島とDagelet松島の地図は、1880年以降も民間ではそれら間違った地図を参考にした地図が結構発行されており、こういった間違っている地図、1880年以前に書かれた文献を引用したものを参考に引き続き記載している者はいくつかある。この件に関しては、1920-1930年代の学者が既に指摘している。

1879.日本地誌要略. 巻之1-6 / 大槻修二編,柳原喜兵衛, 1879
[第5冊]巻之5 中国 山陰山陽 隠岐
「抑・此國ハ、日本海中西邉ノ絶島ニシテ、其(註;隠岐)西北洋中ニ、松島・竹島ノ兩島アリ、共ニ朝鮮・地方ニ接近スレドモ、亦・居民・統屬ナク、各方ノ人、時に來リテ、海獵ノ場トナスト云フ、
地図 大日本全図
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/990339/4

是とセットのものが、以下の字引
1879.改正日本地誌要略字引 大槻修二著,永田方正解 大阪:柳原喜兵衛等,明12.2
隠岐 四郡 隠州
「竹島 国の海上220里にあり  松島 148里にあり
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762431/138
○居民・統屬ナク、スム人モナク又 何レノ国ニツクトイフモナシ、海獵ウミレウノバシヨナリ、
(*このことから、大槻が考えていた竹島はアルゴノート島、松島はダーシュレ島)

隠岐ーりゃんこ 距離 96Mile/84.29Seamile 上記松島(148里)に何れも合致せず

隠岐ーDagelet(松島) 149.77Mile/130.15Seamile 上記松島(148里)がMile計算で合致する

隠岐ーArgonaut(竹島) 215.11Mile/186.92Seamile 上記竹島(220里)がMile計算で合致する。

1880.『島根県管内地誌略』「隠岐国地誌略」 松江:清水清太郎,明12-13
福浦港は郡の西北にあり東西拾三町南北
九町深さ拾余等港中の小島に弁財天女の
神祠あり土俗相伝ふ二百年前伯耆米子の
人某氏幕府に請ひ毎歳竹島に渡するに必
す に?すそのX首のX表は当時彼島より。
Xし帰る所の木材なり。竹島は西北70余里
に在ると。
(竹島一島のみの記載)

1886.05.21 『改正日本地誌要略』大槻修二
「其西北海上ニ松嶋竹嶋ノ両嶋アリ、相隔ル殆一百里ニシテ、朝鮮ニテ蔚陵嶋ト稱ス、近來定メテ其國ノ屬嶋トナスト云フ、」

1889.06『改正日本地誌要略』訂2版 大槻修二 大阪:柳原喜兵衛,明22.6  地誌
「其西北海上ニ松嶋竹嶋ノ両嶋アリ、相隔ル殆一百里ニシテ、朝鮮ニテ蔚陵嶋ト稱ス、近來定メテ其國ノ屬嶋トナスト云フ、」

1888.11 朝鮮地誌略 陸軍参謀本部
鬱陵島 位置に武陵或は羽陵と曰ふ二島あり県の正東海中三百五十里に在り南北四十里周囲二百余里三峰●●●チ●へ南峯●卑し風日清明なれは則峯頭の樹木及ひ山根沙渚歴々見る可し風便なれは二日到るへし一説に于山、鬱陵、本一島たりと云ふ
于山島 鬱陵島に隣す
(*ここではおそらくは東国輿地勝覧を引用し、于山鬱陵は二島説と一島説を併記しているが、二島説の場合の于山島がどの島なのかはこの文献からは判別が付かない)

1889.『改正日本地誌要略』大槻修二
「其西北海上ニ松嶋竹嶋ノ両嶋アリ、相隔ル殆一百里ニシテ、朝鮮ニテ蔚陵嶋ト稱ス、近來定メテ其國ノ屬嶋トナスト云フ、」
(*ただしこの著者は、江戸時代の竹島松島と認識していた可能性もあるが、、「近来定めての部分は、外務省の結論である戦艦天城以降の竹島(竹嶼)と松島(朝鮮鬱陵島)の事と、1883年の鬱陵島引き渡し確認の話。

1890年頃・大朝鮮国全圖発行(朝鮮)
鬱陵島と于山島が相変わらず書かれている。

1894.07.朝鮮地誌要略 松本謙堂 著 鍾美堂
P11 位置・東限 130度
P15 島嶼 鬱陵(ウルエグ)
P66 江原道 特に記載なし。

1894.09.30.『新撰朝鮮地理誌』大田才次郎
江原道・島嶼 兄島・・・・・(中略)・・・・竹島、鬱陵島、汚山島は共に東海の中に散布セル諸島なり。
(*この記述からは、詳しい内容は伺えない・また、附属圖には、消えかかった竹島【Argonaut】と 松島【Dagelet/Ullungdo】がの記載され航路図がある。)


1894.三橋僊史著『朝鮮地名案内(『韓国地理風俗誌叢書』(222巻)で復刻)
    蔚陵島 朝鮮ノ東海岸ニアリ
    于山島 朝鮮ノ東方 蔚陵島ノ近傍
(二島説。ただし、于山島は傍らにあるという程度しか認識されていない。つまり于山島は何処かわからない。)

この記述は、1880年の韓仏辞典からの翻訳
OUL-NEUNG-TO 蔚陵島 Ile sur la cote est de Coree
OU-SAN 于山 Ile a I'E . de la Coree, pres de Oul-neung-to


1898.『新撰中地誌』 山上万次郎著 東京:富山房,明31
第二冊 付図 朝鮮 鬱陵島(松島)の記載。 現在の竹島にあたるリアンコールド岩は記載なし。
フルートン湾の記載
(鬱陵島松島一島の記載)

1898.朝鮮地図・1899.大韓地誌附属圖.1900 大韓與地図の発行。(朝鮮・大韓帝國)
鬱陵島の北東に、附属六島中もっとも著者な于山島竹島が記載される。


1903.『日本地理志料』邨岡良弼(原本捜索中)
「隠岐國」条「別有松島竹島、松島距隠地郡福浦、在六十九里三十五町、竹島在百里四町 - -」
(*栗田寛から『大日本史』「国郡志」の校訂を委嘱された、邨岡良弼が著した『日本地理志料』(1903, 複刻, 臨川書店, 1966)の「隠岐國」条には、『大日本史』に基づき「別有松島竹島、松島距隠地郡福浦、在六十九里三十五町、竹島在百里四町 - -」


1905.09.海獄史談 足立栗園述
竹島私獄の儀
元来松島竹島というは両島相ならんで、日本海の小嶋である所より自然日韓両属の姿を呈して居った。それ瑕令地勢上朝鮮の版図内であるとはいえ、元和年間にわがほうき米子の商人大谷甚吾、村川市兵衛等が官許を得て漁業を開いた土地で
(*二島説だが、彼が現竹島が江戸時代の松島であることを認識していたかは不明。また、竹島松島を鬱陵島と竹嶼と捉えていた可能性もあるが、どちらともいえない)


1907.『大日本地名辭書』吉田東伍.
土俗相傳ふ、福浦より松島に至る海路凡六十九里、竹島に至る、海路凡百里、朝鮮に 至る、海路凡百三十六里と、松島とは輿地勝覽の三峯島なるべし、明治十六年、更に日韓兩政府の談判あり、我往漁の舟を還して、再往するなからしめ、明に朝鮮の所屬と爲しぬ、
(*明治16年の談判とは、上に書かれた1883年の朝鮮蔚陵島一名松島一名竹島の件。 これに、アルゴノート島竹島と松島鬱陵島を混同して書いている感がある。何れにせよ著者はあまり事情を詳しく理解していないと思われる。)


Comments